本来イライラした氷室真司は、ここで心の安らぎを取り戻した。
「今夜友達と劇を見に行くんだけど、汐里も一緒にどうだ?」
尚人さんがにこやかに私に声をかけてくる。
「皆さんで集まる機会ですから、私は遠慮しておきます」
「僕たちみたいな年を取った人間が楽しむものなんて、若い子は興味ないよだな。じゃあ、先に汐里を家まで送ろうか?」
「いえ、自分でタクシーを呼ぶので大丈夫です」
私はその提案を断り、尚人さんを支えて玄関まで見送った。
「お義父さん、ご心配なく。後で俺が相沢社長を家まで送ります」
尚人さんはうなずいた。
「頼むよ」
リビングに行くと、天宮雪奈が出てきた。
さっきまできっちりまとめていた髪も、今は肩に下ろされていて、腫れた顔がうっすらと見える。本当は人前に出たくなかっただろうが、無理やり笑顔を作り見送りに来たようだ。
「お義父さん、お気をつけお帰りください。」
彼女が小さな声で言うと、尚人さんは彼女を一瞥をくれて、どこか厳しさがあった。何か言いかけたものの、彼女の腫れた顔を見て、結局何も言わずに車へと向かった。
車に乗る直前、尚人さんは氷室真司に念を押した。
「真司、必ず汐里を家まで送ってあげなさい」
「はい、ご心配なく」
尚人さんはそのまま車で去っていった。
そのやり取りを見て、すっかり不機嫌になった天宮雪奈がいる。それでも作り笑いしながら、私に声をかけてきた。
「お義姉さん、果物を用意したので、よかったら召し上がってください」
「ありがとう、それじゃあお言葉に甘えて」
リビングに戻ると千歳と菜々も出てきた。
「二人とも、叔母さんに付き合っなさい」
氷室真司が眉を寄せた。
「おばさんって呼ぶのはやめろ」
「私たちはお義姉さんって呼ぶから、子どもたちは叔母さんでいいんじゃない?」
今まで天宮雪奈はずっと私を「お姉ちゃん」と呼んでいたのに、急に「お義姉さん」と呼んで、その意図は丸見えだね。
氷室真司が私にだけ特別な態度を取っていることを意識していたに違いない。そして自分の旦那に警告を送っている、「この人はあなたの兄貴の彼女だよ」とね。
彼も私が来たときに一度だけ「お義姉さん」と呼んだが、さっきまでは「相沢社長」で呼び続いた。今は子どもたちに「お叔母さん」と呼ばせたくない……
こっちの意図も丸見えだね。
二人の間に微妙な空気が流れる中、私はにっこり口を挟んできた。
「将人とまだ結婚していないので、流石にお叔母さんはちょっと早いよね。子どもたちは汐里さんと呼んでくれればいいと思う。」
そして天宮雪奈に見ながら話を続ける。
「それと、あなたたちも無理に「お義姉さん」って呼ばなくていいの。結婚したら、その時好きに呼んで」
天宮雪奈はまだ何か言いたげようだが、氷室真司は先に遮った。
「そうだね。相沢社長の言う通りにしましょう。」
彼女はぐっとこらえて、作り笑いで「そうね、お姉ちゃんの言う通り」と続けた。
「ごめんねお姉ちゃん、真司とちょっと話があるから、ちょっと待っててくれる?」
「もちろん、私もちょうど千歳と菜々とお話しがしたかったから」
私は微笑んで応じた。
天宮雪奈は氷室真司を連れて客間へ入り、その後ろ姿を見ながら、心の中で「愛人も楽じゃないわね」と思わず突っ込んだ。
自分の立場を守るためには、時には我慢もしなきゃいけないのだね。
私は鞄からお年玉袋を取り出し、優しい笑顔で子供二人に手渡した。
「これは私からのプレゼントよ」
千歳と菜々は顔を見合わせて、すぐに私のそばに寄ってきてごお年玉を受け取った。
