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第53話 彼が迎えにくれた

まさか、氷室真司が来るとは思わなかった。


私の驚いた顔を見て、彼は思わず揶揄おうとした。


「来てほしくなかったか?」


「そんなことないよ、入って入って。」


氷室真司が部屋に入ってきて、私はすぐに立ち上り、彼と一緒にソファに座った。


「氷室社長、どうしてここに?」


目の前の男はその質問に答えせず。逆に質問を投げ出してくれた。


「何か飲み物でも出してくれないの?」


「秘書はもう帰りましたけど、コーヒーでよければ淹れます」


私は一瞬戸惑い、彼はうなずいた。


「うん、お願いね。」


私のオフィスにはコーヒーメーカーがある。コーヒー豆を挽きはじめると、香ばしい香りが室内に広がる。正直、苦いものはあまり得意じゃないけど、コーヒーの香りは好きだ。不思議と心が落ち着くし、気分も良くなる。


作る最中彼に振り返った。


「お砂糖、入れますか?」


「君の好きなように淹れて。」


本当は彼はブラックしか飲まないし、甘いものが苦手な人だ。でもそう言われたので、私は砂糖とミルクを入れ、出来上がったコーヒーを渡した。


「どうぞ、お口に合いますか?」


彼は一口飲み、明らかに動きが止まった。でも、そのまま飲み込んだ。


「甘すぎたかな?」


そう尋ねると、彼は静かに微笑む。


「大丈夫。女の子ってみんな甘いものが好きなのかな?」


私はソファに寄りかかりながら答えた。


「たぶん、そうかも。」


「君も甘いものが好きなのか?」


彼がじっと私を見る。


私は少し考え込んだ。


「好きだよ。むしろ苦い経験が好きな人なんて、あまりいないでしょ?」


彼が笑った。


「まるで苦労をしたみたいな言い方だな。」


私はまっすぐ彼を見て、真剣に言った。


「苦労したことあるよ。」


彼は笑みを収めて静かに私を見る。


「兄貴はそんなことさせないだろう?」


私は軽く笑って、答えなかった。私に一番苦しい思いをさせたのは、あなたなんだよ、氷室真司。


「氷室社長、私にご用ですか?」


もう彼の名前を呼ぶことはなくなった。仕事で関わるようになってからは「氷室社長」と呼んでいる。この距離感のある呼び方が、きっと彼にとって心地よくないのだろう。


氷室真司は私を一瞥をくれた。


「自分で植えた木は、自分で世話しないといけないって、君が言ってたよね?」


私はうなずいた。


「なるほど、社長は苗木の様子を見に来たんですね。」


氷室真司は何も言わず、微笑んだ。


「じゃあ、今から見に行きましょうか。」


二人でオフィスビルを出たところ、私は突然足元を止めた。


「一緒に行かないの?」


彼が振り返る。


「氷室社長は私の付き添いが必要ですか?」


「ここは君の植物園だから、勝手に入るのはちょっと…」


彼は控えめに言った。


「確かに、そうですね。じゃあ、案内してあげます。」


ビルから苗木のところまでは少し距離がある。敷地内には移動用のカートがあるので、それに乗った。


氷室真司は助手席に座る。


カートを動かすと、彼がぽつりと足のことを言い出した。


「足はもう大丈夫みたいだね。」


忘れてた!


その瞬間、足を滑らせてカートが急発進してしまい、慌ててブレーキを踏んだ。ちょっと動揺して、胸に手を当てる。


「…足に力入れてはいけないのを忘れてた。」


「おれが運転するよ」


彼はシートベルトを外し、運転席に移り、私は助手席に座り直した。


カートはゆっくりと小道に走り、辺り一面の植物の香り、自然の癒しの空間の中で心が穏やかになる。


夕陽が沈みかけて、小さな世界を優しく照らしている。


私の長い髪が風に舞い、どこからか白いチューリップが一輪、風に乗って落ちてきた。手を伸ばし、その花を受け止める。チューリップは私の大好きな花だ。この景色に心を打たれて、私はそのまま花を耳元に挿した。


