***
拍手が、しんとした静寂のあとに落ちてきた。
司が椅子に腰を下ろし、ゆっくりとピアノに手を添える。黒い鍵盤の冷たさや、白い鍵盤の無機質な感じに、もう惑わされることはない。迷いを脱ぎ捨てた指が、静かに鍵盤へと降りてゆく。
その瞬間、会場の空気がピアノの前に座るその男に、一斉に吸い寄せられた。
第一音――それはまるで、呼吸のようだった。低く、静かに、けれど確かに“生きている”と告げる音。軽やかな旋律ではない。技巧を誇示するような煌めきでもない。だがその音には、すべてがあった。
キズを負ったことの絶望、祈り、孤独、そして──愛。
胸の奥に、あの夜の言葉が甦る。
「――もし君の調律が、この部屋に僕を呼び戻してくれてるとしたら、君は“音”以上の存在かもしれない」
いま、九条司の音は確かに生きていた。鍵盤を這うように、叫ぶように、泣くように、そして最後には、やさしく微笑むように。
聴衆は息を呑んだまま、耳を澄ます。魂の深くに触れられた者だけが知る、静かな痛みとやさしさに包まれながら。
──そして最後の一音が、そっとホールに降りた。
……沈黙。
長く、深い、祈るような沈黙と独特な余韻。
その“間”は、いまの彼が表現できる音楽。すべての音が、そこへ向かって奏でられていたのだと、誰もが理解した。以前とは明らかに違う、
やがて、ひとつ、またひとつと拍手が広がり──割れるような喝采が、ホールを包み込む。