まさか、氷室真司が来るとは思わなかった。
私の驚いた顔を見て、彼は思わず揶揄おうとした。
「来てほしくなかったか?」
「そんなことないよ、入って入って。」
氷室真司が部屋に入ってきて、私はすぐに立ち上り、彼と一緒にソファに座った。
「氷室社長、どうしてここに?」
目の前の男はその質問に答えせず。逆に質問を投げ出してくれた。
「何か飲み物でも出してくれないの?」
「秘書はもう帰りましたけど、コーヒーでよければ淹れます」
私は一瞬戸惑い、彼はうなずいた。
「うん、お願いね。」
私のオフィスにはコーヒーメーカーがある。コーヒー豆を挽きはじめると、香ばしい香りが室内に広がる。正直、苦いものはあまり得意じゃないけど、コーヒーの香りは好きだ。不思議と心が落ち着くし、気分も良くなる。
作る最中彼に振り返った。
「お砂糖、入れますか?」
「君の好きなように淹れて。」
本当は彼はブラックしか飲まないし、甘いものが苦手な人だ。でもそう言われたので、私は砂糖とミルクを入れ、出来上がったコーヒーを渡した。
「どうぞ、お口に合いますか?」
彼は一口飲み、明らかに動きが止まった。でも、そのまま飲み込んだ。
「甘すぎたかな?」
そう尋ねると、彼は静かに微笑む。
「大丈夫。女の子ってみんな甘いものが好きなのかな?」
私はソファに寄りかかりながら答えた。
「たぶん、そうかも。」
「君も甘いものが好きなのか?」
彼がじっと私を見る。
私は少し考え込んだ。
「好きだよ。むしろ苦い経験が好きな人なんて、あまりいないでしょ?」
彼が笑った。
「まるで苦労をしたみたいな言い方だな。」
私はまっすぐ彼を見て、真剣に言った。
「苦労したことあるよ。」
彼は笑みを収めて静かに私を見る。
「兄貴はそんなことさせないだろう?」
私は軽く笑って、答えなかった。私に一番苦しい思いをさせたのは、あなたなんだよ、氷室真司。
「氷室社長、私にご用ですか?」
もう彼の名前を呼ぶことはなくなった。仕事で関わるようになってからは「氷室社長」と呼んでいる。この距離感のある呼び方が、きっと彼にとって心地よくないのだろう。
氷室真司は私を一瞥をくれた。
「自分で植えた木は、自分で世話しないといけないって、君が言ってたよね?」
私はうなずいた。
「なるほど、社長は苗木の様子を見に来たんですね。」
氷室真司は何も言わず、微笑んだ。
「じゃあ、今から見に行きましょうか。」
二人でオフィスビルを出たところ、私は突然足元を止めた。
「一緒に行かないの?」
彼が振り返る。
「氷室社長は私の付き添いが必要ですか?」
「ここは君の植物園だから、勝手に入るのはちょっと…」
彼は控えめに言った。
「確かに、そうですね。じゃあ、案内してあげます。」
ビルから苗木のところまでは少し距離がある。敷地内には移動用のカートがあるので、それに乗った。
氷室真司は助手席に座る。
カートを動かすと、彼がぽつりと足のことを言い出した。
「足はもう大丈夫みたいだね。」
忘れてた!
