「本当か?」
本当に時が経ていれば、気持ちも薄れていくものなのか?
「絶対そうだよ。奥さんに夢中だった頃と今と比べてみろ、今は前ほどじゃないだろ?」
元治は自信満々に答えた。
たしかに、以前よりも気持ちは冷めてしまって、他の人に惹かれている。氷室真司は黙ったまま、グラスを手に取って一気に飲み干した。
帰り道で、元治の最後の言葉が耳元で繰り返していた。
「最近は彼女に会わない方がいい。どうしても会うなら、普通の友達だと思って接しろ。されから、奥さんと仲良くして、気持ちを取り戻すことが大事だ。そうすれば自然と他の人のことなんて考えなくなるさ。」
彼は深呼吸して、後部座席で目を閉じた。
あの頃の感情を雪奈とどうやったら取り戻せるのだろう?
——まずは、彼女を迎えに行こう。
天宮家
真司が天宮家に着いたのは、もう深夜0時近くだった。
天宮拓郎と天宮津紀子は慌てて着替えて出迎えにきた。
天宮家も岡江では名家だが、氷室家とは比べものにならない。だからたとえ真司が娘を実家に帰らせてしまい、さらに酔っ払って夜中にやってきても、文句ひとつ言わず愛想笑いで迎えるしかなかった。
拓郎はすぐにお茶を用意させるよう使用人に命じた。
「真司、すべてうちの雪奈が悪いんだ。今日帰ってきてしっかり叱っておいた。」
津紀子もにこやかに続ける。
「ええ、私が甘やかしすぎたせいです。でも安心して、雪奈はもう二度とわがままを言わないって約束してくれました。」
真司はソファに座り、頭がぼんやりしていた。
昔、記憶を失っていた頃、彼は一年ほど天宮家で世話になったことがある。その時、天宮夫婦に冷たい態度を取られたこともあったが、結局は受け入れてくれた。
その恩は、今でも忘れたことがない。
「お父さん、お母さん、雪奈を迎えに来ました」
真司は低い声で来た理由を伝い、それ以外のことは、何も言いたくなかった。
「早く雪奈を呼んできなさい!」
拓郎が津紀子に促した。
津紀子は拓郎を睨み、心では納得がいかない様子だった。娘を追い返して、しかも手をあげておいた後、手ぶらで迎えに来るなんて。
「雪奈はもう寝た。明日の朝、起きたらあなたが来たことを伝えるわ。」
そう言って、津紀子はため息をつき、涙が落としそうに。
「雪奈は帰ってきてからずっとろくに眠れず、毎日泣いてばかり。今日やっと眠ったから、少しでも娘に休ませてあげたいの……」
しかし、こんな下手な芝居真司には通じない、彼は拓郎に向って決して相手が断らない条件を持ち出した。
「お父さん、最近南の埋め立ててできた新しい土地に興味があるっと聞きましたが?」
拓郎は思わず顔を輝かせたが、すぐに沈んだ表情になる。
「ああ、でもあそこの土地は高すぎて、うちの予算じゃ手が出ないんだ。何度交渉してもだめで……」
「あげます。」
真司は淡々と言った。
「本当か?あそこは何社も競っていたと聞いたが!」
拓郎は驚きのあまり言葉を失っていた
「ああ。今日買ったばかりで、明日会社で担当に手続きしてもらってください。」
「それはありがたい!でも、ただでもらう訳にはいかない。将来利益が出たら、半分はお返しするよ。」
拓郎は大喜び。真司は無表情で断りながら、津紀子の方をじっと見た。
津紀子は慌てて下手な言い訳を探す。
「さ、さっき物音がしたみたい、雪奈が起きたかも。ちょっと様子を見に行きます。」
実際、雪奈はとっくに起きていて、廊下の角に隠れ全てを聞いていた。津紀子が上がってくると、親子揃って急いで部屋に戻った。
「だから言ったでしょ、真司はあなたのことをちゃんと想ってるのよ。ほら、夜中に酔っ払ってまで迎えに来てくれたじゃない。」
津紀子は笑いながら自分の娘を揶揄っていたが、雪奈は納得がいかない。
