――空気が、変わった。
肉のうねりとともに、あの化け物は姿を変えた。
崩れた外殻、赤黒い肉の塊、内部で脈打つ何か。
人のような笑みを浮かべた“仮面”が、中心に貼りついていた。
地を踏む音も、空気を切る風もない。
ただそこに“沈黙の暴力”が存在している。
俺の膝はわずかに震えていた。
全身が、無意識に拒絶していた。
「……香奈、ルクシア」
俺は仲間の名を呼ぶ。
二人は言葉を発することなく、こちらへ顔を向けた。
「悪いな……形態が変わって、読みが役に立たなくなった。何とか、生き延びてくれ」
心からの懇願。
もはや指示はできない。
二人を信じて、生きろと頼むしかない。
――そして、奴は動いた。
「来るぞっ!」
精一杯の連携、いや、連携とは言えない。
ただ並びたつ仲間に敵の襲来を知らせるだけ。
視界の端で、触手のような腕がにじむように伸びてくる。
黒煙ではない。
今度の腕は実体。
鞭のような挙動をしている。
直線でも曲線でもない、まるで空間を泳ぐような螺旋の軌跡。
こんな軌道、初見じゃ避けられるわけがない。
俺は思考を断ち切って地を蹴った。
地面を滑るように横に飛び、辛うじて回避。
香奈が俺の逆サイドに回り込み、アークブレードを構える。
「はああっ!」
香奈のアークブレードが閃き、斜めに斬りかかる。
けれどその刃が通ったのは、空っぽの空間だった。
ボスはその攻撃を予測していたかのように、身体を逸らしていた。
「っ、はずした!?」
香奈の声が震える。
こいつ、動きのタイプが完全に変わっている。
俺は第一形態に対し、複数の魔物の挙動をパーツとして解析し、それを組み合わせて対処してきた。
だが今、目の前にいるのは全てを内包した未知の生命体。
パーツごとではなく、ひとつの完全な個体として動いている。
「う、ぎぃ……!」
香奈の声が裏返る。
視界の端、肉のような腕が蛇のようにしなり、香奈を撫でるように通過。
ギリギリでかわしたが、彼女の袖が裂け、肌に赤い筋が走る。
「……くっ」
香奈がバックステップで距離を取る。
その表情には焦りと戸惑いが浮かんでいた。
俺たちは、戦えていなかった。
凌いでいるだけ。
耐えているだけだ。
敵の動きが見えない。
読みが利かない。
反撃すら成立しない。
「……このままじゃ、時間の問題だ」
体力が削られ、じわじわと包囲されるような焦燥感。
「AIDA。一応聞くが、行動予測は?」
『不可能です。挙動アルゴリズムが変質。従来の部位別解析が通用しません』
だよな。
今から読み直す余裕なんてない。
どうすべきか逡巡したそのとき、空気が張り詰めた。
嫌な予感が背筋を駆け上がる。
「……まずい!」
敵がこちらの視線から外れる。
狙いを変えた。
魔力の流れが、一点に集中する。
奴が向かう先にいるのは……ルクシアだ。
「ルクシア、下がれ!」
叫んだ時にはもう、奴は動き出していた。
空気を裂くように加速し、一直線にルクシアのもとへ。
俺も慌てて後を追うが、間に合わない。
「……来なさい!」
彼女も応戦する。
片手を天に掲げ、魔力を散らす。
「
無数の火炎弾が空中から降り注ぐ。
だが避けられる。
すべて躱される。
届かない。
ボスの顔に浮かぶ仮面が、笑ったように見えた。
「――っ!」
ルクシアの前に、その巨体が立ちふさがる。
触手が振りかぶられる。
殺される――!
「させるか!」
刹那、全身に魔力が巡る。
指先が震える。
心臓が早鐘を打ち、脳が焼けるような感覚。
「――
俺の放つ魔力が、世界を貫いた。
――
三秒。
空間から音が消える。
黒い粒子のような魔力が辺りを漂い、時間の境界がぼやける。
二秒。
俺は走った。
音も風もない戦場を駆け、今まさに殺されようとしていたルクシアの前に滑り込む。
一秒。
その身体を抱え、全力で大地を蹴って跳躍する。
ゼロ。
時間が、動き出す。
――ブンッ!
ボスの腕が空を裂く。
だが、そこにルクシアの姿はなかった。
俺は岩陰に着地し、彼女を下ろす。
「ッ……ハァ、ハァ」
これを使うと息が上がる。
魔力の消費もやはり著しい。
「まさか、あなた……」
ルクシアが眉を顰め、何かを言おうとする。
「後で文句は聞く。今は、死なないことだけに集中しろ」
残り、発動可能回数は二回。
その価値を、最大限に使う。