その夜は霧が立ちこめていた。
既に日付も変わろうという頃で、出歩く者の姿がまずない。
そんな中をふらふらしながらアーノルドは進んだ。
ランプ一つの頼りない明かりが霧をぼんやりと照らす。
やがて、目的の教会の前に到着した。
当然だが、既に閂がされている。それでも諦められなくて、アーノルドは木の扉を叩いた。何度も何度も、出せる力の精一杯を込めて。
音が町中に響く。なんて迷惑だろう。これはおおよそ正しい事ではないが……もう、そんなものどうでもいい。正しいか、正しくないかなんてもう、答えは出ている。
この想いも行動も、全てが間違っている。
それでも願うのだ。最後……せめて顔が見たいと。願いを込めて戸を叩くと、不意にその先に人の気配を感じた。
「どちら様ですか?」
「!」
その声を聞いた瞬間、喜びに体が痺れた。渇いた地に水が染み渡るようにじんわりと、深く心に入ってくる。
あぁ、この声が聞きたかったのだ。
「アーノルドです」
「アーノルド様!」
驚いた声の次に、ガタンと閂が外される音。そうしてそっと開いた扉の隙間から、彼の美しい姿が見えた。
煙るような白銀の睫に彩られた、アクアマリンの瞳。白い肌は真新しい綿雪のよう。長い銀の髪を一つに括り、白い簡素な寝間着姿の彼はやはりほっそりとしている。
ノアの姿を見た瞬間、アーノルドは泣いていた。唇を震わせ、目を見開き、何かを言いたいのに言葉が出てこず戸惑い、ただ頬を濡らす。
その様子に驚いたノアはアーノルドの手を引いて教会の中へと引き込んだ。
蝋燭の消えた礼拝堂はひっそりと厳かだ。明かり取りの窓や聖母像の後ろのステンドグラスから青白い月光が差し込んでくる。
その光の中に立ったノアは明るい所よりもずっと美しく、儚く思える。
触れたい。そう、強く思う。夢の中ではあんなに乱れていた。受け入れ、この腕に抱かれて泣いていた。
思わず手を伸ばし、細い手首を掴んでいた。それに驚いたノアの顔を見て、アーノルドは己が恐ろしく思え手を引っ込めた。
もう夢と現実の境が曖昧だ。あれは夢の中での事。現実のノアにあのような事はできない。分かっているのに手が出た。これでは自分自身が脅威ではないか。
「アーノルド様?」
「あ……ごめん、俺は……」
ただ、別れを言いにきたんだ。最後に顔が見たかったんだ。ただ、それだけだ。
でも言葉が出ない。震え、拳を握る。その様子を見たノアは再度教会の戸に閂をして、アーノルドに近付き硬く握る拳を包むように触れた。
「何か、言いたい事があるのですよね?」
「あ……」
言いたい事……ある。貴方を愛していると、伝えたい。己の間違いも認めたうえで、知って欲しい。ただそれだけだ。返るものなど求めないから……どうか。
「……懺悔室が空いておりますよ。よろしければ話を聞きましょう」
懺悔室。罪を犯した者がその罪を神に告げ、許しを乞う場所。
だがアーノルドは許してほしいわけではない。許されなくていいから、ただ知って欲しいんだ。
教会の片隅にある小さな木製の箱のような部屋。
そこには入口が二つあり、アーノルドはその一つに入った。
箱の中は大人二人が入れば窮屈に思える程度のスペースと、中央に仕切り。その仕切りには机が作られ、木製の椅子が置いてある。
仕切りはただの木の板だが、机の所に僅かに触れられそうな四角い切り抜きがある。目線や顔は知られず。だがそこに誰かが座れば切り抜きから相手の手が見えるくらいのものだ。
そして、仕切りに隠された向こうにノアが座ったのが、切り抜きから見える白い手で分かった。
「……聞いて欲しい」
「えぇ、なんでも」
「俺は……人を好きになった」
憔悴しきった声音で吐き出すように呟くと、仕切りの向こうで彼の気配が揺れた気がした。
「素晴らしい事だと思います。主は愛し合う者を祝福いたします」
「……男なんだ」
「え?」
「同性を……ノアを好きになってしまったんだ!」
「っ!」
明らかに向こうの気配が揺れた。一気に、勢いに任せて伝えきったアーノルドはようやく、胸に支えたものが落ちた気がした。少し楽に息ができる。
「……それは、いつからですか?」
