私と氷室真司が戻った時、凛音たちがちょうどオフィスから出てきた。
「相沢社長、契約書ができあがりました」
アシスタントが私のそばに来て進捗を伝えた。
私はうなずき氷室真司の方へ向いた。
「氷室社長、契約書を一度お持ち帰りになってご確認ください。問題なければ、改めて正式に契約を交わしましょう」
「分かりました」
私は自ら入口まで見送り、氷室真司は車に乗り込み、静かに去っていく。
振り返って戻ろうとした時、誰かに呼び止められた。
「相沢社長!」
振り向くと凛音が戻ってきていた。
「佐倉さん、何かご用ですか?」
私は微笑む。
凛音は私の前に立ち、じっと私を見つめる。
「私が来たとき、相沢社長は白いワンピースを着ていましたよね?」
私は淡々と答えた。
「ええ、濡れてしまったので着替えました。佐倉さんは細かいところまでよく見ていますね」
彼女は深く息を吸い、何かを堪えているようだった。
「相沢社長、余計なお世話かもしれませんが、氷室社長には奥さまがいらっしゃいます!」
「知っていますよ」
笑顔で返す。
「それなら……」と、言いかけて言葉を飲み込む。
「私がどうかしましたか?」
私は彼女の目をじっと見つめた。
親友の目には怒りが見え隠れしていた。
「雪奈は私の親友、彼女を傷つけさせない。相沢社長、ご自分の行動にくれぐれもお気をつけください!」
そう言って凛音は車に乗り込んで離れた。
私はその場に立ち尽くし彼女の車を見送った。
涙が込み上げてきた。雪奈は彼女の親友?
はっ……
凛音、もしあのとき私を死に追い詰め、あなたを陥れたのがその親友だと知ったら……あなたがどうする?
私は大きく息を吸い込む。
もう凛音を氷室真司のそばに置いてはいけない。
真司は車の中であの時の自分の体の反応を思い出すと、心の奥底で期待に胸が高鳴った。
もしこのまま症状が改善したら、自分の人生にもう悔いはない。
今夜は久しぶりに雪奈と…試してみたいと彼は思っていた。
その日はいつもより早く帰宅した。
雪奈は子どもたちの宿題を見て、玄関に入ると彼女の怒鳴り声が聞こえてきた。
「この問題、もう五回も説明したのになんで分からないの?さっき何を聞いてたの?バカなの?」
「それから、あなた、国語の先生はこんな字の書き方を教えてるの?なにこの字!折れた手で書いてる?」
真司は玄関で眉をひそめた。
ここ数年雪奈はずっと優しかったはずなのに、最近はよく怒っている姿を見る。
彼は怒りやすい女性が一番苦手。
そう考えながら着替えを済ませてリビングに入る。
「どうしたんだ?そんなに大声を出して」
雪奈は怒りが収まらず、氷室真司が帰宅したことにも気づいていなかった。
彼女あわてて立ち上がり駆け寄る。
「真司、今日はどうしてこんなに早く帰ってきたの?」
真司はカバンを渡し彼女を見つめる。
「そんなに怒ることないだろう」
雪奈の顔が赤くなったり青くなったりし、慌てて弁解する。
「最近、宿題を見ていると本当にイライラして……何度教えても分からないの……」
「パパ、ママはね全然優しくないの、最近なんてすぐ怒るし、パパがママを怒らせてるんじゃない?」
千歳が突然口を挟んだ。
「何言ってるの、早く宿題しなさい!」
雪奈は千歳をたしなめる。
「本当だもん、もうママのこと嫌い」
それを聞いて菜々も言った
二人の娘に振り回されて、雪奈はため息をついた。
「もう自分の部屋でやりなさい、あとでチェックするから」
千歳と菜々は嬉しそうに、荷物をまとめて自分の部屋に駆け込んみだ。
娘が部屋に入ってたのを見て、雪奈は真司の隣に座った。
「今日は新しいプロジェクトの話じゃなかった?うまくいった?」
「順調だったよ」
真司はうなずき、頭の中はあの女性の可憐な姿が浮かんだ。
「それならよかった。ご飯は食べた?お手伝いさんに頼もうか?」
真司は雪奈を見つめた。
「子どもたちの分だけでいいよ。夜は二人でお酒でもどう?」
雪奈は少し驚いた。もうどれくらい夫婦でお酒を飲んでいないだろう。
結婚前は、よくロマンチックな夜にワインを飲みながら語り合い、そのあとはまるで貪るように愛し合った。
あの頃、真司は自分を心から愛してくれていると確信していた。
毎回、彼女を自分の一部にしたいとさえ思っていた。
「うん……もちろん。どんなお酒がいい?今すぐセラーから持ってくる!」
雪奈は嬉しさのあまり、少し舞い上がった。
真司は彼女の手を取る。
「急がなくてもいいよ。子どもたちの勉強が大変なら、家庭教師を頼んでもいい」
「うん、私もそう思っている。何人か探したんだけど、二人とも気に入らなくて。本当に手がかかる娘たちね」
確かにこの二人には雪奈も手を焼いている。見た目は賢そうなのに、勉強だけは全然ダメ。
どうやっても、うまくいかない。
氷室真司はあっけらかんと笑う。
「うちの娘たちは普通の子と違うんだ。一流の教育を受けているんだから、少しくらい気難しい方が将来有望さ」
氷室真司は普段あまり娘たちの世話をしないが、二人のことをとても可愛がって何でも与えていた。
その点について雪奈も満足している。
「また子供たちを甘やかして。じゃあ、もう少し家庭教師を探してみよう」
「そうだな。先にシャワー浴びてくる」
シャワーを終えた彼は寝室のソファで本を読もうとした。
けれど、なぜか心が落ち着かない。
結局書斎に移動した。
ふと目に入ったのはあのままになっている囲碁盤。
そのまま座り考え込む。
二時間が過ぎても盤面は動かない。
大きく息をつきながら、心の奥である想いが渦巻いていた。
彼女に会って、もう一度勝負したい。
ドンドンドン
ノックの音がした。
「どうぞ」
雪奈がドアを少し開けて顔を出す。
「ねえ真司、ワインは取ってきてくれた?」
真司はハッとしてすぐに立ち上がる。
「今取りに行く」
雪奈は夫が一歩踏み出し、それでも名残惜しそうに囲碁盤を見たことに気づいたが特に気に留めなかった。
彼女は今胸が高鳴っている。
今夜は愛する夫と特別なひとときを過ごせる!
「子どもたちはもう寝た?」
書斎を出ると真司がそっと聞く。
「寝たわ。あなた、私お風呂入ってくるね」
真司はうなずき、地下のワインセラーへ降りていった。
キッチンでは家政婦がサラダとフルーツやケーキなどを用意した。
オーブンからはステーキの香りが漂ってくる。
彼はワインをデキャンタに注ぎ、グラスも用意した。
ほどなく雪奈が支度を終えて現れた。
スカートの裾はちょうど太ももの付け根あたりまでしかなく、すらりと伸びた脚線美が惜しげもなく露わになっている。引き締まったヒップは布地に包まれ、誘惑的なラインを描いていた。
この姿を見て平常心でいられる男はいないだろう。
真司も思わず身体が熱くなるのを感じ、深く息を吸い微笑みながら妻を見つめる。
「雪奈、本当に綺麗だよ」
真司がこんなふうに褒めるのはいったいどれくらいぶりだろう。
雪奈は心から嬉しくなり、頬を赤らめた。
二人とももう食事どころではなかった。