昨夜のうちにここを出ようと思っていたけれど、あまりにも遅い時間だったし、タクシーも捕まらない。しかも足に怪我をしていたから、今朝まで我慢するしかなかった。
ここではどうしても眠れない。
そう計画していたが、まさか朝起きてこんな状況になっているとは思わなかった。
子どもたちは私を抱きしめ、泣きながら離れようとしない。
「汐里、ママがどこに行ったかわからないの。お願い、行かないで。怖いの……」
「汐里、パパが怖いよ。お願いだから、行かないで。菜々、本当に怖いの!」
私は困り果てていた。
「ママはすぐ帰ってくるから、心配しないで。パパも君たちに何もしない。」
優しくなだめ、なんとか二人を落ち着かせて手を離してもらおうとした。
「でも昨日のパパ、すごく怖かった。ママを叩いたんだよ!」
「パパはちょっと怒っていただけで、ママを叩いてないよ。見間違えたんじゃない?」
やはり見られたと思い、私はため息をつき、彼女たちを何とか誤魔化そうとした。
「違うよ、ちゃんと見たもん。ママの顔に叩かれた跡があった。パパが叩いたんだの。パパはママのことも、私たちのことも愛していないの!」
涙を流しながら、千歳から憎しみの感情を感じた。この子は如何やら天宮雪奈の性格を受け継いでいる。幼いのに、計算高くて情け容赦もない。
「帰るのか?」
氷室真司が階段を降りてきた。昨夜と同じ服のまま、どこかやつれた様子で、顎にはうっすらと無精髭が見える。顔色も冴えない。
千歳と菜々は彼を見るなり、私の後ろに隠れてしまった。特に菜々は怖くて泣き出した。
「怖い、来ないで!」
氷室真司は驚いたように立ち止まった。まさか子どもがこんなに怯えているとは思っていなかったのだろう。
泣き声を聞いて慌ててやってきたお手伝いさんに、氷室真司は小声で指示した。
「二人を洗面所に連れて行け」
お手伝いさんはすぐに千歳と菜々のところへ来たが、二人は必死に私の服をつかんで離れない。
「汐里、行かないで!」
「汐里が行かないなら、行く!」
「分かった、行かないよ」
仕方なく私は帰らないと彼女たちに約束して、それでやっと大人しくお手伝いさんに着いていった。
「帰るつもりか?」
階段上の氷室真司は私が手にしていたバッグに目を留め、ゆっくりと私の前に来て尋ねた。
「ええ。」
「でもさっき子どもたちに約束しただろう?」
そう言いながら、じっと私を見つめる。
「じゃあ、あなたから子どもたちに説明して。」
「子どもには嘘をついちゃいけないだろう。約束は守るべきだ。」
彼は私の味方をする気はないようだ。嘘をついていけないより、私にかえってほしくないのが本音だと思う。
「奥さんが出て行ったけど、探しに行かないの? 私がここにいたら、彼女は戻らないと思うけど。」
昨日、彼と天宮雪奈が書斎で何があったのか、私は知らない。いつ天宮雪奈が出て行ったのかも分からない。でもきっと、激しく言い争ったに違いない。
氷室真司はため息をついた。
「君をこのまま帰したら良くないと思う。それに、お義父さんや兄貴に知られたら、俺が責められることになる」
なるほど、要するに尚人さんに怒られるのが怖いだけか。
「君がここにいてくれたら、少しは心が落ち着く…………頼む、もう少しだけいてくれないか?子どもたちが俺を怖がらなくなって、俺も落ち着いたら、ちゃんと送り返す」
どこか懇願するような口調だった。
本当はもう出て行きたかった。目的を果たしたし、一刻も早く離れたかった。
でも、ふと別の考えが浮かんだ。
もし、私がここにいる間に、天宮雪奈の娘たちが私に懐いてしまったら、彼女はどんな気持ちになるだろう?
