氷室真司は私をなだめたつもりで部屋を出ていった。
ドアが閉まると同時に、私は頬の涙をぬぐい、さっきまでの悔しそうな表情も消え去った。
天宮雪奈が泣きじゃくる姿を見て、心の中で思わずほくそ笑んだ。
数年前、泣いていたのは私だった。
今では立場が逆転し、まだ何もしていないのに、彼女はもうこんなにも苦しんでいる。
もし、氷室真司が本当に私を好きになり、天宮雪奈が捨てられる日が来たら、彼女はどうなるのだろう?
かつての私のように、すべてを失い、子どもまで奪われて、死に追い詰められてしまうのか?
心の中でもう答えは決まっている。
歯には歯を目には目を。彼女には私が味わった何倍もの苦しみを返してもらう。蒼汰たちの死に、必ず命を償わせる。
天宮雪奈、復讐はまだ始まったばかりよ。
その頃、雪奈は信じられずにいた。かつて自分を永遠に愛すると誓った男が、他の女のために自分に手を上げるなんて。
しかも、これで二度目!
彼女は顔を押さえ、怒りに震える真司を見つめた。
「真司、あなたはあの女のために私を殴ったの?私に手を上げたの?」
男は冷たい目で彼女を見る。
「謝りに行け!」
「嫌よ!どうして私が謝らなきゃいけないの?私は何も悪くない!」
雪奈は悲痛に叫んだ。
真司の目は細くなり、失望な顔で自分妻を見る。
「どうして、君はこんなふうになってしまったんだ?」
涙で顔を濡らした雪奈は信じない目で自分の夫を見る。
「私が変わったんじゃない、変わったのはあなたよ。あなたがお義姉さんと浮気したんだ。真司、そんなことをして、後はどうなるか分かってるの?世間に知られたらもう終わりよ!もし私がお義父さんに話したら……」
真司は怒りに我を忘れていた。久しぶりに躁状態に入り、一歩前に踏み出すと、雪奈の髪を乱暴に掴み、顔を無理やり上に向けさせた。
「もう一度言ってみろ!」
ここ何年、真司が偶にイライラになると雪奈は知っていた。けれど、今のような目をする彼を見たのは、初めてだった。
いつだって、気持ちが荒れても書斎に一晩中籠もり、家族の前では抑えてきた。
しかし、今日雪奈は一番触れていけないことを触れた。地位と名誉——彼が何よりも大切にしてきたもの。
雪奈は恐怖に震え、慌てて必死に謝った。
「ごめんなさい、真司、私が悪かったの。あなたを失うのが怖くて…ごめんなさい、許して、謝るよ、今すぐ謝りに行くから……!」
だが、一度暴走が始まると、簡単には治まらない。
「パパ……」
「パパ……」
千歳と菜々が騒ぎで目を覚まし、部屋から出てきた。
雪奈は子どもたちを見て、慌ててさらに懇願する。
「真司、お願い、子どもたちが見てるからやめて。私が悪かった、謝るから、お願い、もう怒らないで、放して……」
菜々は怖くて泣き出した。
「パパ……ママ……喧嘩してるの?怖いよ!」
千歳は少し勇気を振り絞り、真司に詰め寄る。
「パパ、どうしてママを叩くの?ママを放して!」
菜々の泣き声、千歳の問い詰め、雪奈の叫び声——それらすべてが、真司の怒りにさらに油を注いだ。
「うるさい!みんな黙れ、黙れ!」
彼の理性は完全に崩壊し、狂気と化した。
雪奈は必死にもがいたが、到底真司の力には敵わない。ついに、彼女は真司の手に噛みついた。
千歳はその様子に怯え、慌てて三階へ駆け上がる。
下の騒ぎは私にもはっきりと聞こえていたが、しばらく無視を決め込んだ。しかし、千歳が私の部屋のドアを激しく叩き始め、仕方なくゆっくりと起きて扉を開け、眠たげなふりをした。
「どうしたの、千歳?」
「汐里、パパとママが喧嘩してるの。すごく怖いの、早く二人を止めて!」
千歳は泣きじゃくり、全身が震えていた。
私は頭をなでて慰めた。
「大丈夫よ、私が行くから。」
下に降りると、雪奈は床にうずくまり、頭から血を流していた。その白い肌に赤い血が流れる様子が目に刺さった。
まるで五年前の自分だ。
一方、真司は部屋の物を次々と壊していた。
菜々は階段の隅で泣き声を止められずに震えていた。
「千歳、妹を連れて部屋に戻りなさい!」
小さな体で震える菜々を見て、さすがに心が痛んだ。
子どもたちは何の罪もない!
