デートと受験勉強を兼ねて図書館へ向かった俺たち。
図書館へはいつもの帰り道とは少しずれて、町の方へと堤防道路を歩く。
川沿いの堤防には、車も通れる幅の広い堤防道路が通っていて、平日の夕方でも自転車や通行人が行き交っている。道のすぐ脇には石畳のような斜面があり、その先に穏やかな川面が広がっていた。
いつものように並んで歩き、たわいのない会話をする。それは川の様子だったり、ランニングを兼ねた犬の散歩をしている人のことだったりと、特に意味はない。そんな、まさに〝いつも通り〟歩いていたつもり――だった、のだが。
「桜汰」
「え?」
突然耳元で智彰に名前を囁かれたと思ったら、軽く腕を引かれる。あ、と思った時には智彰の腕の中にすっぽりと納まっていた。
残暑の残る十月、じわりと背中に汗が滲むのは、暑いからか、彼の腕の中で心がざわめいたからなのか。
「自転車」
「う、うわっ」
いつから耳に心臓があったのかと思うくらい、鼓動がうるさく鳴り響き、思わず俺の口から上擦った声が溢れ出た。
「うわってなんだよ、うわって」
「わ、悪かったって……。その、あ、ありがと」
「ん」
俺の声に一瞬ムッとした様子だった智彰だが、お礼を口にするとそのまますぐに柔らかい声色が頭上から降ってくる。機嫌がよさそうでホッとするが、俺の体が解放されず、そわそわと落ち着かない。
(な、なんだ、この距離感)
確かに今までも注意力散漫な俺を、冷静な智彰が何度も庇ってくれていた。後ろから来る自転車や車に気付かず腕を引いて、ぶつからないようにとしてくれたことだってあったけれど、こうやって後ろから抱きしめるように庇われたことはない。しかも、現在進行形で抱きしめられている。
この今までとは明らかに違った対応に、俺の心臓はバクバクと音を鳴らしていた。
(というか、『ん』てなんだ、『ん』って! そんな柔らかい声とか聞いたことねぇんだけど!)
まさかこれが〝恋人の距離〟ってやつなのだろうか。全然落ち着かない。
「え、えっと、智彰サン……?」
「うん? あぁ、行くか」
「お、おう」
俺の声を合図に腕の中から解放される。そのことに安堵しながら再び図書館へ向かって歩きはじめる。どうしよう。これがもし続いたら俺の心臓が持たないかも。
いまだに早い鼓動から目を逸らし、さっきまでしていた〝いつも通りの会話〟を心がけるが、いつも内容がない会話がいつも以上に内容がなく、ぶっちゃけ何を話していたのか、喋ったそばから忘れていったのだった。
そして変に緊張した行きの道中をなんとか乗り越え、着いた図書館。
どうしてかものすごく疲れているのは気のせいではないだろう。
「す、涼しい……! 生き返るようだぁ」
「まぁ確かに蒸し暑かったけど、そこまでの暑さだったかぁ?」
感極まったような俺の声に怪訝な顔をする智彰。その顔をジロリと半眼になって睨んだ俺は内心で『誰のせいだ』と文句を言った。
久々に足を踏み入れた図書館はなんだか物珍しく、館内をぐるりと見回す。
時期的に受験間近だからか、図書館の一角に受験生用のコーナーができていた。気になって早速そのコーナーへ行ってみると、中学受験から大学受験までの様々な参考書や、過去の問題集なんかが取り揃えられている。ほとんどは高校受験用のものが多かったが、有名大学の過去問なんかも置いてあった。
その中の一冊に、見覚えのある名前の大学を見つけ、思わず手に取る。
(これ、智彰が受けた大学の……)
智彰は先に席の確保に行ってくれたらしく、近くにいないことを確認してからその参考書を捲ってみる。だが、正直わかる問題がひとつもない。
自分の学力とのレベルの差に愕然としていると、後ろから足音が聞こえたので慌てて片付ける。
足音の主は案の定、智彰だった。
「いいのあったか?」
「いや、そんなには」
「そうか――って、過去問あるじゃん」
そう言って智彰が手を伸ばしたのは、俺が受ける予定をしている大学名が書かれているものだった。
「あ、本当だ」
「本当だって……さっきまで何を見てたんだよ?」
