氷室真司は聞いた後しばらく黙っていて、やがてため息をつく。
「本当に優しい子だ」
私はうなずいた。
「そうね、子供はとても純粋で優しい。本当に愛してくれる人が誰なのかすぐに分かる。だって子供を大切に思う人は、何が好きで、何がほしいのか、何にアレルギーがあるのか、どんな言葉が傷つけるのか、ちゃんと分かってくれているから」
氷室真司は何か考えている様子で、またしばらく沈黙が続いた。
彼が今何を考えているのか分からい。
とにかく、蒼汰のことを思い出していたでしょう。
しばらくして、彼が口を開いた。
「高城さんから聞いたんだが、君は児童医療センターに何年も寄付をしているそうだね。お金は全部そこに使ってたのか?」
「全部じゃないよ」
わざわざ懸念を残す言い方にした。
氷室真司、私にはまだいろんな一面がある。あわてなくても、これから少しずつ知ってもらえばいい。
彼は何か探ろうと私の顔を見つめたけど、それ以上は何も聞かなかった。
「何か食べに行こうか」
せっかくいい機会で向こうから提案したが、あいにく今は彼とご飯を食べに行く気ではない。
「ごめん、今日はここまでにしよう?家まで送ってくれないかな」
彼は何も言わずに先に歩き出し、助手席のドアを開けてくれた。
これが初めてだった……彼が自分から車のドアを開けてくれるのを……
道中、車がどこに向かっているのか気にする余裕もなく、止まって初めてここが星の間レストランだと気づいた。
昔、彼も私をここに連れてきたことがある。
今でもよく覚えている。彼が氷室尚人に見つかれ氷室家に戻った最初の一年、私たちの関係はまだ良く、彼は「苦労ばかりかけたから、ごちそうしないと」と笑って連れてくれた。
当時あまりに高かったから、メニューの値段を見て思わず席を立ちそうになった。
彼は笑いながら私の肩を押さえ、「もうお金持ちになったから、毎日来たっていい」と言ってくれた。
でも、あれが最初で最後だった。
彼は相変わらずこの店に来るけど、隣にいる女性は天宮雪奈に変わった。
「降りよう」
低い声が耳元で響き現実に引き戻された。
「本当に食欲がないの」
「食欲なくても少しは食べないと、いい子にして」
見上げると、彼が優しくてどこか甘やかすような言葉をした。今日のことがあってか、彼が私を見る目がどこか違っていた。
「外してあげようか?」
彼はシートベルトのことを指す。
私は自分でシートベルトを外し、彼について車を降りた。
ここは岡江市で一番高級なレストランで、私も天宮家のお嬢様だった頃はよく来ていた。
氷室真司には専用の席があり、店員が席まで案内してくれた。
「氷室社長、ご注文はお決まりですか?」
彼はメニューを私に手渡した。
「好きなものを選んで」
私はメニューを受け取りながら、ふと天宮雪奈が何度も私に話していたことを思い出した。彼女の好きな料理、その彼氏の好きなもの、嫌いなもの。
そのときの「彼氏」が自分の夫だとは知らなかった。
今思うとあのときの自分は救いようもないバカだった。
「エスカルゴのオーブン焼き、ビーフウェリントン、マグロのソテー」
私はメニューを閉じそのまま注文した。
店員が微笑んでうなずく。
「かしこまりました。氷室社長は、今日もいつものご注文でよろしいですか?」
「氷室社長も私と同じで」
氷室真司が返事をする前に、私が先に言った。
店員は一瞬戸惑った。
「しかし、氷室社長は……」
「構わない、相沢さんが言ったように、同じでもお願いします。」
店員の驚きは隠せなかった。
「かしこまりました。では、同じものを二人分ですね」と注文を確認した後下がった。
「もし口に合わなかったら別のものを頼んで」
私が選んだ料理は彼が苦手なものばかりだと分かっている。
彼は魚介類、とくに魚が苦手なもの。
でも彼は首を振った。
「大丈夫、そんなことはない」
「なら良かった」