「昨日は私に出ていけって言って、罵倒までされたのに、今日は手ぶらで迎えに来るなんて有り得ない!そんな簡単に戻るわけない。」
津紀子は娘のおでこを軽く当てる。
「あの土地がどれだけの価値か分かってる?何億円もするのよ。それ以上の贈り物なんてあるはずがない!」
「私へのものじゃないし」
雪奈は口を尖らし、津紀子は微笑んだ。
「バカね、いずれ私たちの財産は全部あなたのものになるのよ。それに、彼がそこまで誠意を見せてるんだから、もう家に戻りなさい。子どもたちも待ってるんだから。ほら、もうこんな時間よ。」
ようやく雪奈は津紀子と一緒に階下へ降りてきた。彼女は不満げな顔のままで、真司を見ようともしない。
真司は雪奈が降りてくるのを見ると立ち上がった。
「帰ろう。」
優しい言葉の一つもない夫を見て、雪奈はまた階段を上がろうとした。
最初に家に帰った時は、不安でいっぱいだった。真司が本当に自分を気にかけていないのではと心配だった。
だが彼は来てくれた。そして、自分のためこんなに酔うまで飲んでくれた。やっぱり自分を愛してくれている——そう思うと、また自信が溢れた。
あの時も、真司は大声で向かって自分は家に戻り、迎えに来たときは、たくさんのお土産を持ってきて、何度も謝って、機嫌が直るまでずっと甘い言葉をしてくれた。
だから、今回も簡単には帰りたくない。
雪奈がまたすねているのを見て、真司は眉を寄せ、彼女の腕をつかんだ。
「どこに行くつもりだ?」
「私がわがままと言ったのは真司でしょう?私のことを罵って、出て行けって言ったんじゃない?」
雪奈は顔をそむけて真司を問い詰め、突然涙をこぼし始めた。
「じゃあ、なんで迎えに来たの?」
「君は俺の妻だ。迎えに来ないで誰を迎えに来るんだ?もういいだろ、帰ろう。子どもたちが待ってる。」
「じゃあ、あの言葉を取り消して」
真司はうなずいた。
「取り消す。これでいいか?」
「間違ってたって認めて!」
雪奈は涙目で要求し続け、真司は深呼吸する。
「悪かった。もう帰っていいか?」
「うん。」
顔色を見て、そろそろ真司の我慢が限界に近いと分かり、雪奈はようやく帰ると応じた。
真司は雪奈の手を引いて家を出た。
車はゆっくりと天宮家を離れ、家へと向かう。
車に乗ると、真司は雪奈の手を離し、こめかみに手をあてた。
頭が痛い。
雪奈は隣に座り、どこか寂しそうで失望な表情をした。
昔なら、彼はもっと慰めてくれたのに、今日はどこか冷たい気がする。
雪奈は小さな声で、「頭、痛いの?マッサージしてあげる」と声掛け、真司はうなずいた。
彼女は隅に座り、真司の頭を自分の膝に乗せ、そっとこめかみを揉んであげた。真司はぼんやりとした意識の中、雪奈のマッサージで少し楽になった。
しばらくして、雪奈は彼が寝てしまったのを見て、そっと自分の手を彼の手のひらに重ねた。すると、真司はその手をしっかりと握りしめた。
その晩、真司はぼんやりしたまま雪奈に支えられ、寝室まで運ばれ、そのまま眠った。
翌朝、真司が目を覚ますと、隣にいる雪奈を見て少し驚いた。
昨夜のことを思い出し、ようやく雪奈を迎えに行ったことを思い出したのだ。
雪奈も目を覚まし、彼を抱きついた。
「おはよう、真司。」
真司は少し笑って、彼女の手を握り返した。
なぜか、腕の中にいる女性が、かつて自分が愛してやまなかった少女とは思えなくなっていた。
雪奈はすっかり機嫌が良かった。真司が自分を迎えに来てくれたし、戻ってきたら相沢汐里ももういなくなっていた。
家は、また前のように戻った。
彼女は子供たちの学校の支度をしに起き上る。
「汐里、今日の朝ごはんは何?」
階段を降りてきた千歳と菜々の言葉を耳に、テーブルの前に立っている雪奈の表情が一瞬固まり、鋭い目で二人の娘を見つめた。
「今、誰に話しかけているの?」