その瞬間、足を滑らせてカートが急発進してしまい、慌ててブレーキを踏んだ。ちょっと動揺して、胸に手を当てる。
「…足に力入れてはいけないのを忘れてた。」
「おれが運転するよ」
彼はシートベルトを外し、運転席に移り、私は助手席に座り直した。
カートはゆっくりと小道に走り、辺り一面の植物の香り、自然の癒しの空間の中で心が穏やかになる。
夕陽が沈みかけて、小さな世界を優しく照らしている。
私の長い髪が風に舞い、どこからか白いチューリップが一輪、風に乗って落ちてきた。手を伸ばし、その花を受け止める。チューリップは私の大好きな花だ。この景色に心を打たれて、私はそのまま花を耳元に挿した。
氷室真司は隣で私を見て、一瞬言葉を失った。
長い髪は陽射しを浴びて絹のような光を放ち、頬は夕陽に染まって赤く、耳元の白いチューリップがより一層白く際立つ。まるで雪が咲き初めの桃の枝に舞い降りたようだった。
花の香りが彼女を包むのか、彼女の輝きが花を引き立てるのか、分からなくなり。彼女自身は自身の美しさに全く気づいていない。ただ静かに花を飾り、夏の蝉の声までも優しくしてしまう。
本人だけが知らない。今の彼女は、周りの景色よりも静かで美しい。
ただそこにいるだけで、この夏を手にしたように。
氷室真司が道を外れてカートを進めているのを見て、私は慌てて声をかけた。
「真司さん、止まって!ストップストップ!」
彼は我に返り、カートを止めた。
私は息を整え、彼を見つめた。
「今、何を考えていたの?そんなに夢中になって。」
一瞬迷った彼は私の顔を見た。
「これからは、真司って呼んでほしい。「氷室社長」は何か堅苦しすぎる。」
なぜ彼が急にそんなことを言うのか、私にはわからなかった。でも、彼が「氷室社長」と呼ばれるのを望んでいないことは、前から感じていた。
私は答えず、ただシートベルトを外してカートを降りた。
苗木の場所に着くと、もう道はなかった。
私は前を歩き、彼が後ろについてくる。
「どうしてここには道を作らないの?」
私はゆっくり歩きながら彼の質問に答えた。
「ここが境界線なの。」
彼は私を見る。私は立ち止まり、遠くの草原と花の咲く場所を見つめる。
「ここは私だけの場所、他の人は勝手に入れないの。」
彼の視線が私の顔に向けられる。
「あの小屋にも、他の人は来たことがないの?」
「うん。」
私はまた歩き出す。後ろから彼の声が届く。
「じゃあ、兄貴は?」
「来たことがない。」
私は呟いてるように答えると、氷室真司の口元が少し上がった。きっと、心の中では満足しているのだろう。
「将人はまだ来たことがない、ここをサプライズで見せるつもりなんだ。」
そう言うと、彼の笑みが少し固まった。
「じゃあ、ずいぶん前から準備してたんだね?」
「そうなの。一年前から花を育てて始めたんだ!」
目的地に着き、彼が周りの花を見渡す。
「男に花畑をプレゼントするなんて、聞いたことないな。」
私は彼を見て、少し焼きもちを焼いているんじゃないかと思う。でも、それを悟られないように、あえて聞いてみた。
「男の人はこういうのあまり喜ばないのかな?」
彼はすぐに答えず、私は勝手に納得した。
「そうだよね、普通は男が女に花を贈るものだし、女から男にって聞いたことないもんね。」
私が少し寂しそうな顔をしていると、彼は優しく慰めた。
「心を込めて用意したものなら、どんなものでも大切に思うよ。きっと、喜んでくれるんじゃないかな。」
私は目を輝かせた。
「じゃあ、彼もきっと喜んでくれるよね!」
「俺にはわからないけど、もし誰かが自分のためにそんなに考えてくれたら、きっと嬉しいと思う」
私は少し驚いてから笑った。
「あなたに枣の苗木を一本プレゼントしたけど、ちょっと地味すぎた?」
それを聞いて、氷室真司は急いで首を振る。
「そんなことないよ。今までで一番特別な贈り物だ。」
「気に入ってくれてよかった。」
私は明るい笑顔を返す。
苗木の成長は早いもの。氷室真司はしばらく見つめてから、少し眉を寄せた。
「俺の苗木、君の苗木より育ちが悪い気がするんだけど?」
「この前、私の分だけ肥料をあげたからかも。」
ふっと、氷室真司は私を見た。
「じゃあ、俺のは…?」
私はうなずいた。
「そういうこと。」
彼は呆れたように笑った。
「相沢さん、俺のも少しは世話してくれてもいいのに。」
「自分で育ててみないと、成長の様子がわからないでしょ?」
氷室真司は苗に水をやりながら、黙っていた。
「もしかして怒ったの?」
私は肥料を渡しながら聞いた。
「ちゃんとあなたの分も用意はしておいたから、あとは自分でやってみて。大丈夫大丈夫、すぐに追いつくよ。」
肥料を受け取り、氷室真司は私をじっと見つめ、その瞳に深くに何か秘めている。
「実は、君を迎えに来たんだ。」