目覚めた時、目に映ったのは、うららかな微笑みをたたえた女性。
「ボク、は……?」
頭が霧に包まれたように、何も思い出せない。
自分が誰で、ここがどこで、目の前にいる美しい人が誰なのか。
ただ、本能が告げていた。この女性は、自分にとって掛け替えのない、大切な存在だと。
「お目覚めになりましたのね、あなた。ずいぶん魘されていたようだけど、もう大丈夫よ」
アルマは慈愛に満ちた声で、冷たい濡れ布巾でビドリオの額の汗を拭う。
その手つきは驚くほど自然で、温かく、安らぎが染み渡るようだった。
「キミは……誰なんだい? なぜ、ボクのそばに?」
「わたしはアルマ。あなたの妻よ。事故で記憶が混乱しているのね。でも、心配いらないわ。わたしがずっと、あなたのそばにいるから」
嘘だった。全てが。しかし、記憶を失ったビドリオには、それを疑う術も、力もなかった。
ただ、目の前の美しい女性が向けてくれる無垢な愛情に、渇いた喉が水を求めるようにすがりついていく。
それから奇妙な、しかしビドリオにとっては夢のような日々が始まった。
アルマは、完璧な理想の妻だった。
「ほら、朝ですよ。あなた。起きて?」
「う、う~ん。ごめん、もうちょっと……」
「ダメですよ、きちんとやるべきことをしなければ。ね? 朝食も出来てますから」
朝は羽毛のように包み込む声で起こしてくれる。
体調を気遣って栄養満点の食事を用意し、甲斐甲斐しく献身的に世話を焼いてくれる。
「ふふ、いつまで経ってもあなたは子供みたいねえ」
「えっと、ボクたちは昔からの知り合いなのかな」
「そうよ、姉弟みたいに育ったの。昔からずっと一緒」
「……そう、なんだ」
自分が天涯孤独の身の上であったことは、すぐに理解できた。
師アルベールの遺影には、どこか見覚えがあり、己の内に確かな敬意を感じた。裏切ってはならない人だとすぐにわかった。
「お父様があなたをお婿さんにって認めてくれたのよ」
ああ、きっと嘘ではないのだろう。ビドリオは自分の為すべきことをしようと思った。
工房での人形作りは、記憶がおぼろげながらも身体が覚えている気がした。
アルマに質問をしながらこなしていこうとすると、そっと寄り添いながら褒めてくる。
「あなたの作る人形は、本当に素晴らしいわ。まるで、魂が宿っているみたいね」
アルマの惜しみない賛辞は、心を満たしてくれる。自分がここにいても良いのだと教えてくれる。
本当は弟子に教えてやらねばいけないらしいのだが、ビドリオが体調を崩してからは、引き取ってもらっているらしかった。
「まだ、本調子ではないのでしょう? 記憶の方もおぼろげだし」
「そうだね。でも、デヴァンニとしてやらなきゃいけないんじゃないかな」
妙に責任を果たしたい、という意欲だけは尽きることはなかった。ビドリオは全うせねばならないという使命感に突き動かされそうになる。
しかし、危うさを諭して道を正してくれるのだ。
「生半可な指導をする方が、デヴァンニの名を汚すことになるのではないの? 焦る気持ちはわかるけれど、落ち着いて」
「あ、ああ。……確かにそうだ。指導をするなら、恥ずかしい振る舞いは出来ないね」
「ゆっくりと。そう、ゆっくりと思い出してきましょうね」
しかし、その偽りの楽園には、常に不協和音が紛れ込んでいた。
ある日、アルマは、戸棚の奥から古びた木箱を取り出してきた。
「ねえ、あなた。これ、昔あなたが大切にしていたものでしょう? 中を見てみてもいいかしら?」
ビドリオは、何も覚えていない。しかし、期待に応えたくて頷いた。
出てきたのは、繊細な作りのバレリーナの人形…その片方が、無残に壊れていた。
「あら……可哀想に。こんなに美しいのに、壊れてしまっているのね」
「――それは」
「何かメモが入ってるわね。『キトリとバジル』ですって。……あなたの作品かしら」
「さあ、ボクにはわからない」
「こんなにも素敵なんですもの、きっとそうね。でも、この有様ではもう直らないわね」
アルマは心から悲しそうな顔で、壊れた
ビドリオの心臓を、キュッと何かが締め付けた。この作品を見ると、息が苦しくなる。
またある時、アルマは手書きの楽譜を見つけてきて、鼻歌を歌った。異国の陽気で変わった旋律。
「この歌、誰かが昔よく歌っていたような気がするの。とても明るくて、優しい人だったわ」
「誰か、って。誰?」
「さあ? わたしは忘れてしまったわ。……あなたは?」
ビドリオの脳裏に、陽気な笑顔の青年と、共に楽しそうに笑うアルマの姿が、霞のように浮かび、そして消えた。同時に胸の奥底から、鉛のような罪悪感が湧き上がってくる。
「くっ。わ、わからない」
「そう。なら、たいしたことではないのかもしれないわね」
アルマは、決してビドリオを責めなかった。ただ優しく微笑み、忘れた過去の断片を、慈しむように示し続けるだけ。
時に、あふれ出る泉のように。時に、静かに燃える炉の炎のように。
しかし、それは千の針で心を縫い付けていく作業に他ならなかった。
ビドリオは、自分が何か取り返しのつかない過ちを犯したのではないかという、漠然とした恐怖と罪悪感に、夜ごと魘されるようになった。
「う、あっ。やめろ……それはボクじゃ、ないっ」
バレリーナの人形に、なにか細工をしている。工房の人形たちは、黙ってそんな自分を見つめている。
見知らぬ男の遺体が河に流れつく。同年代の弟子たちが囲み、自分は何もできずにいる。
カッと目を見開いて、ビドリオは上半身を起こした。汗が止まらなかった。
隣に寝そべるアルマが、目をこすりながら首をかしげる。
「あら、どうしたの、あなた? また怖い夢でも見たの? 大丈夫よ、わたしがいるわ」
「アルマ……怖いんだ。ボクはっ、ボクはっ!!」
「大丈夫、わたしは離れたりしないわ。だって、家族ですもの」
ビドリオの顔からは次第に生気が失せ、アルマの純真無垢な振る舞いが、甘い甘いの毒となり蝕んでいく。己が逃れられない迷宮にいることに、まだ彼は気付いていなかった。