かつて彼女が蒼汰を使って私を傷つけたように——今度は私が倍返ししてやってもいいのかもしれない。
「分かった」
私は承諾した。すぐに別荘の使用人やボディーガードたちが部屋を片付けてくれたが、部屋の中はほとんどのものが氷室真司によって壊されていて、がらんとしていた。
残っていたのはテーブルだけ。朝食はそのテーブルで、千歳と菜々が私のそばにぴったりと座って食べた。今の彼女たちにとって、私はまるで守り神のようなもの。
食事が終わると、運転手が二人を学校へ送っていく。車に乗る直前、二人は私のところに駆け寄ってきた。
「汐里、本当に行かないよね?」
「行かないよ。帰ってくるまで待ってるから。」
二人はとても嬉しそうに私を抱きしめて、元気よく学校へ向かった。
でも、ふと不思議に思った。彼女たちは母親がどこに行ったのか、いつ帰ってくるのか聞いてこない。天宮雪奈のことは一言も口にしなかった。
二人を見送ったあと、私は氷室真司と庭に立っていた。
「雪奈さんを探しに行かなくていいの?」
「数日したら、きっと落ち着いて戻ってくる。」
氷室真司は淡々と答え、目には何の感情も浮かんでいなかった。
かつて、あれほど天宮雪奈を愛していた男が、今はもう変わったのか?天宮雪奈もきっと胸が張り裂けるような思いだろう。
やっぱり、男の愛ほどあてにならないものはない。
私は黙ってうなずき、夫婦問題には余計な口を挟まないことにした。ただ静かに見守るだけでいい。
「ちょっと頭が痛いから、休んでくる、」
氷室真司はそう言って部屋に戻った。
今日は週末、私も特に行くところもなく、庭のブランコに腰かけてのんびりとしていた。
しばらくすると、お手伝いさんがそっと屋内から出て、声をかけてきた。
「相沢様……氷室様に相談できなくて困っていることがあるんです」と。
「何かお手伝いできるかしら?」
私はブランコから立ち上がり優しく答えた。
彼女たちについて行くと、家の中には割れた花瓶や、欠けたクリスタルグラス、砕けた碁石や壊れた碁盤などが山積みになっていた。
「どれも氷室様の大切なものなんですが、壊れてしまって……どうしていいかわからなくて」
私は碁盤と碁石をまとめた。
「これは私が預かるわ、花瓶は倉庫に保管しておいて。もし後で彼が探したら渡せばいい、あとは全部処分して」
お手伝いさんはまだ不安そうな様子にいた。
「もし氷室様に聞かれたら……」
「もし何か言われたら、私の指示だって伝えて。」
責任を負わなくに済んで、お手伝いさんたちは私の言葉通りに動き、みんなとても感謝してくれた。私にとっても、彼女たちと距離を縮めるいい機会になった。
この日、私は色々なことを知った。
「奥様は普段とても厳しくて、私たちも気を抜けません……」
天宮雪奈は氷室真司の前では優しくしているが、それ以外の使用人にはとても厳しいらしい。
「お嬢様たちにも食事やお菓子は厳しく制限されていて、チョコレートケーキなんて年に一度か、ご褒美の時しか食べさせてもらえませんでした……」
「勉強もすごく厳しく、週末も補習ばかり。ダンスやピアノも、全部お奥様に無理やりやらされているんです」
「本当に、お嬢様たちもかわいそうだなと思うことがあります」
「奥様は家具やソファも、決まったブランドの濃い色合いのものしか使いません……」
あぁ、濃い色が好きなのは、彼女の母親――つまり私の継母がそうだったからだ。
氷室真司と駆け落ちする前、彼女たちが「濃色系は品があって、地位のある男性は皆好きなのよ」と話していたのを聞いたことがある。
広々としたリビングを眺めながら、今回は違う色の家具を選んでもいいかもしれないと心の中で思った。
午後になり、氷室真司がようやく目を覚ました。
「家具を新しくしないといけないけど、手伝った方がいいかな?」
私は彼を見つめそっと声をかけた。