中身はそれぞれ20万円。普通の子なら大喜びする金額だろうが、この二人は落ち着いた表情で「ありがとう」しか言わなかった。
さらに持参した袋から靴の箱を取り出す。
「最近このデザインの靴が人気だって聞いたけど、どうかな?」
千歳は箱を見た瞬間、目を輝かせて駆け寄ってきた。
「わぁ!これ、パリ限定のデザインだ!雑誌で見たことある。クラスの子が自分のお母さんが知り合いに頼んで買ってもらうと自慢してた!」
「たぶんその子のお母さんは買えなかったと思うよ」
「どうして?」
千歳が不思議そうに尋ねると、私はそっと靴を差し出した。
「これは、世界でたった一足の限定品。今は千歳のものよ」
「えっ、世界に一足だけ?」
千歳は目を丸くして声を上げた。
「もちろん。千歳みたいないい子こそ、ふさわしい靴だから」
私は微笑みながら靴を渡した。
「履いてみて」
「ぴったりだ!ありがとう、汐里さん!」
千歳は夢中で足を通し顔を輝かせた。
「どういたしまして」
その様子を、菜々が少し羨ましそうに見つめていた。
「もちろん、菜々の分もあるよ」
そう言ってもう一つの箱を開けると、彼女好みの特注プリンセスシューズ。
菜々も嬉しそうに靴を履いて、満面の笑みを見せた。
「ありがとう!すごく好き!」
「気に入ってもらえて良かった」
二人はすぐに私になつき、にぎやかに私の周りでおしゃべりを始めた。
客間
「真司、あとで私がお姉ちゃんを送るわ」
「いいよ。君は家にいなさい」
真司の声は冷たかった。
「あなた……まだ怒ってるの?」
雪奈が涙声で問いかけると、真司はため息をつく。
「お義父さんに頼まれたことだから、約束は守らないと。送り届けるのが俺の役目だ」
「私だって送れるのに……」
涙をぬぐいながら雪奈は抗議するが、氷室は表情を変わらない。
「わがままはやめてくれ」
腫れた頬を上げた雪奈は泣きそうだった。
「もう……私のこと、好きじゃないの? 真司、あなた今まで一度も私を叩いたことなんてなかったのよ!」
そう訴えながら、彼女は夫の手を掴んだ。
「蒼汰がマンゴーと桃にアレルギーなのは知ってた。でも……生前、ずっと食べたがってて……香りだけでも味わわせてあげたかったの」
そう、彼女はすでにどんな言い訳して、真司の機嫌を直すかを部屋を入る前でもう考えた。
「本当に蒼汰を愛していたの……!だからあなたに言われた時、そんなに怒っていた。」
真司は信じ込んで、妻を強く叩いてしまったことを悔い、そっと頬に手を当てた。
「さっきは……怒りすぎた、ごめん」
雪奈は涙のまま彼の胸に飛び込み、甘い声で謝った。
「私こそごめんなさい……そんなこと、言うべきではなかった。もう雪奈のこと怒らないで」
「もう怒ってないよ、本気で怒るたわけじゃないんだか」
真司は彼女を静かに抱きしめ、ため息まじりに言った。
「……夕飯、食べてないの。真司、ラーメン作ってくれないかな?」
雪奈はこれ以上真司の機嫌を損ねてはいけないと分かり、話題を逸らした。
「わかった。あとで戻ったら作るよ」
外で千歳と菜々と楽しくおしゃべりをしている途中、あの二人は部屋から出てきた。
「もう遅いから、そろそろ帰るね」
「送るります」
私はゆっくり立ち上がると、氷室真司はすぐに言った
天宮雪奈は玄関まで見送りに来て、私が氷室真司の車に乗るのを見届ける。
「真司、待ってるからねーー」
私は静かに微笑んだ。
可哀想な雪奈、待っていても無駄かもしれないよ。あなたの旦那さんは今夜、もう戻らないかもしれないから。