あの夜、真司は帰ってこなかった。
私はいつの間にか眠りについた。
再び目覚めたとき、すでに薄明かりが差し込んでいた。
床の上から体を起こし、蒼汰の部屋に置かれたおもちゃや絵本を眺め、視界が再び涙でぼやけた。。
わかっている。
倒れてならない。
娘を失った私は、もうこれ以上、息子まで失うわけにはいかない。
階段を下り、額の傷はすでに乾いていた。
医療キットを取り出して傷を手当てし、キッチンに向かってうどんを作った。
腹に受けた一撃は予想以上に深刻で、下着にはうっすらと血がにじみ、私は消炎鎮痛剤を飲み込んだ。
そのまま、家を出て昔の家政婦たちを探しに行った。
以前は五人いた。
けれど、今は一人も見当たらない。幸いなことに、私は彼女たちの住所をすべて控えていた。
朝から夕方五時まで、誰一人見つからなかった。
引っ越していたり、契約を切られていたり。
仕方なく、私は真司のもとへ向かうことにした。
山徳グループのビルは、空に向かって高く伸び、真司がどれほど高みにいるかを物語っている。
それに比べて誰も私の事を知らない。
ビルのエントランスに着いた私は、真司の秘書に電話をかけた。
「真司に会わせて。会わないなら、この場でみんなに言うわ。私は氷室真司の妻だって!」
結婚受理証明書は手の中で、ぎゅっと握りしめられていた。
数分後、私は社長室に座っていた。
真司は冷たい目で私を見下ろした。
「今度は何をしに来た?」
「蒼汰に会わせて。」
私の望みは、たった一つだけ、息子に会いたい。
だが、真司は鼻で笑った。
「鏡でも見てこい。今のお前の有り様で、蒼汰に合わせる顔なんかあるのか?」
そう言って、彼は一枚の書類を私の前に差し出した。
「これにサインしろ。金はやる。二度と俺の前に現れるな。蒼汰にも、もう会わせない。」
離婚届!
ついに、この瞬間が来た。
これで天宮雪奈と、堂々と結婚するつもりなんでしょう!
ふざけるな!
私は書類を見もせず、真っ直ぐ彼の目をを見つめた。
「離婚してもいい、財産の半分をよこしなさい!」
「天宮雪乃、お前、狂ったのか?」
彼は私がそんな要求をするとは思っていなかったらしく、怒りのあまり笑いそうになった。
「私たちは婚前契約なんて結んでない。あなたの財産は全部共有財産。半分もらう権利は、私にあるはず。」
私は一歩も引かず、彼をじっと見つめた。
「同意しないなら、私は絶対にサインしない。」
深く息を吸い込み、その目には怒りが満ちていた。
「天宮雪乃……そんなこと、絶対にさせないからな!」
そう、それが私の目的。このまま二人を、どんな手を使ってでも結婚させない!
「氷室真司、天宮雪奈は可愛子ぶって、あなたを騙してるだけ!あなたほどの人が、どうしてあの女の本性が見抜けないの?」
私はまだ諦めきれず、どうしても真司に天宮雪奈の本性を暴きたかった。
だが、真司は鋭い視線で私を睨みつけた。
「雪奈は誰よりも純粋で、優しい女だ。昨日だって、お前のことで俺に頭を下げてた。そんな雪奈を、よくも悪口言えたな。どうして今まで、お前がこんな薄情な女だっと気づかなかった。」
もういい、薄情な女で結構!これ以上言い合っても意味がない。
「蒼汰に会わせて!」
彼は冷ややかな目で私を見下ろしてきた。
「もう騒ぐな。出て行け!」
私は立ち上がり、強く彼を睨み返しながら、手に持っていた結婚受理証明書を彼の目の前に突きつけた。
「蒼汰に会わせてくれないなら、マスコミに全部あばく、「氷室真司の妻はまだ生きているのに。他の女と婚約した」ってね。あなたの評判を地に落とす!」
私はわかっていた。真司のような男にとって、名誉は命より大事だということを。
だからこそ、彼はきっと私の要求を飲む。
そう信じていたが、彼は冷笑を浮かべた。
その笑みはあまりにも嘲りに満ちていて、私は思わず息を飲んだ。
「いいだろう。帰って待っていろ。すぐに「手配」してやる!」
勝ったような気がした。
でも、なぜだろう。
胸の奥に、嫌な予感が渦巻いていた。
