フード付きの外套を纏い、抜け道を通って城を脱出したアーノルドは急ぎノアのいる教会へと走った。嫌な予感は時間を追う毎に強くなっている。
そしてそれは、現実のものとなった。
「な……」
空を見上げ、アーノルドは呆気に取られた。
人々の逃げ惑う姿と、空を染める紅蓮が目に入る。黒煙は夜空を更に黒くしているように思う。
「何が……」
思わず呟き、逃げ惑う市井の人々を見て、アーノルドはその中の一人に声をかけた。
「すまない! 一体何があった!」
「貴方……あっ、殿下!」
その女性はきっと何処かの慰問でアーノルドを見たのだろう。顔を見て誰か分かったみたいだ。だからこそ縋るように腕を掴んだ。
「教会が燃えているんだよ!」
「え?」
ドクンと鼓動が一つ大きく軋んだ音を立てる。そうして再度空へと目を向けると、確かに教会のある辺りが赤くなっている。
「消火は! 怪我人は!」
「近くの人がやってるけど、あちこちで」
「あちこち?」
教会は礼拝堂に蝋燭を灯す。それが倒れて火事になる事は年間でもあることだが……それが複数箇所?
アーノルドの視線は厳しくなり、声を掛けた女性に礼を言って別の方向へと走り出した。
それは騎士団宿舎だった。
ここの騎士団はロイヤーの命に従う。大抵の者は知っている相手だ。
かれらも火事は分かっているのだろう。今まさに消火の為に飛び出そうという所だった。
「騎士団長!」
「殿下か! 悪いが今は」
「聞いてくれ! 火災が同時に、複数箇所起こっている可能性がある。場所は教会だ」
「! 分かった。不審人物がいたら捕らえて宰相閣下に引き渡しておきます」
「頼む!」
頼もしい言葉に頷き、今度こそアーノルドは聖ノアール教会へと走った。
◇◆◇
教会に放火の可能性を考え急いだが、聖ノアールは無事だった。
それどころか辺りはとても静かで、教会には明かり一つない。
だが、それが違和感だ。
ノアなら今頃門扉を開けて惑う人々を教会へと匿っている。ここが現状無事であるならなおさらだ。
そうしない何かが起こっている。
ゾクリと背を冷たいものが走ったと同時に、アーノルドは教会の扉を勢いよく開けた。
そして、眼前の光景に愕然とした。
月光に支配された教会に蝋燭の明かりはない。青白い光が床に静寂を敷き詰めている。
そしてそこに転がっていたのは、黒い外套を着た十人程の男達だった。
皆、既に事切れているのが分かる。
そして、そんな男達を屠ったのだろう人物は彼らの中心で一人立っていた。
踝まである黒い神父の服に銀糸の髪。天使のように美しいその姿は今、悪魔のようにも思える冴え冴えとした美を誇っている。
手には二本のダガーが逆手に握られている。
彼はゆっくりとこちらを見て、悲しげに笑った。
「いらっしゃい、アーノルド」
変わらない柔らかな音。だが表情は引きつった笑みを浮かべている。見せてはならない部分を見られた。禁忌に触れてしまった、そんな気がした。
「ノア」
「……もう、隠しても意味はありませんね」
そう言ったノアの姿が一瞬、ゆらりと陽炎のように揺れた。だが次の瞬間には驚くような速さでアーノルドの前に居て、そのまま床へと押し倒されていた。
背が気持ち悪い。ガタン! という音を立てて倒れたアーノルドの喉元にダガーが突きつけられる。それは恐ろしい事のはずだ。
だがアーノルドにはいつまでも、恐怖が訪れはしなかった。
「ノア」
優しく名を呼ぶと、頬に温かなものが落ちてくる。一つ、二つと。
見上げるノアは歯を食いしばり、綺麗な瞳を歪め涙を落としてした。アーノルドに馬乗りになり、今まさにダガーを突き立てんばかりの姿なのに、その切っ先は震えて定まっていないように思えた。
「ノア、泣かないで」
「っ! 私は!」
「俺が憎いなら、構わないから。この命は、ノアにあげるから」
それで、貴方の心が救われるなら構わないから。
そう言って目を閉じた。抵抗もせず、ただ時を待っているとカランと金属が床に落ちる音がして、次には縋り付くように胸に重みがかかり、わー! と泣き出す声がする。
背に手を伸ばし、やさしく叩いた。労るように、あやすように。その腕の中で、ノアは少しの間子供のように泣くのだった。
少しして、ノアは落ち着いて立ち上がりまずは教会のドアを閉めて閂をかけた。
アーノルドも立ち上がりノアを見る。彼は思い詰めたように下を見て、苦笑した。
「酷い姿でしょ?」
「少し驚いたよ。これはノアが?」
「えぇ」
それにしても鮮やかな手並みにアーノルドは苦笑する。一応、彼を守れるようにとここ一年少々、真面目に剣の修練もしてきたのだが……必要ないかもしれない。
それにしても彼らは何者なのか。
見ていると、ノアが男達の懐を漁っている。一人、二人とやって数人、何かを見つけてそれをアーノルドへと放って寄越した。
銀のメダルに二本のダガーが刻まれている。これは闇ギルドのものだ。
「闇ギルドと関わりがあり、彼らを動かす資金力があり、尚且つ私を襲う理由のある者。この条件で探ればおそらく、犯人の目星はつくかと思います。宰相は有能ですよ」
メダルを握り、アーノルドは頷いてそれを懐へとしまった。
「町の方も同じか?」
「あちらは違うでしょう。もっと素人の行いですし、あまりに目的が開け透けています。よっぽど貴方が教会や孤児院に関わるのが気にくわなかったのですよ」
「ソフィアか」
最初こそ清楚に振る舞っていたが、化けの皮が剥がれるとこんな事をしでかすのか。憎らしく思える。
「流石に、貴族街も近いこの教会に火を放つ事はできなかったみたいですね。燃え広がれば貴族の邸宅や高級店にも被害が出ます」
「何処だろうと放火は重罪だ」
一瞬にして多くの人の生活を破壊する火災は脅威である。それを故意に行えば当然死罪が当然となるのだ。
腰を上げたノアは疲れた顔をする。そこへとアーノルドは近づき、手をそっと握った。
「ノア、話を聞かせてくれ。貴方は一体、何者なんだ? アルバ商会とはどんな関係なんだ? 貴方は…………ミゼリー王女と関わりがあるのか?」
その問いに、ノアの目は明らかに冷たくなる。初めて会った夜に見せたあの目は、やはり気のせいではなかったのだろう。きっとあの時にはもう、彼は全てを見越して動いていたのだ。
もしかしたら、この愛さえも偽物なのかもしれない。
胸にズキリと痛みは走る。だがそれでも、アーノルドは構わなかった。
彼からの愛は偽物でも、アーノルドの愛は本物だから。
手を、もう一度強く握る。その手の上から、ノアが手を重ねた。
「懺悔室で、いいですか?」
その言葉に、アーノルドは静かに頷いた。