――ゴトッ。
硬質な音が静寂の中に響いた。
ガルヴァノの手から、スマートフォンが無残に滑り落ちる。
石畳を跳ねたその黒い塊は、まるで彼の威信そのもののようだった。
あの男の肩が、小刻みに震えていた。
強張った指先、見開いた目、蒼白に近い顔色。
あれほどの権力を持ち、傲然と俺たちを見下ろしていたその姿が、今や空洞の器のように崩れていく。
耳元のAIDAから、冷徹な音声が再生される。
『現在、世界全体の視聴者数は六百万人を突破。
SNSトレンドは“#殺人未遂配信”が世界一位。
配信を無断で録画・拡散する“違法ミラー”も急増中。
イグニス=ギア社に関する批判的投稿が一時間で約二百万件を突破しています』
さらに情報は続く。
『同社の株価は開示直後より急落を始め、約七十%の価値を喪失。
公式サイトはアクセス集中により現在ダウン。
金融機関と報道局への抗議が殺到しており、CEOの辞任を求める署名運動が始まりました』
まるで地獄絵図の報告だった。
AIDAの声は変わらない。
いつも通り、感情の起伏のない平板なボイス。
それが、逆に怖いほどの破壊力を持っていた。
「詰み、だな」
そんな確信が、ゆっくりと胸に降りてくる。
「……ば、かな……わ、私が……私のような者が……!」
ガルヴァノの呟きが空気を裂いた。
目の奥に焦燥と恐怖と、理解できない現実への拒絶が滲んでいる。
重ねてきた財と権力、それらが一瞬でひっくり返った事実を、脳が処理できていない。
だがその顔が、次の瞬間憎悪に染まった。
「……こんなことで……こんなことでっ!」
叫ぶように息を吐き、紫のビームライフルを握り直す。
銃口がこちらへ向けられた。
「もういい……もう全部どうでもいい……せめて貴様らだけはッ……ッ!」
「まずいっ!」
完全に自棄だった。
何をどうしても挽回できないと悟った者が最後に選ぶのは、破壊だけだ。
手が引き金にかかる。
こちらは戦闘不能同然。ルクシアも香奈も、満足に立ち上がれる状態じゃない。
間に合わない――!
「――させません!」
鋭く響いた声と同時に、転移魔法陣がまばゆく光を放った。
次の瞬間、その中心から一本の矢が高速で射出される。
風を裂く音。
空間を割る衝撃。
目にも留まらぬ速さで、それは一直線にガルヴァノの右腕を貫いた。
「ぐ、あああああっ!!」
悲鳴とともに、ビームライフルが床へと転がった。
そのまま蒸発でもしたかのように、彼の威圧感が霧散する。
直後、魔方陣から三つの影が飛び出した。
「えっ、当たった……! け、けけっ計算通り、ですっ!」
口調の割にテンションが振り切れているのは、ショウタだった。
ボウガンを抱えながら、足取り軽く跳び出してくる。
「へへ、迷子を迎えに来たぜ! 香奈、零士さん!」
豪快に笑いながら飛び込んできたケンタは、反動のついた突進そのままにガルヴァノを組み伏せにかかる。
「香奈ーっ! 超心配したんだからぁぁー!」
リサが感情丸出しの叫びとともに駆け寄り、ライフルを蹴り飛ばす。
その動きに迷いは一切なかった。
三人は流れるような連携で、社長の両腕と胴をあっという間に封じ込めた。
「やめろッ! 離せッ! このガキどもがッ!!」
がむしゃらに暴れるガルヴァノ。
だが、もはや社長という肩書きは何の抑止力にもならなかった。
床にねじ伏せられたその姿は、ただの暴徒。
汗に濡れた顔、乱れた髪。
唇の端には、噛みしめた血が滲んでいる。
かつての
威厳なんて、幻想だったんだ。
財も権力も、何もかも。
それを支えていたのは、たった一枚の“信頼”という紙切れに過ぎなかった。
そして今、その紙が破られた音を、俺たちは確かに聞いた。
そんな彼に、ルクシアが静かに歩み寄る。
「ガルヴァノ・イグニス」
ルクシアが一歩前に出た。
ガルヴァノから距離を取るように、けれど逃げるでもなく、毅然と立つ。
その姿は、どこか舞台に立つ女王のようだった。
戦いの疲れも、声には見せない。
気品と威厳だけを身にまとい、まっすぐにあの男を見据えている。
「没落しかけた天城家をあなたが一度、救ってくださったこと。
そのご恩に関しては、今でも深く感謝しておりますわ」
丁寧で、礼節を守った口調だった。
ガルヴァノは苦虫を噛み潰したように顔を歪めた。
だが、ルクシアの声には何一つ揺らぎがない。
「けれど、ビジネスパートナーとしてあなたの手法に心から賛同できたかと問われれば……それは否です」
ルクシアは静かに続けた。
「本音を言えば……あなた方に切られたら、また天城家が地に堕ちてしまうかもしれない。
そんな恐怖心に、私はずっと縛られていました」
そこまで言って、彼女はふっと微笑む。
「けれど、こうして実際にすべてが終わってしまった今なら、わかる気がするのです。
守られているだけでは、何も変わらないのだと」
少しだけ息を吸い、口元に涼やかな笑みを浮かべる。
「よって、専属ストリーマー契約は本日をもって破棄させていただきます。
正式な文書は、後ほど弁護士を通して送付させていただきますわ」
「ま、待て、貴様――!」
ガルヴァノが声を荒げかけたその瞬間、ルクシアはあどけなくウインクしてみせた。
そしてその声色に、あえて“軽さ”を乗せる。
「ああ、そうそう。たしか今、経済的にお困りでしたわよね?」
にこり、と。
かつての令嬢らしい、優雅で完璧な笑み。
「私、ちょっとくらいなら、貸してあげてもよろしくてよ?」
ガルヴァノの顔が、凍りついた。
怒りとも、恥辱とも、何か別の感情ともつかない。
ぐしゃぐしゃに歪んだ表情がそこにあった。
見ているこちらが少し引くほどの崩れよう。
「ナイス煽り……!」と、香奈が小さくガッツポーズしていたのが、ちらっと視界の端に入った。
その光景を見届けたとき、俺の耳元でAIDAの声が聞こえた。
『現在のコメント欄、極めて好評です。
:ざまああああああwwwwww
:ルクシア様よく言った!!
:AIDAかっこぎて鳥肌……
また零士様・香奈様・ルクシア様それぞれに対して、多くの称賛と支持コメントが寄せられています』
声は一度、僅かに間を置いて。
『やはり、人間の悲しい性というべきか。
頂点に立っていた者が転落していく様には、一定の需要があるのですね』
どこか諦めを含んだ、淡々とした語りだった。
「はは……そうか、良かったな」
自分の口から出た声が、まるで他人のものみたいだった。
乾いていて、感情のこもっていない返事。
それを最後に、視界が揺らいだ。
足元が、ぐにゃりと歪んだような錯覚。
地面が自分から離れていく。
身体の芯がすっぽり抜け落ちたように、力が抜けていくのがわかった。
――ああ、そうか。
本来なら一日に三回が限界の魔法を、十数回……いや、もっとかもしれない。
それでも止めなかった。
当然、代償はある。
これが、そのツケだ。
誰かが叫ぶ声がした。
地面を駆ける足音。
誰かが俺に駆け寄ってくる。
そんな気配が確かにあった。
だけど、もう俺には聞こえなかった。
見えなかった。
何も、感じなかった。
全部、終わったんだ。
そう思ったその瞬間、意識は真っ暗闇へと沈んでいった。