俺の言葉に智彰が呆れた顔を向ける。その顔を笑って誤魔化しながら、智彰から過去問を受け取った俺は、何を見ていたかバレないうちに、ととっておいてくれていた席へと向かった。そして、席を見つめて呆然とする。隣同士だ。
「え……っと、席……」
「窓際でいいだろ。明るいし……って言っても、そろそろ暗くなり始めてるけどな」
ははっと笑い飛ばしながらさも当然のように席に座る智彰。そんな彼の倣い、俺も智彰の隣の席に腰を下ろした。
(いつもは向かい合わせだったじゃん)
いや、いつもはお互いが勉強をしつつ、わからないところを教えてもらうというシステムだった。そして今回勉強すべきは俺だけだ。それならば隣同士の方が教えやすいだろう。
本来なら智彰も、もしも推薦に通らなかった時に備えて対策をとったりしておくべきなのだろうが、本人も、そして俺も智彰が落ちるなんて全く思えないので、これはこれで正解かもしれない。
というか、もう座っちゃったし。
「とりあえず今日はどこまでできるか、折角だし過去問解いてみようぜ。まずはこのページから……んー、ここまでで。時間は十五分な、計っとくわ」
「お、おう」
(いちいち近いんだけど)
問題集が一冊だから、俺の手元の問題集を智彰が覗き込む。目の前をふわりと揺れる黒髪が鼻先をくすぐり、ドキリとした。
高鳴る鼓動が、智彰に聞こえていませんように。なんて、この願いごとは今日だけで何回目なのだろうか。
「じゃあ、スタートな」
そう口にし、解くページを決めてあっさりと智彰が離れる。夕焼けで智彰の横顔がオレンジに染まっていた。きっと俺の顔も今ならオレンジ色だ。
(だから、赤くなってもバレないな)
俺はそのことに安堵し、いつもより近いこの距離に激しく跳ねる鼓動を受け入れて問題集へととりかかったのだった。
――そして。
「ど、どうだ?」
「んー、まぁ初日ってことを考えたらギリ不合格かな」
「不合格なのかよ!?」
「ギリ、ってところを評価しよう」
「お、おぉふ」
智彰のその絶対喜ぶべきではない褒め言葉にガクリと項垂れつつ、俺は次の問題へと視線を移したのだった。
◇◇◇
「うわ、思ったより暗くなったなぁ」
「まぁ、もうすぐ十一月だしな」
図書館で勉強をはじめた時はまだ夕焼けだったが、閉館する十九時になる頃にはもう真っ暗になっていた。
「おー、星がすげー。流石田舎」
何気なく空を見上げ、輝く星たちを眺める。都会のようにあまり高い建物や大きな商業施設がないこともあって、空には星がくっきりと輝いていた。
(これが、智彰の目指している世界、か)
本人は相変わらず認めてはいないが、宇宙物理学の教授をしている父親を追っている智彰は、中学の時は天文部に入っていたくらい星が好きだった。まぁ、天体望遠鏡も壊れていて何も活動していないような部活だったけれど。
「あれがカシオペアだな」
「えー。どれ?」
「ほら、あっちの北のやつ」
「そもそもどっちが北かわかんねぇ……」
智彰の指が示す方を必死に見るが、どの星も大きくて輝いており、正直違いがわからない。
「んで、カシオペヤの近くにラケルタ座ってのがあって――それがあれな」
「おぉ……」
(わかんねぇ)
「ラケルタ座はワニトカゲを意味する細長い星座で、ほら、あの並んでるやつ」
「そもそもワニなのか、トカゲなのか」
「そもそも論なら、ワニトカゲとかいないけどな。ポーランドの天文学者が作ったんだよ」
「ワニトカゲを!?」
「いや、星座を」
「星座を!」
思わず目を見開いた俺に、ははっと笑った智彰は、再び星へと手を伸ばす。今度は星を指し示すためではなく、まるで掴もうとでもいうように、手のひらを広げていた。
「カシオペアはさ、50から550年前の光の集合体なんだよ」
「何光年、ってやつ?」
「そう。んで、ラケルタ座の星たちは100から200年前の光が多い」
智彰の説明を聞きながら、俺も彼のように輝く星へ手を伸ばす。
眩しいくらいに輝くその星たちには、当然ながら手なんか届かない。
(そもそも今見てる光も、ずっと昔のものなんだよな)
すべてが過去のその星たちは、俺たちを照らしながら、まるで俺たちの未来を示しているようにも見えた。