氷室真司はついに過去の話を切り出した。
私は静かに彼の口から語られる「私自身」の話に耳を傾けている。
「彼女はとても美しい。君と、よく似ている……
最初は俺と一緒にたくさん苦労してきた。料理も上手で、子どもの面倒を見るのも得意。ほとんどを家事や育児に時間を費やした」
私は彼を見つめながら尋ねた。
「彼女は学校卒業した?どうして働いてなかったの?」
「一流大学の出身だ。俺のために……仕事をしなかった。」
そう、あの頃大学を卒業してすぐ彼と出会い、駆け落ちした。身につけた知識を発揮する機会もなく、彼のために子どもを産み、家庭に尽くした。
「じゃあ、彼女の家はあまり裕福ではなかったよね。そうでもなければ、家にこもって専業主婦に甘んじるなんて、なかなかできないと思う。」
彼は突然顔を上げた。
「どうしてそう思う?」
「普通、良い家の育ちで、しかも優秀な女の子なら、プライドも高いし、恵まれた環境で育ってきているはず。そんな女性が、家庭に縛られて毎日家事や育児に明け暮れることに、簡単に納得できるとは思えない。」
氷室真司の顔色が少し変わった。しばらく黙ってからつぶやいた。
「実は名家のお嬢様だったんだ。」
私は驚いた目で彼を見た。
「それなら、本当にあなたのことを愛していたんだね」
氷室真司の目には、どこか曇ったような影が落ちていた。
「あなたはそうは思っていないみたいね」
氷室真司は視線を落とし、手の中の碁石を指でなぞっていた。
「……彼女は俺を裏切った!」
私の心は一気に沈んだ。まだ気づかないとは、どこまで愚かなんだ!
「相手は、あなたよりも凄い人だったの?」
私は心の波立ちを抑えながら、彼を見つめた。
彼は首を振り、敗北感に包まれた顔で答えた。
「……ただのボディーガードだった」
「ボディーガード?それは信じられないわ」
私は思わず口にして、彼は私を見た。
「君も信じらなかっただろう?」
「立派なご主人がいて、可愛い息子もいる。あなたのために裕福な生活を捨て、家事や育児に専念してきた女性が、あなたを裏切る理由はないと思う。」
「子どもは2人だった。彼女は俺のために二人の子どもを産んでくれた。だけど……」
言葉はそこで途切れた。
だけど、娘は生まれる前に死んだ。
息子も、後に亡くなった。
どちらも、彼のせいに死んだ。
私は彼をじっと見つめて尋ねた。
「だけど、何?」
彼は何も言わなかった。
私の胸の中にいろんな感情が渦巻く。悔しさ、怒り、そして哀しみ。
「あなたは、彼女を愛していたの?」
氷室真司は深呼吸し、胸は激しく上下しはじめた。きっと彼は蒼汰たちのことを思い出した。後悔と罪悪感―――それが彼の病の原因であり、同時に暴走する引き金でもある。
「真司さん、お茶を淹れてあげましょうか?」
私は静かに声をかけた。彼がこれ以上取り乱さないように。もしまた発作が起きれば、彼自身も危険だし、私ももう抑えきれないかもしれない。
お茶を淹れる時間は、気持ちを落ち着かせてくれる。彼はお茶そのものより、淹れる過程が好きなのだろう。
書斎には、茶器の揃ったテーブルがある。
私たちは向かい合って座り、お湯が沸くのを静かに待つ。
彼の視線は湯気の立つポットから離れない、突然茶器をひっくり返すのではないかと心配していた。
けれど、何もしなかった。
若緑の茶葉が湯の中でゆっくりと開き、淡い緑色の茶がカップに注がれる。
私はカップを差し出した。
「味わってみて。」
固く握られていた手がようやくほぐれ、私の手からカップを受け取った。彼はカップの中の茶をじっと見つめ、ふいに言った。
「昔……彼女のことを愛していた。」
私の心は激しく波打ち、持っていたカップを揺らしてしまい、お茶がこぼれて手がやけどした。
慌てて茶碗を置いた瞬間、彼は私の手を引いて自分の口元に持っていき、そっと息を吹きかけた。
「やけどは痕になってしまう……」
何年も前、彼はそのやけどを冷たく見ていた姿がよみがえる。
今は指一本にさえ心を痛めている。
このときの彼は、まだ正気を取り戻していないのだろうか?
