結局、あの男の子が誰なのか、駒塚に聞いても『お隣の梅乃宮さん家のお坊ちゃんですよ』としか教えてくれず、雪哉くんのお父さんお母さんが事故で亡くなって、お隣に越してくるまで、あたしは名前すら知らなかった。
……アイスをくれた男の子と、カブトムシをくれた男の子、二人とも雪哉くんだったのかな? 似ているけど、なにか違ったような……。
でも、あの口の悪さは雪哉くんだよねぇ……!!
「星奈ちゃん、星奈ちゃん」
母の声で現実世界に戻ってきた。
「……ん? なぁに?」
「今日はお仕事お休みなの?」
母が心配そうな顔をしている。
時刻はもう九時前だ。
げっ!! やばい! 遅刻する!!
「今日は駒塚に送って行ってもらいなさい。駒塚、駒塚~」
母が駒塚を呼ぶ。
「ううん。いいの、あたし、ちゃんと自分で行くよ。もう社会人だもん」
あたしは母の部屋を飛び出した。
「……どうせ、星奈ちゃんにはいつも誰かついてるのに……」
母のため息と、聞き間違いかと思う言葉が聞こえた気がした。
……ん? ついてる? なにが?
よくわからないけど、あたしは家を飛び出し、全速力で走る。電車で二駅だが、今日は走りたい気分だった。
雪哉くんはあの梅乃宮の御曹司だった。そして母は雪哉くんのお父さんが好きだった。
そしてこの先、雪哉くんとずっと一緒にいれる保証なんて、どこにもないってこと。
心臓がバクバクする。
そうなれば、そうと決まれば、デートを重ねて、雪哉くんのハートを掴み取るしかないわ!!
そして、雪哉くんと結婚するのよ、星奈!!
あたし、絶対に諦めない!! この同居はきっと神様が与えてくれた大チャンスよ!
相思相愛になって、あたし、ずっと雪哉くんと一緒にいるんだから!!
雪哉くんの隣にいるのはあたし、そうなってみせる!!
朝から闘牛のように、職場に勢いよく乗り込んだあたしを見て、志郎さんも女将さんも目をまんまるくしてた。
「うちは牛を雇ってる覚えはないね」
女将さんが呆れた声を出した。
「星奈、大丈夫か? 走ってきたんか?」
志郎さんがあたしにお水を渡してくれた。そのお水を持ってあたしはロッカーに入る。
「おっいしい~お水~!! ぷはぁ! 生き返ったぁ~!! おはようございま~す!! 遅刻ギリギリ五分前! セーフ!!」
あたしは着替えを終えて、タイムカードを押した。
「志郎さん、お水、ありがとうございます」
あたしは志郎さんにお礼を言う。最近、少し日に焼けた志郎さんはワイルドに磨きがかかっていて、とても和菓子屋に勤務しているようには見えない。
「星奈、いつも時間に余裕を持ってくるのに、珍しいなぁ。なんかあったんか」
志郎さんが怪訝な顔をした。
「あ、まぁ色々ありまして……」
「色々ってなんや!? あの梅乃宮の男どもが、おれのかわいい星奈になんかしよったんか?」
すごい剣幕で訊いてくる志郎さん。
「どちらかっていうと、あたしのが色々してるかも……、あはは」
あたしは笑って、自分の行いを振り返った。バスタオルでウロウロ、寝起きドッキリを仕掛けたり……。
「そら、なにかするとしたら、星奈の方だろうね」
女将さんが横から口を挟んできた。