ちょうど夕日が傾きはじめた頃、女性は竹かごを手に咲き誇る花畑の中をゆっくりと歩いていた。
月白色のリネンのスカートの裾が薄紫のラベンダーをかすめ、海藻のような長い髪が風に揺れて舞い上がる。まるで一羽の軽やかな蝶のように。
彼女はしゃがみ込み、バラの枯れ枝を丁寧に剪定する。耳元で揺れるピアスの弧が、ちょうど一筋の陽光を受けて、まつげの先に細やかな金の影を落とした。
ふと風が強まり、少し離れたところで棚いっぱいの藤の花が流れ落ち、花びらが彼女の伏せたまつ毛をかすめ、彼女は手を挙げて髪を耳にかける。その手首の草編みのブレスレットが、芽吹いた葉と一緒に揺れ。
氷室真司は思わず見惚れてしまった。こんな美しい景色、そしてこんな美しい人を見たのは一体どれくらいぶりだろう。
部下が私のそばにやって来て、そこで初めて氷室真司たちが来ていることに気づいた。
私は急いで立ち上がり、手にしていた作業を置いて氷室真司の前へと向かった。
「氷室社長、ようこそ森のグリーンガーデンへ」
その瞬間、自分の手が土で汚れているのに気づき慌てて引っ込めようとしたが、その前に彼が私の手を握った。
「相沢社長!」
氷室真司はまだ驚きと見ほれた表情を隠しきれず。
私は微笑んで彼に提案した。
「オフィスに行きましょうか?」
氷室真司は広がる花畑を見渡す。
「ここで話そう」
私はうなずきながら紹介し始めた。
「森のグリーンガーデンの経営理念は心の自由と生命への敬意です。『自然と都市の共生』をテーマに、すべての葉の伸び方を尊重し、植物たちの成長を大切にしています。生態系の修復から景観づくりまで、科学的なプランニングと職人の技術を融合させ、生命を尊ぶ心で『呼吸する都市のオアシス』を創り上げています……」
私はゆっくりと穏やかな口調で説明し、氷室真司は終始まっすぐに耳を傾けていた。
ときどき私の手の示す先を見やる以外は、ほとんど私の方を見つめていた。
自分の言葉が彼の心に深く届いているのがわかっていた。
今の彼が最も求めているのは心の解放と癒し。
紹介を終わると彼は微笑みながら私を見つめた。
「相沢社長、結局植物の説明してくれませんでしたね?」
私の瞳に宿る自信は陽ざしの下でひときわ輝いていた。
「花を育てることや木を植えることは基本中の基本です。氷室社長がこのさくら谷に足を踏み入れた瞬間から、もう植物の精霊たちと出会っているんですよ。どの競合企業であっても植物の育成には非常に優れていると信じています。ですが、パートナーを選ぶうえで最も重要なのは、お互いの考え方や理念がいかに一致しているかだと思います。」
熱い視線で見つめられた私は思わず目を伏せた。
陽ざしの下、ほんのり紅く染まった私の頬は、まるで熟れたリンゴのように愛らしく、どこか誘うような艶を帯びていた。
そのとき誰かが拍手をし始めた。
氷室真司が拍手を送り、後ろの人もそれに続いた。
彼は振り返って凛音に指示を送った。
「オフィスで詳細を詰めて、契約書をまとめておいてくれ」
「承知しました、氷室社長」
頷いた凛音が私を見る目に驚きと興味が混じっているのに気づいた。
「氷室社長、お茶でもいかがですか?」
私は氷室真司に向き直り彼を誘った。
「その前にここを見て回りたいから、案内してくれるか?」
「では、作業の続きをしながらご案内しますね」
「いつも自分で作業されるんですか?」
「時間があるときは必ず自分で世話します。花や木々が少しずつ育って咲くのを見守るのは本当に楽しくて、幸せなんです」
私は花かごを持ち上げ、ゆっくりと前へ歩き出し、氷室真司は隣で一緒に歩く。
「そうか」
「氷室社長は花を育てたことはありますか?」
花を剪定しながら彼へ尋ねた。
彼は首を振った。
「それは女性の趣味」
私はくすっと笑った。
「それは偏見ですよ。他の国にも素晴らしい男性のガーデンデザイナーもたくさんいます」
「へえ、そうなんですか?」
恐らく知らなかったみたいで、彼は少し驚いた。
「そうですよ。命というのは、それがたとえ一本の草であっても、尊重されるべきもの。ガーデンデザイナーはそれがただの雑草だからといって見下したり、見捨てたりはしない。だからこそ花も草も木々も、「男には世話できない」なんて思ったりしないわ。」