今、彼の目に映る私は相沢汐里?それとも天宮雪乃?
どれでもいい、私はもう冷静に彼と向き合うことはできない!
すぐ手を引き抜き、立ち上がって部屋を出ようとした。
「どこへ行く?」
離れようとした私を見て、彼は慌てだした。まるで今の私が、彼にとって唯一の支え。私がいなくなれば、彼は壊れてしまうことになる。
実際、彼が取り乱している姿は死にかけの小動物のようだ。狂乱と理性がせめぎ合い、彼の心の中は恐怖と不安でいっぱいなのだろう。
「もう大丈夫みたいで、私もそろそろ行かないと。」
私は彼を振り返らずに言った。
「行かないでくれ!」
「真司さん、こんな夜中に男女が同じ部屋でいるなんて、やっぱり良くないわ。雪奈さんもきっと不機嫌になる。」
彼がどれだけ私を求めていても、私は身を引く。氷室真司、あなたの妻は天宮雪奈。あなたを狂わせた女性。
私はそのまま部屋を出て、氷室真司はずっと私の背中を見っていた。
扉を開けると、そこには天宮雪奈の怒りに満ちた顔があった。
「中で何をした?」
「思った通りよ。」
私は微笑んで答えた。
そのまま、軽蔑するように笑い、杖をついて彼女の肩をかすめるように通り過ぎた。
雪奈は慌てて書斎に駆け込み、真司がぼんやりと茶器を見つめているのを見た。
部屋の様子や真司の服装をじっと確かめる。
落ち着いたとは言え、やはり彼女は真司をどこか怖れていた。彼が取り乱した時の姿はあまりにも恐ろしく、彼女自身も傷ついたからだ。頭には包帯、頬には指の痕が残っている。
彼女は真司の正面に座り込む。
「真司、彼女と何をしていたの?」
しつこく問い詰める彼女に、真司は重い目を向けた。
彼は何も言わなかった。意識はまだ朦朧としていて、冷静になりたくても、頭の中は混乱したまま。
「真司、答えてよ。こんな長い時間二人で部屋にいて、何をしていたの?あの女が誘惑してセックスでもしたの!?」
雪奈は今にも壊れてしまいそうだった。
真司は拳を固く握りしめ、目を閉じた。
「出て行け!」
雪奈は一瞬固まった。
「……今、なんて言った?」
「出て行けと言ってる!」
真司の拳が茶卓を叩きつける音が響く。カップが倒れ、お茶があちこちにこぼれる。
雪奈は冷たい目をした夫を見つめ、涙が一気にあふれた。
かつて、彼は自分に大声を出すことすらなかったのに。今は手をあげ、追い出そうとするなんて。
ケガしたところを見て心配し、謝ってくれると信じていた。あれは彼が正気を失っていた時のこと、本気で恨むつもりはなかった。
でも、今の彼はすっかり正気に戻っているのに、謝るどころか冷たいまま。
「いいわ、私出ていくよ。もう二度とあなたの前には現れない!」
雪奈の心は深く傷つき、泣きながら部屋を飛び出していった。
私は自室で車のエンジンがかかり、走り去る音を聞こえた。
最初、氷室真司が出て行ったのだと思っていた。
翌朝、帰ろうとした時、出ていったのは天宮雪奈だと知った。
家の中は荒れたまま、氷室真司はまだ書斎にこもっている。
千歳と菜々は私にすがりつき、泣きながら「行かないで」と頼んできた。