「さぁ? 案外、初めからだったのかもしれない。初めて貴方に出会った時、俺は心の内側から震えたんだ。世にこのような美しい人がいるのかと驚嘆し、気をしっかり持っていなければ傅いてその足に口づけをしたくなった。それ程に貴方は美しい」
「容姿だけですか?」
そこは少し拗ねた声で問われ、アーノルドは目を丸くする。だが次には可笑しくて、声を出して笑った。
「まさか。貴方の慈悲深さにも、優しさにも、凜とした強さにも惹かれた。俺の悩みに真摯に向き合い、恐れる事無く言葉を返してくれたことも嬉しかった。叱ったり、案じたり……本当に、嬉しかったのだ」
短くとも濃厚に思える。ノアのお陰で視野が広がった。己の感情にも向き合った。誰かに反対されて諦めるのではなく、その意図を考えたうえで己の願いを通す事も考えた。
何より、この焼け爛れるような感情を抱かせてくれたただ一人の相手なのだ。
「……すまない。別に、何を求めたわけでもないんだ。ただ、知って欲しかった。俺の愚かな想いは主の教えに反する。知られれば教会は俺を異端として叩くだろう。だからずっと言わずに溜めていた。だが……苦しくてもう、息もできなくなっていたんだ」
自嘲が漏れる。分かっていて、それでも伝える卑怯な自分がいる。こんな事を言えば、気にしてくれると期待している自分が何処かにいる。
実際、ノアは黙ってしまった。押し黙る空気だけを感じる。今は、どんな顔をしているのだろう。苦いものを一方的に飲ませて……恨まれるだろうか。
「すまない、忘れてくれ」
「それは、あんまりな言いようではありませんか」
重苦しい中、笑いながら伝えた言葉に返る声。責めているようにも、困ったようにも聞こえる。
願わくば、共に落ちてくれないか?
なんて、言える度胸はアーノルドにはなかった。
「……主は、同性の愛を禁じております。不毛だと」
「あぁ」
それも知っている。だが……ならば何故、神は人を作る時に「人を愛するよう」作られるのか。「異性を愛するよう」としたらいいじゃないか。種は残して、いざ愛した人が同性であればその芽を狩るというのか。
身勝手な事だ。
「ただ」
「?」
「私個人の思いを伝えるのならば、愛が芽生えた時点でそこに生まれたものはあると、思っております。人が幸せを感じるのは愛する人と同じ時を過ごす時。何気ない日常に、彩りが加わる。それが誰かの心を救うなら、この感情に意味はあるのです」
「!」
その言葉を、アーノルドは固唾をのんで聞いた。そして、僅かな希望を抱いた。
いや、それにはまだ早い。彼の思いを聞いていない。愛情は一方通行ではいけないのだ。与え、与えられる関係こそが正しい。
でも、与えられない事が確定してしまったら……この心はどこへ向ければ良いのだろうか。
期待と絶望が交互に襲い、知らず体が震える。息が浅く、変な汗をかいてしまう。断頭台の上に立ち、今まさに審判を待つ罪人のように、アーノルドは祈るしかないのだ。
その時、手に触れる温もりを感じた。
見れば僅かな切り抜きから、白い手が差し伸べられている。それがそっと、硬く組んだ手に触れていた。
「私の心に彩りを添えてくださっていたのは、間違い無くアーノルド様ですよ」
「!」
その言葉に、アーノルドは乱暴に椅子を倒して立ち上がり、自分のいる部屋を飛び出して隣の部屋のドアを開けた。
ノアは恥じらうように白い頬をほんのり色付かせ、都合が悪そうに視線を逸らす。
だがそんなもの、アーノルドには何の抑止にもならなかった。
駆け寄り、強く折れそうな細い体を抱きしめ、深く唇を重ねる。驚いたノアの綺麗な瞳が僅かに見開かれ、次にはトロリと任せるように細められ、応じてくれた。
「ノア……ノアっ!」
「アーノルド様っ」
忙しく、キスの僅かな間に互いの名を呼ぶ。それだけで心の内が満たされ熱が増す。
薄い夜着の上から確かめるように触れる手。しなやかな彼の肢体が伝わってくる。
「ノア、愛している。俺は例え地獄に落ちても構わない。この想いを、遂げる事ができるのならば」
「一人で落ちる必要はありません。受け入れた私もまた同罪。共に、どこまでも」
背に触れる手が服を握り、縋るように抱きしめてくれる。アーノルドはその柔らかな首筋に華を散らし、己の欲望を彼の体へと伝えて行くのだった。