目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

5-3

***


 拍手が、しんとした静寂のあとに落ちてきた。


 司が椅子に腰を下ろし、ゆっくりとピアノに手を添える。黒い鍵盤の冷たさや、白い鍵盤の無機質な感じに、もう惑わされることはない。迷いを脱ぎ捨てた指が、静かに鍵盤へと降りてゆく。


 その瞬間、会場の空気がピアノの前に座るその男に、一斉に吸い寄せられた。


 第一音――それはまるで、呼吸のようだった。低く、静かに、けれど確かに“生きている”と告げる音。軽やかな旋律ではない。技巧を誇示するような煌めきでもない。だがその音には、すべてがあった。


 キズを負ったことの絶望、祈り、孤独、そして──愛。


 胸の奥に、あの夜の言葉が甦る。


 「――もし君の調律が、この部屋に僕を呼び戻してくれてるとしたら、君は“音”以上の存在かもしれない」


 いま、九条司の音は確かに生きていた。鍵盤を這うように、叫ぶように、泣くように、そして最後には、やさしく微笑むように。


 聴衆は息を呑んだまま、耳を澄ます。魂の深くに触れられた者だけが知る、静かな痛みとやさしさに包まれながら。


 ──そして最後の一音が、そっとホールに降りた。


 ……沈黙。


 長く、深い、祈るような沈黙と独特な余韻。


 その“間”は、いまの彼が表現できる音楽。すべての音が、そこへ向かって奏でられていたのだと、誰もが理解した。以前とは明らかに違う、体温ぬくもりを兼ね備えた司の音に、人々はそろって歓喜する。


 やがて、ひとつ、またひとつと拍手が広がり──割れるような喝采が、ホールを包み込む。

この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?