氷室真司が感情障害を抱えていると知ってから、私はその病気について徹底的に調べた。患者がどんな状況で怒りを爆発させるのか、どうやって暴走した状態から落ち着かせるのか。
その知識は今まで理論にすぎなかったが、今日初めて使うことになる。
私は早く自分の研究成果を実践してみたくてたまらなかった。
氷室真司の激しい怒りに、天宮雪奈の感情も崩壊した。彼女は恐怖と悲しみでいっぱいになり、彼の後を追いかけて叫んだ。
「真司、お願い、落ち着いて!どうしたの?そんなの止めて!」
だが、彼女が声をかければかけるほど、氷室真司の行動はますます激しくなる。
「出ていけ!消えろ!」
彼は大声で叫び、傍の物を掴んで天宮雪奈に投げつけ、彼女は頭を抱えて逃げ惑い、私は冷静にその様子を見守った。
ついに彼女は近づくこともできなくなり、視線を私の方に移した。
「全部あなたのせいよ!私たちの幸せを壊しに来て、何の恨みがあるの?」
私は彼女を見て、冷ややかに笑った。
「恨みがないって、本当にそう思う?」
彼女は一瞬言葉を失い、それから私を脅してきた。
「もし氷室将人にあなたが真司を誘惑したって知られたら、どうなるか分かってるの?」
かわいそうに、まだ自信満々に問い詰めに来ているとは。
「私がいつ誘惑したの?むしろ、そんな嘘を広めたら自分がどうなるか考えた方がいいんじゃない?真司はあなたを許すかしら?」
天宮雪奈は私を憎悪のこもった目で睨みつけた。
「お前が真司を誘惑した!真司が本当に愛しているのは私、お前なんかに好きになる訳がない!」
「本当にそう思ってるの?」
そう言い残し、私はまだ荒れている氷室真司のほうへ歩み寄った。雪奈は目を見開いて私を見つめる。
彼かか1メートルほど離れたところで、静かに彼の名前を呼んだ。
「真司……今すごく辛いよね……分かってるよ……全部分かってるよ……
疲れたでしょう?少し座って休まない?」
氷室真司はこちらを見て、動きを止めた。
「座って少し休もう?」
私は優しくそう声をかけた。
彼はゆっくりと座り込んだ。私はすぐ天宮雪奈に指示を出した。
「濡れたタオルを持ってきて」
彼女は私を睨みついたまま。
「早く持ってきて!」
私の冷たい命令に従い、ようやく彼女は洗面所からタオルを取り出し、私は氷室真司に近づいた。
彼はうつむきながら荒く息をしていて、すでに疲れ切っていた。
そっと彼の前にしゃがみ、タオルを差し出す。
「汗を拭いて。少しは楽になる。」
優しい声のまま、威圧感を与えないようにゆっくりと話すと、氷室真司は私に視線を向け、徐々に落ち着いた。
だが、彼はタオルは受け取らなかった。タオルをぎゅっと握った手にそっと置き、体が小さく震えたがもう暴れたりはしなかった。
私は彼の手を拭き、さらに額の汗も優しく拭った。彼はおとなしくそれを受け入れた。
離れたところにいる雪奈はそれを見ていられなくなり、氷室真司が落ち着いたと思ったのか、私の手からタオルを奪い取った。
「どいて!私の夫は私が世話する。」
彼女の鋭い声と乱暴な動きに、氷室真司は再びコントロールを失い、壊れたテーブルを蹴り倒す……
まずいと思いき、私はすぐに氷室真司の頭を抱えてその視界を遮り、両手で彼の耳を覆った。天宮雪奈は怖くなって一歩退き、青ざめた顔で真司を見つめる。
彼の耳元で静かにささやいた。
「大丈夫だよ、真司。怖がらないで。疲れたでしょう、休もう!」
「真司から離れなさい……!」
「彼を殺したいなら、好きにすればいい!」
私はゴミを見るような目で天宮雪奈を見る と、彼女はやはり黙り込み、手を強く握りしめて震えていた。
氷室真司の感情も徐々に落ち着き、私は手を離して彼の手を引いた。
「ついてきて。」
言う通り立ち上がり、私と一緒にその場を離れた氷室真司を見て、雪奈は怒りで顔を真っ赤にし、目を大きく見開いていた。
私は氷室真司を連れて二階の書斎へ向かった。
そこは彼がいつも自分で気持ちを整える場所、彼にとって安らげる空間。
初めてその書斎を見たが、中は意外と広く、入口には屏風があり、その奥にデスク、そして片隅には囲碁用のスペースがある。てっきりベッドが置いてあると思っていたけど、それがなかった。
つまり、彼はいつも夜明けまで座っていた。
書斎に入ると、彼は囲碁の前に静かに座った。
私は氷室真司の正面に座り、彼は机を見つめながらかすれた声で言った。
「碁石は?」
碁石は壊れてしまっていた。
「碁を打ちたいの?」
彼はうなずいた。
意識が混乱していても、囲碁が心を落ち着かせることは忘れていない。
私はあたりを見回し、棚から新しい碁石を見つけ、基盤用意した。
「じゃあ、私から打つね」
彼は何も言わず、私は黒石を一つ置いた。
彼の頭はまだぼんやりしていたが、碁の腕前は変わらない。
二時間後、彼の気持ちはほぼ平静に戻っていた。その間、私たちは一言も会話せず、ただ静かに碁を打ち続ける。
今日は彼を刺激しないように、私は争うことなく穏やかに碁を進めた。
見たところ、彼の勝ちは目前だった。
きっとこの対局が終われば、少しは冷静さを取り戻すだろうと、私はそう思っていた。
ところがそのとき、彼はふいに手にしていた碁石をテーブルに置いた。
「わざと負けてるの?」
低く落ち着いた声が頭上から響き、私は顔を上げ彼の瞳を見つめた。
落ち着いてるようでほっとした。
「そんなことないよ」
彼はもう大丈夫みたい。
すると、彼は横に首を振った。
「君は何度も譲ってくれた」
私は何も言わなかった。
彼はため息をつき、ふっと目を閉じた。
一瞬、彼が本当に落ち着いたのか、それともまた怒り出すのか分からず、緊張した。
しばらくして、彼はゆっくりと口を開いた。
「今日は、みっともないところを見せてしまったね」
「そんなことないよ」
と呟いてるように答えて、彼はゆっくり目を開いた。
「怖かった?」
私は首を振り、それから小さくうなずいた。
「ちょっとだけね」
彼は少し笑った。
「それでも俺に近づけ……」
彼は言葉を切り、かすれた声で続けた。
「どうして逃げなかった?」
彼が言いたかったのは、「どうして近づいたんだ?」ということだと分かっていた。
「そうだね、逃げるべきだったのかも。あのときは……」
「何?」
彼は私を見つめ、私も彼を見つめ返した。
「悲しかった。」
その言葉に、氷室真司の目が一瞬強くなり、呼吸が少し乱れた。
「あなたみたいな素晴らしい人が、こんなふうになってしまうなんて……見ていられなかった。」
そして誤解されないように、説明した。
「あなたを尊敬しているから、放っておけなかった。」
彼の唇がわずかに震え、ついには微笑みが浮かんだ。
「この前君は、そのそっくりな人が俺と何の関係かと聞いたよね?」
彼はゆっくりと話し始め、私は彼の顔をじっと見て続きを待っていた。
「それは、俺の元妻だ。」