背中の傷の消毒が終わり、薬箱を片付けようとしたとき、氷室真司が突然私を呼び止めた。
「前にも傷がある。」
手が一瞬固まって、彼の背後から前へと回り込む。
やはり、首にもいくつか傷があった。
「一体どうしたの?傷痕までできたなんて……」
質問しながら、再び消毒液を取り出す。
「俺もこんなふうになるなんて思わなかった。彼女今まであんなこと一度も……」
彼の声が段々と小さくなった。
私は何も言わず彼の前に立ち、顔を横にむけるようと促す。
彼は素直に顔を横に向けたが、角度が足りない。もう言い直すのも面倒で、手を伸ばして彼の顎を軽く押し、しっかりと傷が見えるようにした。
だが、彼の息づかいが少し荒くなるを気づいた。
首の傷は背中ほどひどくはないが、目立っている。消毒を終え、軟膏を塗る。
「絆創膏貼った方がいいかな?」
「会社の人に見られたくない?」
そのまま静かになり、私の質問に答えなかった。
私は絆創膏を手に取り貼ってあげた。
「でも、全部は隠れないよ。」
貼り終えて、彼の元から一歩引く。
「はい、終わり。」
彼は私をじっと見つめ、深い瞳の奥に隠したその感情がどうしても読み取れなかった。
そして立ち上がり、「病院に行こう」と言った。
そのとき、ようやく自分の背中にも痛みを覚え、自分も傷を負っていたと思い出した。
「自分で行くから大丈夫。」
私は踵を返して階段を下りた。
「俺も一緒に行く。」
彼が後を追ってくる。
「本当にいいよ、一人で平気だから。」
私は断ろうとしたが、彼は真剣な眼差しで私を見つめる。
「君にこんな思いをさせてしまった以上、放っておけるはずがない。俺はそんな冷たい人間じゃないから。」
自分を人間だと思ってるの?
氷室真司、私にとって、あなたはもうとっくに人間ではない。
結局、彼と一緒に病院へ行った。
もりやま病院ではなく、彼の心配したことを感じた。下手に噂されるのを恐れたのだろう。
処置が終わり、私は車に乗らなかった。
「氷室社長、これから家に帰ります。」
彼はしばらく私を見つめ、やっと返事をしてくれた。
「送るよ。」
その答えをもらったあと、私はようやく車に乗った。
道中、彼はずっと無言のまま。一体何を考えているのか私には分からなかった。
「夫婦なんて、一晩寝ればケンカも忘れるものよ。それに、子どもが二人もいるんだから。ちゃんと話して、彼女を迎えてあげて。」
これが始まりに過ぎない。天宮雪奈を簡単に許すつもりなんて端からなかった。
私が味わった苦しみ、すべて彼女に倍返しする。
しばらくして氷室真司が別のことを言い始めた。
「車を買ったほうがいい、何かと便利になる。」
突然の車買う提案に驚いた。
「車はあまり好きじゃないの。タクシーで十分。」
「運転手を雇えばいい。俺が探す。」
「ありがとう、考えておく。」
また沈黙が続く。
「彼女から必ず謝らせる。」
ふっと彼が言った。
「いいの、あなたたちが仲良くしてくれれば十分。」
「だが、今回は酷すぎだ!君を傷つけるなんて許せない。君は兄貴が大切にしてきた女で、こんな想いをさせる資格なんて俺にはない。」
彼の手はハンドルを握って浮き出た血管が目立つ。
私はもう、彼の気持ちを考える余裕なんてない。ただ一つ確かなことは、みんなから大事にされる存在は、誰にも顧みられない存在よりも、ずっと価値がある。
もし私が軽く扱いできるような女と思われていたら、氷室真司だってこんなに大切にしなかったはず。
しばらく泣く準備を整え、目頭が熱くなった。
