「くそ……」
岩陰に身を伏せながら、俺は奥歯を噛み締めた。
呼吸が浅くしかできない。
背中が地面に縫い付けられたように重たい。
全身に溜まった疲労が、神経を鈍く蝕んでいる。
「――零士、何回使った?」
隣から、静かな声がかかる。
振り向くと、彼女――
ボロボロの前髪の下にある瞳だけが、いつも通りのまっすぐな光を宿している。
「三回……もう、限度だ」
「そっか」
華は短く息を吐くと、肩にかけた武器を握り直した。
「零士はここにいて。私は戦闘に戻る」
「待て……お前だって、もう魔力が――」
「大丈夫っ!」
遮るように彼女は笑った。
「これが終わったら、また私のこと撮ってよね。約束だから」
「……華!」
呼び止める声は、風に掻き消されていく。
「華……!!」
彼女の背中が、爆風の向こうに溶けていった。
届かなかった。
身体が動かない。
彼女はいなくなり、無力感だけが残った。
――そして、世界が崩れた。
飛び起きる。
全身が汗でびっしょりと濡れていた。
「……っ、は……はぁっ……!」
夢だ。
わかってる。
いつも同じ夢を見る。
心臓の音がうるさくてたまらない。
しばらく天井を見上げて呼吸を整える。
「……さすがに、シャワーだな」
ようやく吐き出した言葉は、乾いた独り言だった。
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頭がぼんやりしたまま、街を歩いていた。
ダンジョン配信の疲労と悪夢の余韻で、地に足がついていない。
こんな日は、甘いものでも入れた方がマシだ。
無意識に足が向いた先にあったのは、小さなカフェだった。
何の気なしに入店して、思わず固まってしまう。
「……香奈?」
店内で制服姿の香奈が、明るく客と話していた。
せわしなく動き回り、トレーを片手に笑顔を振りまいている。
「ご注文のキャラメルミルク、まいりまーす!」
店内に響く、透き通った声。
そうだ、ショウタが言ってたな。
バイトをかけもちしてるって。
「いらっしゃいませーっ! いちめ……い……」
ふとしたタイミングでこちらを向いた香奈が、目をぱちくりと見開いた。
「れ、零士くん!?」
目が合った瞬間、背筋をぴんと伸ばした。
「ちょ、ちょっと待ってて! 今休憩入るから!」
慌てて厨房の奥へ消えていった。
数分後、制服のままの香奈がテラス席に姿を現した。
「ここ、空いてるよ! ちょうど休憩のタイミングでラッキー!」
嬉しそうにイスを引くと、どさっと腰を下ろす。
午後三時過ぎ。
昼の混雑もひと段落し、店の前は穏やかな空気に包まれていた。
「ま、まさか零士くんが来るなんて……!」
香奈がテーブルについた瞬間、顔をパッと赤くした。
「はっ、すっぴんだけど大丈夫!? いや、いつもはちゃんとしてるからね!?
今日に限って寝坊しちゃって……ぐぅっ! くやしいっ!!」
頭を抱えて机に突っ伏す。
が、すぐに勢いよく顔を上げる。
「ま、待って! 制服マジックってあるじゃん!? むしろ普段より盛れてるかも!?
いや……え、襟しわしわじゃない? あーー!!」
「おい、落ち着け」
「う、うん……ご、ごめん……テンパってて……えへへ」
制服の裾を指でぎゅっと摘んで、もじもじする仕草が妙に小動物っぽい。
しばし静かになったかと思えば、今度は顔を上げて首をかしげる。
「ていうか、零士くんってこういうとこ来るんだね?