私はうなずいた。
料理が運ばれてきたけど、彼はエスカルゴをじっと見てなかなか箸をつけなかった。
私は一つ殻から取り出して、彼のお皿に置いた。
「食べてみて。すごく美味しいよ!」
氷室真司は私の目を見て、断らなかった。
彼がそれを口に運ぶのをじっと見ていた。ゆっくり噛みしめて、味を確かめていた。
「どう?」
彼は飲み込んで、少し微笑んだ。
「悪くないね」
私はマグロも取り分けてあげた。
「食べてみて、私大好きのマグロ」
私の機嫌を損ねたくなかったみたいで、彼もそれを食べてくれた。
そしてワインを頼み、店員が注ごうとしたところ、私はそれを断り、自分で彼のグラスに注いだ。
「さっき、誰かさんが食欲ないって言ったみたいだが?」
私は自分にもワインを注ぎ、グラスを手にして彼を見た。
「本当に食欲はないの。でも、来たからには楽しまないと。それに、今日あなたが蒼太のことを助けてくれて、本当にありがとうございます。」
彼の眼差しがぐっと熱を帯びた気がした。
「礼なんていらない、大したことじゃないから」
私は首を振った。
「でも、あなたみたいな人にとって、時間は何より大事でしょう?本当に感謝してる」
私はグラスを彼の方に差し出した。彼もグラスを持ち上げて、私のグラスと軽く合わせた。
「座って」
ワイングラスが澄んだ音を立てて響き、その音が妙に心に残った。
それは、もう戻れない昔の自分の心が砕け散る音だった。
私は席に戻り、彼はそのまま雑談を続けた。
「普段もこういう料理が好きなの?」
「うん、魚介類が好きなの。あなたは?」
彼は少し間を置いて、静かに答えた。
「普段はあまり食べないかな」
「じゃあ、他のものを頼もう?」
私は驚いたふりをして、彼は慌てて阻止した。
「いいよ。今日試してみたら、なかなか悪くない味だ。たまには新しいものもいいかもしれない」
笑った。
ほら、男の好みも信念も、結局は都合次第ってこと。
彼は以前私にたくさんルールをつけて、家にも干しエビや昆布を置くことすら許さなかった。最初は不思議だった。貧しかった頃は、魚の頭だってありがたくたくさん食べていたのに。
後になって分かった。天宮雪奈が魚介類を食べないから、彼も食べなくなった。
私は妹を信じていたし、彼女が魚介類を食べないことを知っていても、二人の関係を疑いもしなかった。
私は笑って言った。
「魚介はやっぱり海辺のレストランで食べるのが一番よ。獲れたてが一番おいしいよね」
彼は笑ってうなずいた。
「他に好きなものは?」
「カニ、アワビ、サザエ……何でも好き!」
私が機嫌を直したのを見て、彼の顔には少し満足そうな色が浮かんだ。
きっと自分のおかげで私の気分が良くなったと思っている。
でも本当は、私が彼の好みを変えたことが嬉しかっただけ。
ああ、自分の目で見たかった。天宮雪奈が氷室真司が彼女大嫌いの魚介類を食べるようになったと知ったら、どんな顔をするのか?
食事が終わると、彼は私を家まで送ってくれた。
別荘の前に着くと彼も車から降り。
その目から家に誘ってほしいという期待が見えた。
でも、私はその期待に応えなかった。
「それじゃあ、またね真司さん!」
「ゆっくり休んで」
私は返事をして家に入った。
真司はしばらく氷室将人の別荘を見上げ、それから車で家に戻った。
家に着いたときは、もう十時半になっていた。
雪奈はまだリビングで待っていて、車の音がするとすぐに玄関まで迎えに来て、スリッパを用意した。
真司は靴を履き替えて家に入り、雪奈が後ろからついてきた。
「今日は遅かったね、会社で何かあったの?」
彼は立ち止まり、彼女がネクタイを外してくれるのを黙って受け入れた。
「ああ」
軽く答えただけだった。
そして、彼は雪奈を見下ろし尋ねる。
「雪奈、蒼汰何が好きか知ってる?」
蒼汰のこと大好きな雪奈なら、きっと分かっているはずだと彼は思った。