苗を植えて、水やりや日当たり、肥料を与えながら成長を見守る。やがて芽吹き、花が咲き、そして枯れていく……それはまるで命の旅路のようです」
私はハサミを置き彼を見上げた。
「彼らを見ていると、命の本当の意味が見えてくる。それは、生や死にあるのではなく、その過程にこそあるのだと。その過程の中では、間違えたり、油断したりすることもある。そのせいで、病気になったり、枯れてしまったりすることも……」
氷室真司は目の前の女性の最後の言葉に心を強く揺さぶられた。
彼は私をじっと見て問いかけた。
「もし枯れたらどうする?」
私も彼を見つめ返し答えた。
「しっかり反省して原因を突き止め、二度と同じ過ちを繰り返さないこと」
彼は賛成したようにうなずき、小さくつぶやいた。
「原因を見つけて、二度と繰り返さない……」
「ちょっと見せたい場所がある!」
私は彼を奥へと案内し、小さな丘を越えようとしたとき、足を滑らせて、あわや転びそうになったその瞬間、氷室真司が私をしっかりと抱きとめてくれた。大きくて温かな手が、強く私の腰を抱きしめていた。
「大丈夫か?」
彼は優しく問いかけた。その吐息は熱を帯びていて、私の首筋にふわりとかかった。
「大丈夫です!」
私は慌てて彼から離れようとしたけれど、急ぎすぎてまた足を滑らせてしまった。
氷室真司は再び私を支え、くすっと笑った。
「そんなに慌てなくても、食べたりはしません」
「別に、怖くなんかありません!」
私は強がって言いながら今度はしっかりと立った。
氷室真司はぬかるんだ地面に目をやり、そっと私に手を差し出す。
「靴が滑りやすいようですから手をつなぎましょう」
私は彼を見つめながら少しためらった。
「それはちょっと良くないかも……」
彼は微笑んだ。
「兄貴に見られるのが怖いか?」
「怖くない!私たちは別に何もないから……」
「そういうこと、本当に怪我でもしたら、それこそ兄貴に怒られる」
そう言って私の返事を待たずに手を取った。
彼に触れられたその瞬間、私の心は激しく揺さぶられた。胸の奥に渦巻く感情はあまりに入り乱れていて、まるで絡まった糸のようにほどけず、息が詰まりそうだった。
ふたりの間の空気が少し変わった気がしたか、彼は小さく咳払いをして、視線をそっと私の手首の草編みのブレスレットに落とした。
「それ、自分で作ったの」
「うん、面白そうだったので」
彼は私をじっと見た。
「あまりアクセサリーはつけないようだね、嫌いか?」
最初に会ったときは宝石や高級な時計をつけていたが、それ以来私がアクセサリーを身につけていないことに気づいていた。
「そうですね、必要な場合以外はあまりつけないので……」
「なぜ?」
女ってこういうの好きなんじゃないのか?ーーまるでそう言いたかったように私を見つめる。
「なんだか重いので、こういうのが一番気楽です。それに、宝石で飾り立てた女性って、ちょっと古臭く見えませんか?」
私は彼にそっとささやいたら、彼はふっと楽しく笑った。
「たしかに、偶にはそうなりそうだ」
丘を越えると二本の若木の前にたどり着いた。
「これは何の木?」
「ナツメの木です」
もう足元は安定していたが、彼は私の手を離さず、私も離すのを忘れたように、そのまま手を預けていた。
「お客さんがこれを植えてほしいと?」
彼は不思議そうに聞く。
「これは私の木で、お客さんのものではありません」
私は微笑んで答えた。
「どうしてナツメを?」
私は歩み寄り、何気なく彼の手から自分の手をそっと抜いたを抜きながら説明した。
「ナツメは派手な見た目はありませんが、私はその命の強さに惹かれたんです。乾燥や痩せた土地にも耐え、どんな環境でも根を張って生き抜く、粘り強い木なんですよ」
氷室真司は手の中からすっと抜けた柔らかな手の感触と温もりを、名残惜しそうに感じた。
私はそのまま話を続け、彼の変化には気づかなかった。
「秋にはたくさん実をつけて、努力がちゃんと報われます。普段の手入れも簡単ですし、春に剪定して成長期に少し肥料をやれば十分」
そう言いながら、私は彼の目をまっすぐ見つめた。
「氷室社長も興味があれば、一本プレゼントしますよ!」