なんか、家と研究所の往復だけの仕事マシーンかと思ってた!」
「……言い方は引っかかるけど、否定できないな。
本当は今日も出勤予定だったし、AIDAの調整も進めたかったんだが」
カップを手にしながら、俺は少しだけ息をつく。
「昨日の配信の影響で、研究所前にまたマスコミが押し寄せてるらしい。
俺が出たら余計騒ぎになるってことで、所長から『今日はおとなしくしとけ』と」
「へぇぇぇ……あれ? じゃあ今日、休みだからわざわざボクに会いに――」
「それはない」
「ですよねーーーーっ」
頭を抱えて机に沈む。
テンポの良いその動きに、思わず吹き出しそうになった。
しばらくして、香奈が姿勢を戻す。
さっきまでとは打って変わって、少し真面目な目。
「……あの、ね。昨日は、ごめん。勝手に突っ走って」
俺は軽く首を振る。
「ケンタ達から話は聞いた。……俺も言い過ぎた」
香奈は「そっか」と呟いて目を細める。
「……妹さん、容体はどうなんだ」
「んー……あんまり、良くない。どんどん衰弱していってる。
かかる治療費も増えてきてて、零士くんのおかげで配信の収入も多くなったけど、それでもまだ手術費用は賄えない……て感じ、かな」
非情な現実に、俺は何も言えない。
香奈は、ほんの少しだけ肩を寄せるように身を乗り出してきた。
「もう、もう……無理なのかなあって。ちょっぴりだけ思っちゃってる。
でも、ボクね。できることは全部やりたいんだ。
さいごに後悔しないように……それだけなの」
彼女の言う
その思考を推測するだけで、俺の胸は締め付けられるように痛む。
「――香奈! こ、これ見てくれっ! あ……あれ?」
ふと、店の扉がガタッと開いた。
現れたのは、でかい図体をした男――ケンタだった。
突然止まったせいで、後ろから来たリサが勢いよくぶつかる。
「ちょっとケンタ! 急に止まらないで――って、ん?」
ケンタの肩越しにこちらを見たリサが、ぱちくりと数回瞬き。
そして、なぜかにっこり笑って。
「お邪魔しましたー」
ウインク一発、からの方向転換。
見事なまでのターンで帰ろうとする。
「いやいやいや! ちょっと待ってリサ! 違うの!!」
香奈が慌てて席を立ち、リサの袖をつかんで引っ張る。
「え、え、え、何か変な誤解してる!?
ち、違うからね!? 何でもないからね!?」
「えぇ~? いやぁ~? でも昨日の帰り『嫌われたかな……ぐすん』とか言って」
「あああああああああっ!」
香奈の慌てっぷりに、リサがクスクス笑いながらスマホを構える。
「そ、そんなことより今はこっちですよ! 零士さんもちょうど良かった! 見てください、コレ!」
未だ硬直したままのケンタをするりと潜り抜け、ショウタがスマホ画面を差し出した。
そこには、見覚えのあるブロンドの少女――天城ルクシアが映っていた。
「何コレ……あっ、ルクシアちゃんじゃん。緊急生配信……?」
香奈が眉をひそめる。
画面に映る配信の女王の背景には、重厚なシャンデリアと深紅のカーテン。
クラシカルな西洋調の空間に、完璧に作り込まれた舞台が広がっている。
彼女は深いワインレッドのソファに優雅に腰かけ、ティーカップを指先で転がしていた。
画面越しでも伝わる洗練されたオーラ。
すべてが計算され尽くした美。
そしてカメラ目線のまま、微かに口元を歪めた。
『それでは定刻になりましたので、始めましょうか』
その声は、まるで舞台女優の開幕宣言のように華やかで、冷たい。
視聴者数を見ると、【313,246人】の文字。
予告されていたわけでも、ダンジョンに潜るわけでもない配信に、これ程の人数が集まることが、彼女の注目度の高さを如実に表していた。
『綾瀬香奈さん。ひいては、そのお仲間“プリズム☆ライン”の皆さん。
もしこの配信を見ているなら――』
寒気を覚えるほどの存在感。
そしてその目が、俺たちを画面越しに射抜く。
『――最難関ダンジョン “アビス・ゼロ” を、私と攻略しに行きましょう』