「刹夜さま……」
千紗はまだ言いたいことがあったが――
ドアがガラッと閉まる音が響き、彼はすでに部屋を出て行ってしまったようだった。
千紗はただただ呆然と立ち尽くす。
自分のどこが、どうして気に入らなかったのだろうか?
この香水は、これまで他の男たちには何度も効果を発揮してきたのに…。
そして、初夜を偽るために準備した血を体内に隠し持っていたことも、計画通りにいくと思っていた。
なのに、彼が香水の匂いを嫌うだけで、全てが台無しになってしまった…。
千紗は知らなかった。
鈴羽が香水どころか、スキンケアさえ使わないことを。
だからこそ、刹夜は今、この化学的な香りに過敏になり、嫌悪感すら抱いているのだろう。
屋敷を出た刹夜は、黒い高級車に乗り込んだ。
左手の薬指と中指に挟んだタバコの煙が、車内に漂っていた。
彼自身も不思議に思った。
あれほど瓜二つの顔をしているというのに、目の前にいる本物の月島千紗には何の感情も湧いてこない。
むしろ、彼女の身にまとった鼻を刺すような香水の匂いが、彼の胃をむかつかせた。
屋敷には戻れない。
いっそ、本宅に顔を出してみようか。
ほどなくして、車は九条家の本宅へとゆっくり滑り込んだ。
九条家は、祖父の代から極道を生業としてきた。
父・九条貴司こそ、名を馳せた「刹淵組」の組長だった。
今では業務のほとんどを刹夜が取り仕切っているが、実権を握っているのはやはり貴司だ。
貴司には多くの子供がいるが、刹夜は本妻・水穂が産んだ三男。
だが貴司が最も大切にしていたのは刹夜ではなく、側妻・和枝が産んだ庶子、九条燐也だった。
しかし三年前、燐也は内輪もめに敗れ、ブラジルへと逃亡した。
それ以来、彼は二度と姿を現さなかった。
今、九条家の本宅には、貴司と二人の妻だけが暮らしている。
水穂は病弱で、夫の世話をすることもほとんどできない。
妾の存在を暗黙のうちに受け入れ、奇妙な平穏を保っている。
刹夜は母のその弱々しさが嫌いで、長年、母との関係は冷え切っていた。
「若頭様、お帰りになられましたか!」
老執事がすぐにドアを開けた。
「父上は?」
「ご主人様は、和枝様と囲碁を打たれております」
刹夜は無表情でタバコをくわえたまま、足を進める。
豪奢な客間では、九条貴司が白いカジュアルウェアを着て碁盤に向かっていた。
その向かいには、五十を過ぎた和枝が、今なお美しい色気を湛えて座っていた。
「父上」
刹夜は静かに近づき、父の隣に腰を下ろした。
「戻ったか?」父は顔も上げずに気のない口調で答える。
「父上、アルバニア人の件ですが……」
「わしの意向だ」
父はすぐに言葉を遮った。
刹夜は一瞬言葉を詰まらせたが、続けた。
「でも、あの連中は評判が悪い。東ヨーロッパで最低とも言われています。メキシコの連中すらマシなくらいです。なぜわざわざ…?」
「商売は金が第一だ。相手の評判がどうしたというのか?極道を生業としている者が、評判など気にするか?」
「……わかりました」
刹夜は思った。
父親はいつも理不尽だ。
しかし、今さら議論しても無駄だ。
長年、父はこのように強権的だった。
「アルバニア人は拉致ビジネスが得意。しかし、当方の商売はそれに依存していない。これからの発展はハイテクにあり、なんかこう…AIとか自動車とかの事業のほうが重要だと思う。
…父上、今の任侠の世界は、戦いや殺し合いだけではありません」
父は息子の言葉に耳を貸さず、最後の石を打ち終えると、和枝がほほえんだ。
「またお負けしましたわ。どうしましょう、いつも負けてばかりで。もう次はお相手できませんわ」
父は笑いながら立ち上がり、ようやくまともに息子を見た。
だが、彼が話していた内容とは無関係なことを口にする。
「子作りはいつするつもりだ?」
刹夜はわずかに動揺した。
