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第40話 曖昧

嵐の中で走る氷室真司の背中を見つめながら、ふと何年も前のあの雷鳴轟く夜を思い出した。あのときも彼は、私が雨に濡れないようにと、ひとりで大雨の中へ駆け出してくれた。


あの頃の生活は苦しかったけれど、それでも幸せだった。

だが、幸せというのはえてして儚いもの。


子どもたち二人の命と比べれば、あの頃の幸福なんて、今となっては滑稽に思える。


彼は何度も行き来して、ついに最後の隙間を塞ぎ終えた。これでようやく雨漏りの修理も終わった。


しかし、雨は一向に止む気配がなく。


突然、街灯がすべて消えてしまい、あたりが真っ暗になった。

世界は黒くとなり、嵐の中の世の中はまるで地獄のようで、恐怖が押し寄せる。


私たちはお互いの姿も見えず、何も見えない。ただ雨が顔を伝い、雷鳴が耳元で轟くのを感じるだけだった。


あの日、海に落ちたときの記憶が突然よみがえった。


夜中の海は巨大な獣のように、口を大きく開けて獲物が落ちてくるのを待ち構えている。


そして今も同じように、暗闇が広がり、底知れぬ恐怖に包まれ、息苦しさと絶望感が一気に私を呑み込んだ。


息を荒げ、わずかな光を探そうとしたが、どうしようもない不安に呑まれ、完全に混乱してしまった。

足元もおぼつかず、どこへ進んでいるのかも分からない。


そのとき、誰かが私の名を呼ぶ声が聞こえた。


「汐里……相沢汐里……!」


振り返ろうとした瞬間、足をひねってしまい、思わず声を上げてその場に座り込んだ。痛みで現実に引き戻されて、氷室真司が私を呼んでいるのに気付いた。


「どうした?どこにいるんだ?」


彼は私の叫び声を聞きつけ、焦った声で私を探している。


「私はここにいる……」


できるだけ大きな声で叫んで、彼は私の方へ歩み寄り、すぐに見つけてくれた。


彼が私の手を握り、私も彼の手を握り返した。

その瞬間、私はまるで死にかけた小動物のようで、目の前の相手が誰であろうと、手を離せずにいた。


「どうして灯りが消えたの?どうして!?」


私は泣きながら叫んだ。


次の瞬間、抱きしめられた。


氷室真司は私が全身を震わせているのに気づき、驚いたようだった。彼は優しく背中を撫でて私をなだめる。


「大丈夫だ、怖がらなくていい。俺がここにいるから」


私は彼の胸に顔を埋め、腰にしがみつくようにして、しゃくり上げながら彼を呼んだ。


「真司、置いていかないで……見捨てないで……」


「大丈夫、絶対君を置いていったりはしない。ずっと一緒にいるから……」


彼はさらに私を抱き締めた。


今の氷室真司の心の中に私が誰として映っているのか、彼が何を考えているのかは分からない。


ただ一つ分かっているのは、彼の優しさはほんの数日しか知り合っていない私に向けられるには、あまりにも温かすぎた。


「どこを怪我したんだ?」


私の気持ちが少し落ち着いたのを見て彼が尋ねると、涙声で答えた。


「足をくじいちゃって……」


「とりあえず小屋に戻ろう、服も着替えた方がいい。雨が止んだら病院に連れて行く。」


「うん……」


彼はそっと私を離し、前屈みになって背中を向ける。


「乗って」


暗闇の中、一筋の稲妻が走った。


その白い閃光が、一瞬だけ私たちの顔を照らす。

私は青ざめた顔で心細げに彼を見上げ、彼は雨に濡れながら黒い瞳に優しさを湛えていた。


「急ごう」


彼は私の手を自分の肩に乗せ、私は彼の背中に身を預け、彼はゆっくりと立ち上がる。


小屋までは普段なら三分もかからない距離だが、この天気ではそう簡単にいかない。土砂降りで視界も悪い、幸い稲光が時折道を照らしてくれる。


雷鳴が轟き、まるで真上で鳴っているかのようだ。


