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第8話 雨の番傘

 木蓮は傘もささずに屋敷を飛び出した。粗末な着物と下駄は、ぬかるんだ道を走るには丁度よかった。泥水が跳ね、木蓮の白く美しい肌を点々と汚した。ふと足を止める。高台の屋敷から見下ろした景色は素晴らしかった。麦と稲が段々に作付けされ、黄と緑の稲穂が濃淡を描いていた。そこには防風林に囲まれた家屋が点在し、村人の呼吸を肌で感じた。村は絵画のように美しかったが、遠くの田畠の一角が不気味に枯れているのが目に入った。クスノキの森の闇が、村を静かに侵している気がした。


(このままじゃいけない、怖いけれどクスノキの森に行ってみよう!)


 社畜の百合子は無駄にバイタリティがあった。古の儀式とやらがどんなものなのか、クスノキの森がどんな所なのか俄然興味が湧いた。もしかしたら、危険ルートを回避出来るかもしれない!心の奥底の木蓮はひどく怯えていたが、百合子は意を決して坂道を下った。そこでふと気付いた・・・伝染病が流行っているとか言ってたな、無菌室で暮らしていたお嬢様がいきなり病原菌の坩堝に飛び込むことはいかがなものか。木蓮が考えあぐねていると、小雨は勢いを増し本降りになって来た。用水路では濁流が渦を巻き、雨雲で辺りは暗くなり始めた。


(思わず飛び出しちゃったけれど、これは帰った方が良いかも)


 振り返るとそこには、トタンでこしらえた小さな小屋があった。目を凝らすと、番傘を広げた先客がいた。この本降りで雨宿りをしているのだろう。木蓮もその隣に入らせてもらうことにした。・・・失礼しまーす、木蓮は腰を屈めながらその軒先に立った。番傘に叩き付ける雨音と、雨蛙の鳴き声だけが響いた。小屋の中を覗くと木のベンチがあった。それは藁葺きの屋根の雨垂れで濡れていたが、立ちっぱなしでいるよりは幾らかマシだった。


(・・・・・ふぅ)


 木蓮はこれからのことを考えると、憂鬱と運命には抗えない無力感に囚われた。木蓮は睡蓮の策略にまんまと嵌ってしまったのだ。考えようによっては、馬が急に暴れ出したのも睡蓮の息に掛かった使用人の仕業かもしれない。・・・そんな家にいるよりは天祥様とやらの生贄でも良いかな、とも思えて来た。


雨音は激しさを増した


「おい、娘御」


 突然、番傘の男性が木蓮に声を掛けてきた。深い、深い森の奥から響くような声色だった。はい、木蓮が返事をすると番傘の向きが変わった。木蓮はその男性の美しさに息を呑んだ。(え、なに。俳優!?ちょーっかっこいいんですけど!)百合子は心の中で絶叫し、胸の奥底の木蓮もまんざらでもないようだった。


「は、はい」


 その男性の髪は烏の濡れ羽色で腰まで長く、赤い組紐でひとつに結えていた。瞳は黒曜石のように艶めき、心の中を見透かされるような不思議な雰囲気を纏っていた。


「なぜおまえは、一つの器に二人の人間が入っているのだ」

「そ、そのようなことは・・・・気のせいでは・・・」

「不思議な娘御だ」


 そして彼はもう暗い、これを貸してやるから家に帰れ、と番傘を木蓮に手渡した。その爪は鋭く長かった。


「あの!それではあなたが濡れてしまいます!」


 木蓮が小屋から顔を出すと、もうそこに男性の姿はなかった。木蓮が腑に落ちない顔で番傘を開くと、屋敷から梅子が息を切らせて走ってきた。


「どうしたの?」

「どうしたもこうしたもありません!急にお屋敷を飛び出して!梅子は生きた心地がしませんでしたよ!」


 梅子は乱れた白髪頭を震わせながら、アカデミー賞を授与された俳優のような名演技でその場に泣き崩れた。


「ごめんなさい。帰るわ」

「お嬢様、その傘はどうされたのですか?」

「ここで雨宿りしていた殿方にお借りしたの」


 梅子は怪訝な顔をした。


「殿方、若い方ですか?」

「ええ、それがどうしたの?」


 梅子が言うには、この村には若い男衆は少ないと言った。また、屋敷の敷地内に入って来るような無礼な者はいないとも言った。梅子が囁いた。クスノキの森に現れる男は、天祥様の使いだと古老が言うんです。若い男がこんな場所にいるなんてありえません!


「天祥様の使い・・・」


 木蓮は男性が消えた黒いクスノキの森を振り返り、(病気は怖いけど、このままじゃ生贄だ。森の秘密を知るしかない!)と森へ向かう覚悟を固めた。

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