「ありがとう、ボス!」
実際、将人は表向きは冷たそうだけれど、私にはずっと優しかった。
ただ、あの五年間、彼の厳しさには少し怯えていた部分もある。食事や身の回りのことには、いつも甘やかしてくれていた。
食事が終わると、彼は私をショッピングモールへ連れて行った。
「服は足りてるよ~」
買い物したくない、疲れすぎる!
「明日結婚式に行くんだ。綺麗なドレスを選ばないと。」
私はふっと顔を上げた。
「私も行くの?」
「彼女なんだから、当然一緒に行くだろ」
なぜか当たり前のように口にして私を見る。
「でも、私たち本物のカップルではないんですよ。」
真顔で将人を見つめると、彼も見返した。
「氷室真司も来る。彼の前で芝居しなきゃいけないだろ?」
なるほど、彼も来るのか。私は納得してうなずいた。
「そっか……それで、どんな風に演じればいいの?」
「もちろん、彼に後悔させてやるんだ」
大体の意味は分かったが、詳しい内容については何度聞いても、それ以上は教えてくれなかった。
翌日
結婚式は夕方からで、式の後はそのままパーティーが始まった。
そこで初めて知ったのだけど、彼の友人もまた大物だった。しかも前に一度会ったことがある。
九条グループの社長、九条千秋。
グローバルビジネスで将人の名前を知らぬ者はいない。
彼の登場はまさに注目の的だった。彼の腕に私が寄り添うと、自然と私も会場の視線を集めていた。
将人は私を千秋社長のもとへ連れて行った。
「大学時代の同級生、九条千秋だ。」
私は笑顔で挨拶する。
「九条社長、はじめまして。」
千秋社長はにこやかに手を差し出して握手してくれた。
「いやいや、そんな堅苦しくしないで。千秋って呼んでよ。僕と将人は命を預け合った仲だから!」
「じゃあ、千秋さんと呼ばせていただきますね。」
千秋は嬉しそうに目を細めた。
「彼女さん、君よりよっぽど気が利くようだな、将人。」
「いい気になって……今日はお前の晴れ舞台だ。ちょっとくらいイキらせてやるよ。」
千秋社長は声をあげて笑う。
「二人でごゆっくり。僕はちょっとお客さんのところへ行ってくる。またあとで、改めて食事でもしよう!」
そう言って将人の肩を軽く叩き、その場をあとにした。
私は将人に視線を向ける。
「あなたたちの名前って、それぞれ過去と未来を意味してるんだね。不思議な縁だよね。」
「そうだな、学生時代は永遠の二人の王子って呼ばれてたんだ。」
将人が冗談めかして笑う。
私は思わず吹き出してしまい、彼に睨まれた。
「……なんだよ、イケてないのか?」
「ううん、かっこいいよ。すごく!」
と、慌てて持ち上げる。
本人が自分で自分を褒めるのはなんかと思うが、二人とも文句なしの美男子。
「氷室社長が来たぞ……」
誰かの声をきっかけに、会場の視線が一斉に入り口へと向く。
そして人々はまるで吸い寄せられるように、氷室真司のもとへ集まっていった。
氷室真司――ビジネス界でも名の知れた凄腕。
その表情には、上に立つ者の穏やかさと揺るぎない自信がに溢れ、ゆっくりと場内へと足を踏み入れた。
その隣には、気品に満ちた女性――天宮雪奈の姿があった。
髪をきちんとアップにまとめ、最新の高級ドレスに身を包み、目を引くジュエリーが彼女の存在感をさらに引き立てている。
女性たちの視線が、まるで憧れの的を見るように彼女へと集まっていく。
私は、ただ茫然とその光景を見つめるしかなかった。
あれほど長く氷室真司と付き合っていたというのに、公の場に連れてこられたことなど、一度だってなかった。
私の存在を彼は一度も認めることはなかった。でも今は、天宮雪奈を堂々と隣に連れている。
どうして、あの頃の私はあんなにも愚かだったのだろう。
目の前に広がるこの現実が、過去の自分の浅はかさを残酷なまでに突きつけている。
「汐里。」
耳元で将人の低い声がした。
過去の記憶からふと現実に引き戻され、将人が静かに赤ワインのグラスを手渡してきた。
「何を考えてた?」
私は首を振った。
「なんでもない。ただ……自分のバカさ加減を思い出した。」
「だったら、今は賢くなれよ。」
彼の声が耳元で低く、優しく囁いた。
氷室真司がこちらに気づき、歩み寄ってきた。
私は深呼吸をして、できるだけ平静を装う。