私は目をぎゅっと閉じ、彼の首にしっかりと腕を回した。





ぬかるんだ道を進み、ようやく小屋にたどり着いた。


風も雨もすっかり遮られた。


「着いたよ」


私を椅子に座らせて、そのとき初めて、自分がまだ彼の首に腕を回していることに気づき、慌てて手を離した。


「灯りはどこ?」


「扉の左側にスイッチがあるけど……たぶんもうつかないと思う」


氷室真司はスイッチを引いたが、やはり灯りはつかなかった。


「ろうそくか何かあるか?」


「そこの棚にろうそくがあるはず!」


彼は探しに行った。


「箱がいくつかあるけど、ろうそくは見当たらない」


「それがろうそくなの、持ってきて」


彼が箱を手渡して、私は中からアロマキャンドルを取り出した。


「ライター持ってる?」


そう尋ねると、彼はポケットからライターを取り出して火をつけた。


キャンドルに火を灯しながら、彼は急に笑い出した。


「ろうそくを持ってきたのに、ライターは忘れるのか?」


「うっかりしてて、一度も使ったことがなかったの」


ほんのりとした灯りと心地よい香りが、小屋の中をやさしく照らす。


「これ、私にくれてもいいかな?」


私はライターを手に取り彼に聞いた。


このライターは天宮雪奈が彼の誕生日に特注したものだと、私は知っていた。


彼は一瞬躊躇したが、やがて同意してくれた。


私たちの服は全部びしょ濡れで、肌に張り付いていた。


彼は先に私の足を見てくれた。


「どこが痛い?」


足に触れた途端、私は思わず身を引いた。


「大丈夫……」


彼は顔を上げて私を見る。


「動かないで。ひどい怪我なら放っておけない」


そう言うと、彼は私の足をしっかりと持ち、靴下を脱がせた、温かい手のひらに冷たい足が包まれる。


彼はロウソクの灯りで足をじっくりと見た。


「ここは痛いか?」


「痛くない……」


「ここは?」


「痛い、そこが痛い……」


「骨には異常なさそうだし、大したことはない。少し揉んであげると楽になるはず」


と言って、彼は私の足をやさしくマッサージし始めた。


私は体を強張らせて動けず、蹴り飛ばしたい衝動を必死で抑えていた。


「君にもこんな弱い一面があったんだな」


氷室真司が低い声でつぶやいた。


「こう見ても、一応女ですので……」


それを聞いて私を見上げた。


「初めて会ったとき、ものすごく気が強い人だと思った。わがままなお嬢様じゃないかって思っていた。」


私はふと笑いだした。


「氷室社長は根に持っていたんだ」


彼は首を振った。


「いや、あのときは俺も悪かった」


黒い瞳で私を見つめる。


「どうしてそんなに気が強いのか、ちょっと気になってたんだ。」


「私は昔から気が強いですよ」


明らかに彼は信じていない様子でまた首を振った。


「君は優しい人だ」


「女にはいろんな面があるんですよ。気が強いことも、優しいことも……」


私は少し間を置いて話を続けた。


「ただ、その優しさは好きな人にしか見せない」


氷室真司の手が止まり、また私を見上げる。


「じゃあ、俺は君の優しさを見せてもらえたってことかな」


私は首を振り、少しおどけて答えた。


「いいえ、社長にはまだ見せていません」


「そうか…………着替えある?濡れたままだと風邪引くよ」


私は少しためらいながら答えた。


「ある、上の棚に」


彼は服を取ってきてくれた。


「ここに置く、外で待つよ」


と言いかけて、ドアに向かった。


「待って」


私は彼を呼び止めた。


彼は振り返り、私を見つめた。


「外は大雨だし、出なくていいの……後ろを、向いてて……」


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