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第7話 最高の復讐、贈る愛

 しんしんと降り積もる雪のように、身動きが取れなくなっていく。

 ビドリオが精神的に限界を迎えつつあったのは冬、雪降る夜だった。


 愛しの人形アルマは、心尽くしの気配りと共に、赤ワインをグラスに注いだ。ビドリオのお気に入りの銘柄だった。


「今夜は、なんだかとても幸せだわ、あなた。ずっと、こんな夜が続けばいいのに」


 薄紅の唇がふわりとほころぶ。人形アルマが幸せそうにするだけで、現実が色褪せる。

 ビドリオは降り注ぐ愛に酔いしれたかった。だが、なにかが間違っていることだけはわかってしまった。動揺するまま、しっとりと柔らかな掌を探し、指を絡めていく。


「アルマ……キミさえいてくれれば、ボクは、もう何もいらない。キミが、ボクの全てだ。もし、ボクが過去に何か過ちを犯していたとしても…キミは、許してくれるかい?」


 まさに、ビドリオにとって切羽詰まった懇願だった。溢れ出す赦しへの渇望。

 もう、ほとんど事実に近いところまで、ビドリオは推測していた。自分に何が起きていたかを。ただ一つ、妻の正体以外については。


 ――アルマだけは、ボクを見捨てず残ってくれたのだ。


 ビドリオはそう思っていた。

 ああ、そうだろう。ギリギリそうなるように計算したのだ。

 人形アルマは待ち望んでいた時が来たと、ぱあっと花を咲かせた。比例して硝子レンズの瞳に凍結湖に似た冷気が宿る。踏み割れば、容赦なく底へと引き摺り込むような。


「ええ、もちろんよ、ビドリオ。わたしはいつだって、あなたを愛しているわ」


 そして、はっきりと遠い昔のおとぎ話を寝語るように教えてくれた。


「あなたは、本当に全てを忘れてしまったのね。でも、いいのよ。わたしアルマが全部、覚えているから」


 人形アルマは、ビドリオが積み重ねた全ての罪を、感情のおりを一切含まぬ声で紡ぐ

 救い主である師への、許し難い背信行為。

 親友クアルソへの嫉妬が招いた、陰湿な罠。その後に訪れた悲劇的な死。

 そして、真実によって精神を蝕まれ、消えていった本当のアルマの存在。


「だから、あなたはわたしを作ったのよ。壊れた心では、もう苦しむことは出来ないから。忘れ薬を飲み干して、心を癒すようわたしに命じて。すべてはこの時のためだったの」


 役目をきちんと全うすることが出来た人形アルマは、誇らしげに褒めて欲しそうに語る。

 一粒一粒の告白は、研ぎ澄まされた硝子の破片となって、心臓を穿つ。修繕された硝子の心臓は、再び砕け散る時を迎えた。


「ねえ、喜んでください。わたしはちゃんとあなたを愛しましたよね? とても大切に出来ましたよね。誰よりも、なによりも。愛していくなかで、あなたのこともよく理解できたわ。……ビドリオ」


 固く閉ざしていた記憶の扉から、腐臭を伴う亡霊が這い寄る。

 指先の慄き、悪夢が告げる不吉な予兆、形のない罪悪感。散らばっていたピースが、今、抗いようのない必然性をもって、彼自身を塗り替えていく。


「嘘だ……そんなはずは……ボクが……ボクがそんなことを……」


 ビドリオはこの美しい楽園が、巧妙に作られた『処刑台』であったことを、ようやく悟ったのだ。

 目の前にいるアルマは、愛する妻ではなく、自らの罪が生み出した、最も冷徹な復讐代行者だった。


「どうして……どうして、もっと早く教えてくれなかったんだ……!?」

「だって、あなたは『最も苦しみ絶望するような方法で、私を殺しなさい』と命令したではありませんか。わたしはただ、あなたの命令に忠実に従っただけよ? だから、喜んで?」


 人形アルマは、どこまでも慈愛深く微笑んでいる。しかし、その笑みはビドリオにとって、死神の嘲笑となんら変わらなかった。


「ああっ……ああああぁぁぁっっ!!」


 ビドリオは、絶叫し、頭を抱えて床に崩れ落ちた。

 罪の記憶の奔流が、ビドリオの脆弱な支柱を完膚なきまでに押し潰していく。信頼できる妻の存在、幸福の絶頂から、絶望のどん底へ。

 これ以上の苦しみ、これ以上の絶望が、この世にあるだろうか。


 人形アルマは身体が触れ合うほどに近づき、ぬくもりなき手で、震える肩にそっと触れた。


「これが、あなたが望んだ結末よ、ビドリオ。あなたは、永遠にこの罪の記憶と共に生きるの。そして、わたしは『愛』を注ぎ続ける。決して死ぬことも、忘れることも、許されることもなく、罰を受け続ける。それが、あなたへの最高の『復讐』であり、そして……わたしからあなたへ贈る、永遠の『愛』の形よ」


 最高傑作アルマが出した結論は、永久に罪を許すことなく、可能な限り彼を生かし愛を囁く。

 それこそが、もっとも望ましい復讐の方法であるというものだった。

 だから、どう足掻いてももうビドリオは死ぬことなどできない。

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