二年前から、私は国内の児童医療センターで慈善活動に携わるようになった。
離婚した当時、氷室真司からもらった二千万円のうち、凛音を助けるために千二百万円を使い、残りの八百万円はすべてこの児童医療センターに寄付した。
今では、毎月一番大きな支出も、ほとんどこの施設の子どもたちのために使っている。
一ヶ月前、二年間支援してきた子が腎移植手術を受けたけど、昨夜容態が急変した。
私は院長である高城さんから電話を出て、夜中に病院へ駆けつけた。
今朝医者から危篤の知らせを受けた。
この二年間、私たちはほとんどビデオ通話だけの関係だった。実際に会うのはこれが二度目で、帰国後一度だけ彼に会いに来たことがある。
そのとき、彼は手術を終えたばかりで、まだ拒絶反応もなく元気だった
私を見るなり、ベッドの上で膝をついて頭を下げて感謝する。
お互いにぎこちなく、会話もあまり弾まないかもしれないと思っていた。
しかし、初めて彼の顔を見た時、私は涙が止まらなかった。
彼の姿があまりにも蒼汰にそっくりだった。
痩せて小さな体、大きな患者服に包まれ、痛みを堪えながらも私に微笑んでくれる。
たった数日しか経っていないのに、再び会ったときには骨と皮ばかりに痩せ、全身に管がつながれていた。
それでも、私を見ると遠くから小さな手を差し伸べてきた。
私はすぐに駆け寄り、その手を両手で包み込んだ。
もう声も出せないほど衰弱していて、乾いた唇が何度も動いていた。
「何か言いたいみたいけど、私たちには分からなくて……」
高城さんが困ったように言った。
「家に帰りたい……」
私は涙をこらえながら震える声で答えた。
この子は「家に帰りたい」と言っている!
「でも、彼の容態は……」
高城さんは躊躇した。
「もしご迷惑なら、うちで引き取ります」
高城さんはすぐに説明した。
「そうではなく、彼の体が持つかどうか心配で……」
「担当医に相談してみます」
と言い渡し、私はすぐその場を出ようとした。
ふと振り向くと入口の方に氷室真司が立っていた。
ここがもりやま病院だったことをふっと思い出した。
「どうしたんだ?」
彼は数歩近づく。
私は簡単に事情を説明し、急いで医者を探しに行った。
もりやま病院は慈善活動の指定病院で、院長の高城も氷室真司のことは知っていたが、普段は話す機会がなかった。
「氷室社長」
高城院長はすぐに駆け寄り声をかけた。
「どういうことだ?」
真司が低い声で尋ねると、高城さんは子どもの状況を簡潔に伝え、氷室真司は眉を寄せる。
「それで相沢さんが何故ここにいる?」
「相沢さんはこの三年間、匿名で支援センターに寄付を続けてくださっていて、そうちゃんが入院した二年前からは全ての費用を相沢さんが負担してくださってるんです」
突然、真司の体が震えた。
「さっき、その子をなんて呼んだ?」
「そうちゃんですが……」
真司の視線は病床の上の小さな体う注ぎ、両手がぎゅっと握りしめられた。
医者のオフィス
主治医は強い口調で、今のそうちゃんの退院は認められない。
「もし無理に連れて帰るなら、ご自宅に着くまで持つ保証はできません!」
「でも、彼の最後の願いなんです。先生、なんとかできませんか?」
「私は医者です。患者を治療するのが仕事であって、こういうことに時間を割く余裕はありません!」
私は思わず声を荒げた。
「子どもが最期に願うことが、先生にとっては無駄なことしかならないのですか?」
胸が締め付けられるように苦しかった。
「そんなに価値のないことなんですか!?」
ふと、息子の蒼汰のことを思い出す。あの子も最後は家に帰りたがっていた。
「もう帰れ!その後重要な仕事がある!」
医者は私を追い払うように言い、さらに手で私を押し出した。
私はバランスを崩して後ろに倒れそうになったそのとき、誰かが私の体を支えてくれた。
頭上から男の冷静な声が響く。
「そんなに大事な仕事なら、聞かせてもらおうじゃないか」
医者が顔を上げた瞬間、表情がみるみる青ざめた。
「氷室社長……」
私は涙をこぼしながら、氷室真司の優しいまなざしを見上げた。
「大丈夫か?」
私は首を横に振り、立ち直る。
「大丈夫です」
涙が止まらなかった。
氷室真司は私の涙を見て、表情をさらに厳しくした。
そして医者に命じた。
「どんな手を使ってもいい。あの子を無事に家まで送り届けろ」
「はい、承知しました」
医者はあっさりと応じた。
彼ならきっとできると信じていた。
「真司さんありがとうございます!」
氷室真司は私の悲しい顔を見て、深く息を吸い込む。
「心配するな、必ずどうにかする」
その言葉通り、すぐに病院は救急車を手配し、医療機器ごとそうちゃんを搬送する準備を整えた。
「俺の車に乗れ」
私は首を横に振った。
「そうちゃんのそばにいたいんです」
「医療機器が多すぎて、もう一人分のスペースがない。大丈夫、彼らがいれば子どもは守られる」
彼がそう言い、私は仕方なく氷室真司の車に乗ることにした。
車中、私は窓の外を眺めながら涙をこぼしていた。
しばらくすると、氷室真司がそっとティッシュを差し出し、私はそれを受け取った。
「その子の名前は?」
「蒼太」と私は答え。
この名前を思い出すたびに、胸が張り裂けそうになる。
氷室真司はハンドルを握る手に力が入り、指先から血の気が引いていくのがわかった。
「どの蒼?」
氷室真司は自分の息子と同じ名前を聞いて、心が苦しいよね?
「あおの蒼です」
私は涙を堪えながら彼を見上げた。
「どうかしましたか?」
彼は厳しい表情で首を横に振る。
「いや、何でもない」
平静を装っていたが、額には冷や汗が浮かんでいた。
私はゆっくりとそうちゃんのことを話し始めた。
「彼の両親は交通事故で亡くなって、叔父さんの家に引き取られたけど、叔母さんが彼を嫌っていて、いつもお腹すかせたまま。汚れた水や腐ったご飯を食べさせられていた。それが原因で腎臓に問題が出た」
「でも、この子の叔母さんは病院にも連れて行かず、無理やり働かせ。ある日、庭で倒れたときも、叔母さんは見て見ぬふり。隣人が通報してようやく病院に運ばれたときには、すでに末期腎不全でした」
「その叔父さんは何もしなかったのか?」
氷室真司は怒りを込めて聞く。
「叔父さんは仕事で家にいないことが多くて、子どもには無関心だったみたい。叔母さんは叔父さんの前では良い人を演じて、裏では全く別の顔をしていたそうで」
「人クズめ!」
氷室真司はと憤りをあらわにした。
私は心の中で「あなたのそばにも同じように人クズがいる、そして、あなた自身も人クズだ!」と呟いた。
彼はまだ自分の過ちに気付いていない。でも、いつか私が天宮雪奈の本性を暴いてみせる。
そのとき、きっと分かるはず。
「そうちゃんには、他に何か願いごとがあるのか?」
彼が尋ねた。
「お父さんが生きていたとき、桜島へ朝日を見に連れていくと約束してくれたって」
氷室真司は深く息を吐く。
「俺が連れていく」
私は驚いて彼を見つめる。
「本当に?いいの?」
「きっと行ける」
彼がなぜそう言ったのか、なんとなく分かる気がする。