きっと、あの時のぎこちない笑いのせい。
会社から出ようとしたそのとき、ちょうど一人の女とすれ違った。
「天宮さん、おはようございます!」
社員全員が立ち上がって挨拶をする。受付の秘書までが、深々と頭を下げた。
彼女が入ってきたときの静けさとは、まるで別世界のようだった。
天宮雪奈は誇らしげな笑みを浮かべ、女王のような足取りで歩いてきた。
そして、ドアの前で私を見つけると、勝ち誇った笑みを浮かべて言った。
「お姉ちゃん、いらっしゃい。頭の傷、もう大丈夫?」
今すぐその顔を殴りたかった、でも私は耐えた。
真司が蒼汰に会わせてくれると言ったばかり。
ここで怒りに任せてすべてを壊すわけにはいかない。
私は彼女を無視して、黙ってすれ違った。
後からふたりの会話が聞こえてくる。
「雪奈、疲れてないか?こっちに来て座れ。」
「真司、私さっきお姉ちゃん見たよ。顔色悪かったみたい、病院に連れて行かなくていいの?」
「放っておけ。死にゃしない。死んでも、自業自得だ。」
覚悟していた。でも、いざ口に出されると、胸が張り裂けそうに苦しかった。
夫婦になってからもう何年も経ち、彼の命を救ったことだってあるのに!
私は別荘には帰らなかったせいで、凛音がずっと心配していた。
傷が少しでも治ってから会おうと思っていたけれど、どうしても押し切られて、近くのレストランで会うことにした。
レストランはショッピングモールの一階にあり、たくさんの人で賑わっていたが、凛音はすぐに私を見つけて駆け寄ってきた。
「顔色まだ良くないね。もう仲直りしたの?」
私は適当に答えた。
「うん、夫婦だもの。ケンカなんてすぐ忘れるよ!」
でも凛音は私の前髪の下に隠れている傷に気づいた。
「これはどうしたの?」
私は嘘をついた。
「彼に投げつけたものが自分に当たっちゃったんだ。彼も怒る暇なんてなかったし、すぐ仲直りしたよ。」
凛音は傷口を見てうなずきながら言った。
「そうそう、私も旦那さんとよくそうしている。ケンカは逆に仲良くなるきっかけになるからね。長く一緒にいると、時にはぶつかることも必要だよ!」
こんなにあっさり信じるなんて思わなかった。
二人で食事を済ませた後、凛音は私を無理やりショッピングモールに連れて行き、自分を大事にしなきゃと言いながら、何着か服を買ってくれた。
正直、今はおしゃれなんて気分じゃなかったけど、断れなかった。気分転換だと思うことにした。
だけど、そこで思いがけず真司と天宮雪奈に遭遇した。
二人はジュエリーショップで指輪を見ていた。
凛音が先に気づいて囁いた。
「見て見て雪乃!あの二人、氷室真司とその婚約者よ、すごくお似合いね。」
凛音は私が真司と結婚しているなんて知らなかった。
真司のその経歴を消し、誰も彼がかつて記憶を失って、他人の家に一年もいたことを知らない。
父は恥をかきたくないから、私が駆け落ちした事実を隠し、最終的には天宮雪奈を天宮家の唯一の令嬢に仕立て上げた。
私は満々と騙され、天宮雪奈に「真司との関係は誰にも言わない」と言われて、親友にさえも話せなかった。
この時、真司は天宮雪奈と指輪のデザインを選んでいる。
凛音は興味津々で私を引っ張りながら近づき、二人の会話が聞こえてきた。
「天宮さん、こちらは当社のトップデザイナーがデザインしたいくつかの案です。お気に入りはあるでしょうか?」
「真司はどれがいい?」
彼は伏し目がちに優しく答えた。
「君がどれをつけても美しいよ。俺にとって君は完璧だから、飾りなんて必要ない!」
天宮雪奈は微笑み、頬を赤らめて言った。
「もう、そんなこと言わないで。みんな聞いてるよ!」
飾りなんて必要ない、その言葉の意味がはっきりとわかった。
一線を越えた後、真司は天宮雪奈の方が私よりいいと感じている!
彼が優しく、真剣に天宮雪奈の指輪を選ぶ姿を見つめ、胸が締めつけられた。
私は自分の手を見つめた。
結婚して何年経っても、一度も私に結婚指輪を買ってくれなかった。