私が黙り込んでいると、氷室真司はふと私を見て、涙ぐんだ私の瞳に目を奪われ、彼は急いで車を止めた。
「ごめん、泣かないで……」
私の嗚咽交じりに泣いてしまった。
「こんな扱いを受けるなんて、生まれて初めてだ。」
氷室真司は深く謝り、どこか苦しげな顔になった。
「本当にごめん。」
私はさらに涙があふれる。
「将人と電話するときも言わなかった。」
氷室真司は手を伸ばしかけ、途中で止めた。そのままティッシュを何枚か渡す。
「全部俺が悪いんだ。必ず納得できる解決案を出すから。」
私はティッシュを受け取る。
「彼女の性格じゃ、謝りになんて来ない。彼女が謝らなかったら、あなたはどうするって言うの?もういいよ。」
何か決めたように、彼は深呼吸をした。
「彼女が謝らないなら、二度と家に戻さない。」
私は驚いて彼を見た。
彼は真剣な目で言い切る。
「俺は本気だ。」
「その言葉だけで十分よ。本当に彼女と離婚するわけじゃないでしょ。彼女はあなたの子どもを産んだのだから。」
氷室真司の目が一瞬揺れる。千歳は養子で、天宮雪奈の子ではないことを彼は知っている。
でも、天宮雪奈は今日、思わず口を滑らせた。氷室真司はそのとき気にしなかったが、今になって思い出したようだ。
私は何も知らないふりをし、行きましょうと静かに告げると、氷室真司は複雑な思いを抱えたまま、再び車を走らせた。
将人の家に着き、私は車を降りる。
「背中の傷は水に濡らさないよう、ちゃんと病院で処置を受けて。」
彼も車を降りて、傷手当の注意事項を再び言い聞かせてくれた。
「分かった。」
「何の傷だ?」
いつの間にか将人が現れ、私の方へ歩いてくる。
「怪我したのか?」
まさか帰ってくるとは思わず、私は少し動揺した。
「大したことないから。」
だが彼はじっと私を見つめ、異常なところをさがしていた。
「何が大したことない。どこを怪我したんかを聞いてるんだ。」
何とか落ち着いて、気を取り直した。
「背中!」
彼の視線が私の背中に向けた。
「足を怪我したはずだよなぁ?今度は背中?どうなってるんだ。」
そして氷室真司に目を向ける。
「汐里がこの数日そちらにいたって聞いたけど、氷室社長の家はもしや戦場なのか?」
氷室真司は将人を見た一瞬だけ驚いたが、すぐに何事もなかったかのように戻った。
「兄貴、本当に申し訳ない。俺の不注意で……」
私は慌てたふりして庇おうとした。
「氷室社長は関係ありません。私が不注意だっただけ。それより、いつ帰ってきたの?何も言ってくれなかったじゃない。」
「とにかく中へ、傷を見せてくれ。」
彼は私を強引に引き寄せ、肩に腕を回しながら耳元で囁いた。
「氷室真司社長、俺たちはここれ失礼する。」
氷室真司はうなずいたが、すぐには車に戻らず、私たちの背中を見送った。
「さっき病院で処置してもらったから平気よ。」
「それでも見せろ、自分の目で見ないと安心できない。」
「明日病院で処置するから……一緒に来て。」
「行かなくてもいい、俺がやる。」
真司は車に乗り、エンジンをかけて屋敷を後にした。
車の中で、彼はいつも通り落ち着いているように見えたが、突然車を路肩に寄せて急ブレーキを踏む。
そして、拳を思い切りハンドルに叩きつけ、荒い息が胸を震わせる。
窓を開けても、息苦しさは収まらない。
彼はいっそう車を降り、ドアにもたれてタバコを取り出し火をつけた。
だが手は震えが止まらない、何度も深呼吸してようやく少し落ち着いた。
自分はマジでイカれていたのか!?
くそっ、気が狂いそうだ!
さっきから頭の中は、氷室将人が汐里に薬を塗る場面でいっぱいだった。