千歳は妹の手を引いて、二人で階段を上がっていった。
私はゆっくりと氷室真司に近づく。彼はちょうどレコードプレーヤーを持ち上げて、床に叩きつけようとしていた。
「真司!」
彼は力いっぱいレコードプレーヤーを床に叩きつけ、粉々に砕け散った。次に、花瓶を手に取った。
私は彼の腕をそっとつかむ。彼は私を睨みつけ、怒りで目が血走り、その花瓶を今にも私に投げつけそうだった。
「真司、私よ」
彼を見上げて、優しく声をかける。
彼は私をじっと見つめ、しばらくしてから何かつぶやいた。
「雪乃……」
私はびっくりし、花瓶が床に落ちて粉々になった。
彼は突然私を抱きしめた。あまりにも力強く、まるで私が今にも消えてしまいそうなほどだった。
「雪乃、帰ってきたのか?帰ってきたんだな!なぜ裏切った?あのボディーガードがそんなに良かったのか……」
うわ言のような言葉が漏れ、私はその場で固まった。複雑な気持ちでいっぱいだった。彼は正気を失ったとき、私の名前を呼んでいた。
そして、もう一つ自分の秘密に気付いた――私がボディーガードと浮気し、彼を裏切った。
滑稽すぎて笑い出しそう!私が死んだあと、子どもたちが彼の子だと分かった今でも、彼にとって私は裏切り者!
私はいまだに浮気の罪を晴らせていない!
天宮雪奈は力尽きに立ち上がり、私たちの元へ歩み寄ると、氷室真司の腕を引きはがそうとした。
「真司、放して!雪奈だよ、私はここにいるわ。あなた、抱きしめる相手を間違えてる!」
氷室真司が私の耳元でつぶやいた言葉は、天宮雪奈には聞こえなかったみたい。しかし、「雪乃」と彼が呼んだことだけは、彼女にも届いていた。
それでも、氷室真司は天宮雪奈を無視し、離そうとするその手を気づき、さらに強く抱きしめてきた。
息ができなくなりそうだった。私は彼の背中を軽く叩く。
「真司さん、息ができないの。」
それでも彼は動じず、目を閉じて自分だけの世界に閉じこもっている。
「このままじゃ、私、死んじゃうよ。」
おそらく「死」という言葉に反応したようで、彼はゆっくりと目を開け、ようやく私を放した。
私は深呼吸して、彼から一歩離れた。
天宮雪奈はすぐに駆け寄り、彼の手をつかんだ。
「真司……どうしたの?私を見てよ、雪奈だよ……」
氷室真司の目はうつろで、しばらく何も言わなかった。
彼がようやく正気に戻ったと思ったその時——
突然目の前の雪奈を突き飛ばし、頭を抱えて大声で叫びだした。まるで檻の中の獣のように、すべてを壊して逃げ出そうともがいていた。
自分の行動が周りにどんな影響を与えているかも、まったくわかっていない様子で、真っ赤な顔に全身が今にも裂けそうなほどに緊張している。
こんな彼を見るのは初めてだった。正直、不安や恐怖もあったが、それ以上に、心の奥底で相手を従わせたいという欲望が膨れ上がるのを感じた。