一週間の出張で痩せたせいか、今日は黒のドレスが一層エレガントに見える。首元にはアクセサリーもなく、まとめた黒髪に大ぶりのパールヘアピンをひとつ留めているだけ。余計な飾りがなくても十分に気品がある。
「兄貴、まさかここへ来るとは思わなかった。」
氷室真司は驚きを隠せない様子だった。
換りに将人は相変わらず無表情のまま。
「千秋は大学時代の友人だ。」
「そうだったんですか。」
ふっと天宮雪奈は私に声かけてきた。
「お義姉さん、少し見ないうちに随分痩せたんじゃない?」
私は軽く微笑む。
「それは大げさすぎる。」
これ以上話す気はなかったけれど、彼女はさらに話しを続けた。
「千歳や菜々もあなたを恋しがってるのに、最近の食事会には顔を出さなかったよね。」
私はグラスを傾けながら、上の空で聞き流していた。
そのとき、「ちょっと失礼」と声がかかり、将人は小声で言い残してその場を離れた。
氷室真司がさっきからずっとこちらを見ていることに、私は気づいていた。
けれど彼は、将人がそばにいるあいだはその視線を抑えていた。将人がその場を離れると、氷室の視線は一層あからさまになった。それでも彼は、離れた場所でグラスを傾けながら、周囲の人々と穏やかに挨拶を交わしている。まるで何事もなかったかのように。
しばらくして周りに人がいなくなると、天宮雪奈が引き続き小声で話しかけてきた。
「背中の傷、もう治った?凛音はちゃんと感謝してくれた?」
その瞬間、私は初めて彼女を正面から見据え、薄く笑った。
「もう芝居はやめるの?」
天宮雪奈もまた、演技をやめたように表情を引き締める。
「じゃあお前はどう?氷室将人に真司を誘惑したこと、バレてもいいの?」
私は静かに、彼女との距離を詰めていく。
「ニューヨークから戻ってきて……あなたの願いは叶った?」
天宮雪奈の表情が一変して、目を見開いて私を見上げた。
「彼、あなたとした?」
「なっ……!」
こんなプライベートなことまで知られていたとは思ってもいなかったのだろう。
私はゆっくりと手にしたグラスを口元へ運び、さらりと告げた。
「あなたの旦那さん、私を見るだけで、自分を抑えきれなかったわ。」
そして天宮雪奈の肩を軽く叩く。
「じゃ、失礼するわ、雪奈さん。」
顎をすっと上げ、彼女の横を優雅に通り過ぎたそのとき、歯ぎしり音を背後から聞こえた。
天宮雪奈、もう私は五年前のあのか弱い女ではない。
張り合いたいなら、好きにすればいい。
今度こそ、徹底的に叩き潰してあげる!
氷室真司の視線がずっと私を追っているのはわかっていた。けれど私は前だけを見て、彼の存在など無いかのように歩き続けた。
彼の前を通り過ぎるとき、何かを言いかけた彼の気配があった。でも私は一瞥もくれずに通り過ぎた。
やがて式が始まり、私は将人とともにメイン席へ。
そこには氷室真司と天宮雪奈の姿も見かけ、四人は同じテーブルに並んだ。
将人は黙ったまま、不快な表情を崩さない。
私は察して彼に合わせて一言も口にしなかった。
式は華やかに進み、会場は幸福な空気に包まれていた。
その中で、誰かが軽く将人をからかった。
「将人様、いつご結婚されるご予定ですか?」
彼は無表情のまま、そっけなく一言だけ返した。
「まだだ。」
その迫力に、誰もそれ以上突っ込めなかった。
話題は自然と、氷室真司と天宮雪奈へと移っていく。
「真司様と奥様は本当にお似合いですね。お子さんも二人いて、今も仲睦まじくてうらやましい限りです。」
氷室真司は穏やかな微笑を浮かべて頷き、その隣で天宮雪奈は、得意げな表情でこちらを見つめ、あからさまな挑発の視線を投げかけてきた。
やがて式が終わり、パーティーが華やかに幕を開けた。
有名な歌手や芸能人が招かれ、会場は一気に盛り上がる。
そのとき、誰かが話しかけてきた。
「将人様は、イタリアのマルティクドフティーニの家具がお好きなんですよね?今日はあちらののオーナーも来ているそうですよ。ご紹介しましょうか?」
その瞬間、将人の表情が明らかに変わった。
「今は結構です。別の機会にしましょう。」
氷室真司の顔色も変わった。
将人は急に席を立ち、私の方を見て言った。
「ちょっと来い。」
有無を言わせない言い方で歩き出す。私は状況もわからないまま、慌てて彼の後を追った。
その背後で、誰かのひそひそ声が聞こえる。
「お世辞のつもりが、逆効果だったんじゃない?マルティクドフティーニの話を出した途端、将人様の機嫌が一気に悪くなった。」