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第五章:再起の音

5-1

***


 俺はゆっくりと瞼を開けた。カーテンの隙間から朝の光が差し込み、薄く揺れる白いレース越しに、金色の光が部屋を淡く染めている。とても爽やかな朝――まだ誰も動き出していない、時間が止まっているような気配がする。


 隣には眠っている司の横顔。昨日と同じ部屋、同じ距離――けれどその空気は、どこか少しだけ柔らかい。


 司は静かに呼吸を続ける。閉じた瞼の奥で、彼はどんな夢を見ているのだろうか。


 そんなことを考えながら、音をたてないようにソファベッドから抜け出し、起こさないように忍び足でキッチンへ向かう。


 コーヒーの香りが漂いはじめた頃、背後から気配が近づいた。


「……おはよう、陽」


 司の声はどこか穏やかで、少しだけ照れているようにも感じられた。


「おはようございます。眠れましたか?」


「うん……悪夢を見ずに眠れたの、すごく久しぶりだと思う」


 それだけの言葉で、昨日までの彼との違いが伝わった。俺は微笑みながら、カップを差し出す。


「俺、朝の音が好きです。夜と違って、前に進めそうな感じがして」

「……そうだね。朝の音か……とてもいい表現だ」


 司は、ゆっくりとカップに口をつける。唇に触れた熱を確かめるように一口含み、ふと窓の方を見やった。


「まだ少し怖いけど……ピアノに触れてみようかな」


 その言葉に、俺の胸が僅かに高鳴る。


「弾きたくなったんですか?」

「わからない。ただ君がここにいて、音が……ちゃんと待っててくれる気がした」






 朝の光の中、司の指がゆっくりとピアノの蓋を撫でた。鍵盤の蓋を開ける音が、部屋の静けさと混じり合い緩やかに溶ける。


 司の指先が、鍵盤に触れようとして止まる。そこには“音”ではなく、“過去”が貼りついているようだった。


 彼の手が微かに震えているのを見、俺はなにも言わず、そっと椅子を引いて、彼の背中から少し離れた場所に座る。この空間に余計な雑音を入れないように、呼吸ひとつさえ丁寧に整えた。


「……変だな。手が……言うことを聞かない」


 ぽつりと落ちた声は、自嘲と焦りに揺れ動く。


 それでもひとつ鍵盤を叩く。けれどその音は、まるで浮き足立っているように響いた。美しい音だったはずのそれが、彼の耳には届かない。


 間違えた音がひとつ、またひとつ。たったそれだけのことで、司の肩が見る間にぎゅっと縮こまる。


 俺は立ち上がって、体を強張らせる彼の横に近づいた。


「司」


 その名を呼ぶと、小さく息を飲む。俺を見つめるまなざしは、複雑な心境を色濃く映していて、すぐにでも救ってあげたくなった。


「このピアノは、司の音を待ってます。間違ってもいい。怖くてもいい……ここにいる限り、その音は絶対に独りじゃない」


 司の横顔に、僅かに影が揺らめく。その手には、震えがまだ残っていた。俺はそっと、彼の左手に自分の手を重ねる。


「音が迷ってるなら、少しだけ調律しましょう。司の中の“基音トニック”がどこにあるのか、一緒に探していけばいいんです」


 しばらくの沈黙の後、瞳を揺らめかせた司が小さく頷く。俺はやんわりと手を離して、彼の背中を包むように、後ろから椅子の縁に手をかけた。


 ──そして司がもう一度、鍵盤に丸めた指を置く。


 最初の音は、恐るおそる触れた小さな響き。けれど、その響きに耳を傾けながら、彼はまたひとつ、勇気を出して指を進める。記憶の底から掬い上げるような旋律が、少しずつ、少しずつ、確実に蘇っていく。


《エリーゼのために》聞き覚えのある、どこにでもあるような一節――それでも、司にとっては「始まりの音」だった。


 正確ではない。奏でられる音は途切れ途切れで、リズムもかなり揺れている。それでも、そこに宿っていたのは──音楽を取り戻そうとする“意思”だった。


 司は、ふと顔を上げて俺を見た。


「……陽」

「はい」

「たぶん音が……戻ってきた。ほんの少しずつだけど、確かに……」


 その瞬間、部屋に流れた旋律は、まだ不格好ながらも美しかった。これは“正しさ”の音じゃない。“赦された”音だ。誰かに、そして自分自身に。


 滑らかに動く指先から奏でられた旋律が途切れる。静寂が戻ってきたけれど、それはもう以前の沈黙とは違った。


 司が小さく息をつく。


「ありがとう……陽がいてくれたから今日、ここに戻ってこられた」


 彼の目は、確かに“現在いま”を映していた。


「次はもう少しだけ、長く弾いてみる!」


 覇気のあるその言葉に、俺は満面の笑みを浮かべて頷いた。


 窓辺のレースがふわりと揺れて、朝の光が再びふたりを包みこむ。“再起の音”は、まだ頼りないけれど、確かにその部屋に生きていた。

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