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重たい照明が落ちた舞台袖。黒いカーテンの向こうには満席のホールと、静かすぎるほどの期待の空気が張り詰めていた。
「九条先生、五分前です」
スタッフが告げると、司は静かに頷いた。白いシャツの袖口を整える仕草は一見落ち着いているようで、指先の僅かな震えが目に留まった。
「司、緊張してるようには見えませんね」
俺がからかうように指摘すると、司はふっと息を抜くように微笑む。彼と出逢ったときには見ることのできなかった、とても自然でやわらかい笑み。それにつられるように笑いかけた。
「してるよ。君が思ってるより、ずっと。でも今日は逃げない。ようやく、それを選べる気がする」
その横顔には、もう仮面はなかった。ただ、音楽と向き合うひとりの演奏家として。そして、俺の前に立つひとりの男として。
舞台へと歩を進めようとする背中に、そっと声をかける。
「音が呼んでます。俺が調律したピアノが待ってますよ」
司の足が一瞬だけ止まり、けれど振り向くことなく低く、しかしはっきりと返す。
「……君の音も、そこにあるって信じてる」
その言葉が、俺の胸の奥に静かに響いた。
そして彼は舞台の中央へ、堂々と歩み出ていく。無数の光を浴びながら、音をその身に纏うように。
再び奏でられる旋律が、すべての沈黙を祝福に変えることを、俺は知っていた。