「一年前、狂ったように探し回った女が一年経っても音沙汰がないとは?産めないのか?それともお前が産ませないのか?」
刹夜は驚いた。
まさか父が突然、後継ぎについて語り始めるとは。
だが、彼自身は焦っていなかった。
まだ二十五歳だし、鈴羽も二十二に過ぎない。
その時、刹夜はふと気づく。
なぜ今、月島千紗ではなく、月島鈴羽のことを考えているのだろう…。
「刹夜よ、男たる者、妻は一人とは限らん。気に入って、遊び足りぬなら、家にいる女は慰みに取っておけばよい。
だが、一つ言っておく。
徳川家の令嬢が、近く帰国する」
刹夜はすぐに察し、口をついて出た。
「徳川花怜……?」
「ああ。花怜は徳川家の唯一の跡取り娘で、次期当主だ。徳川家が他者と手を組むことは、我々にとって好ましくない」
刹夜は黙った。
貴司はさらに続けた。
「確か、花怜が小さい頃、一番気に入っていた遊び相手はお前だっただろう?」
そうだった。
あの頃、九条家には数多の子供がいたが、
徳川家の令嬢はただ一人、九条刹夜を好んだ。
彼女は、刹夜の目が綺麗で、星空のようだと言った。
「どうすべきか、わかっているな?」
「……承知しました」
刹夜は考え込んだ。
一方、その頃。
歌舞伎町。
夕食を終えたばかりの鈴羽は、すでに連れ去られていた。
アパートは歌舞伎町のすぐ近くにあり、
鈴羽はすぐに取り仕切る女、森山三和の前に連れてこられた。
「こちらは森山三和さん。みんな『三和さん』って呼んでる。
ここの取りまとめ役で、あなたの仕事も三和さんが決めることになってる」
連れてきたのは見知らぬ男で、もう黒岩平吾ではなかった。
「どこの田舎娘だこりゃ?」
森山三和という女は四十代半ばに見え、濃いメイクにレトロなパーマをかけ、色気のある雰囲気を漂わせていた。
「平吾兄貴が連れてきたんですけど、どこからかは聞いてません。たぶん親戚かと…。 まぁ三和さん、適当に面倒みてください。俺はまだ用があるのでお先に」
男が去ると、森山三和は鈴羽を一瞥し、人差し指を立てて手招きした。
「おい、小娘、こっち来い。見せてみろ」
鈴羽はおずおずと近づいた。
三和は片手で彼女の顎を軽く持ち上げた。
「いくつだ?」
「二十二歳です」鈴羽はおとなしく答えた。
「なかなかの器量だな。肌もツルツルして…。
掃除係で満足か?もっと稼いで、出世したいとは思わんのか?」
三和は含み笑いを浮かべた。
鈴羽は驚いたウサギのように、すぐに激しく首を振った。
「いえ!掃除係で十分です」
三和は軽く笑いながら、声を張り上げた。
「虎太郎! こっち来い!」
少し離れたところから、鶴田虎太郎という、二十歳前後に見える金髪の若者が歩み寄ってきた。
「こいつを連れて行って、中を案内しろ。新しく来た掃除係だ」
「掃除係?」
虎太郎は驚きの表情を浮かべ、こんなに綺麗な娘が掃除係とは信じられない様子だった。
「行け」
三和はタバコに火をつけ、それ以上何も言わなかった。
虎太郎に連れられ、鈴羽は20時を過ぎた歌舞伎町を歩いた。
正直、こんな場所は初めてだった。
ここはまさに男たちの楽園。
多くの美しい女性たちが、あの手の商売に従事している。
「おい、マジで掃除係でいいのかよ?」
虎太郎はまだ信じられない様子で鈴羽を見た。
鈴羽はこくりと頷き、ひどく緊張した様子を見せた。
「なんでだよ? もっと稼いで、大物を捕まえたいと思わねぇのか?
見ろよ、あの娘たちの一杯の酒代のチップの方が、お前の一ヶ月分の給料より多いんだぜ?」
鈴羽が口を開き、何か言おうとしたその時――
突然、額に鋭い痛みが走った。
飛んできた酒瓶が、彼女の頭を強打した。
「どけよ、このビッチ! 目ェついてねぇのか、ボケ!」
すぐ後ろから怒鳴り声と罵声が響いた。
鈴羽が額に手を当てると、血がにじんでいた。
血だ……。
一気に、悔しさと怒りの涙が溢れ出した。