氷室真司は隣で私を見て、一瞬言葉を失った。


長い髪は陽射しを浴びて絹のような光を放ち、頬は夕陽に染まって赤く、耳元の白いチューリップがより一層白く際立つ。まるで雪が咲き初めの桃の枝に舞い降りたようだった。


花の香りが彼女を包むのか、彼女の輝きが花を引き立てるのか、分からなくなり。彼女自身は自身の美しさに全く気づいていない。ただ静かに花を飾り、夏の蝉の声までも優しくしてしまう。


本人だけが知らない。今の彼女は、周りの景色よりも静かで美しい。


ただそこにいるだけで、この夏を手にしたように。




氷室真司が道を外れてカートを進めているのを見て、私は慌てて声をかけた。


「真司さん、止まって!ストップストップ!」


彼は我に返り、カートを止めた。


私は息を整え、彼を見つめた。


「今、何を考えていたの?そんなに夢中になって。」


一瞬迷った彼は私の顔を見た。


「これからは、真司って呼んでほしい。「氷室社長」は何か堅苦しすぎる。」


なぜ彼が急にそんなことを言うのか、私にはわからなかった。でも、彼が「氷室社長」と呼ばれるのを望んでいないことは、前から感じていた。


私は答えず、ただシートベルトを外してカートを降りた。


苗木の場所に着くと、もう道はなかった。


私は前を歩き、彼が後ろについてくる。


「どうしてここには道を作らないの?」


私はゆっくり歩きながら彼の質問に答えた。


「ここが境界線なの。」


彼は私を見る。私は立ち止まり、遠くの草原と花の咲く場所を見つめる。


「ここは私だけの場所、他の人は勝手に入れないの。」


彼の視線が私の顔に向けられる。


「あの小屋にも、他の人は来たことがないの?」


「うん。」


私はまた歩き出す。後ろから彼の声が届く。


「じゃあ、兄貴は?」


「来たことがない。」


私は呟いてるように答えると、氷室真司の口元が少し上がった。きっと、心の中では満足しているのだろう。


「将人はまだ来たことがない、ここをサプライズで見せるつもりなんだ。」


そう言うと、彼の笑みが少し固まった。


「じゃあ、ずいぶん前から準備してたんだね?」


「そうなの。一年前から花を育てて始めたんだ!」


目的地に着き、彼が周りの花を見渡す。


「男に花畑をプレゼントするなんて、聞いたことないな。」


私は彼を見て、少し焼きもちを焼いているんじゃないかと思う。でも、それを悟られないように、あえて聞いてみた。


「男の人はこういうのあまり喜ばないのかな?」


彼はすぐに答えず、私は勝手に納得した。


「そうだよね、普通は男が女に花を贈るものだし、女から男にって聞いたことないもんね。」


私が少し寂しそうな顔をしていると、彼は優しく慰めた。


「心を込めて用意したものなら、どんなものでも大切に思うよ。きっと、喜んでくれるんじゃないかな。」


私は目を輝かせた。


「じゃあ、彼もきっと喜んでくれるよね!」


「俺にはわからないけど、もし誰かが自分のためにそんなに考えてくれたら、きっと嬉しいと思う」


私は少し驚いてから笑った。


「あなたに枣の苗木を一本プレゼントしたけど、ちょっと地味すぎた?」


それを聞いて、氷室真司は急いで首を振る。


「そんなことないよ。今までで一番特別な贈り物だ。」


「気に入ってくれてよかった。」


私は明るい笑顔を返す。





苗木の成長は早いもの。氷室真司はしばらく見つめてから、少し眉を寄せた。


「俺の苗木、君の苗木より育ちが悪い気がするんだけど?」


「この前、私の分だけ肥料をあげたからかも。」


ふっと、氷室真司は私を見た。


「じゃあ、俺のは…?」


私はうなずいた。


「そういうこと。」


彼は呆れたように笑った。


「相沢さん、俺のも少しは世話してくれてもいいのに。」


「自分で育ててみないと、成長の様子がわからないでしょ?」


氷室真司は苗に水をやりながら、黙っていた。


「もしかして怒ったの?」


私は肥料を渡しながら聞いた。


「ちゃんとあなたの分も用意はしておいたから、あとは自分でやってみて。大丈夫大丈夫、すぐに追いつくよ。」


肥料を受け取り、氷室真司は私をじっと見つめ、その瞳に深くに何か秘めている。


「実は、君を迎えに来たんだ。」


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