「なんだよっ! どっちが目ついてねぇんだよこrrrrrらぁ!!」
鶴田虎太郎は慣れた様子で、罵声を浴びせながら素早く鈴羽を裏の避難通路へ引っ張り込んだ。
すぐさま、二組のチンピラたちが凶器を手に、彼らの目の前で乱闘を始める。
鈴羽は呆然とその光景を見つめた。
こんな場面を目の当たりにするのは初めてだった。
彼女の今までの人生とはまるでかけ離れた世界だ。
幼い頃から体が弱く、両親に見放された彼女は田舎の祖母に育てられた。
祖母の経済状況も厳しく、鈴羽は必死にアルバイトをしながら、やっと三流大学を卒業した。
まさか大学を出て、まだ就職も決まらないうちに、両親に連れ戻され、姉になりすまして結婚させられるなんて…。
九条刹夜と結婚して一年になるが、鈴羽は滅多に外出しなかった。
彼女の毎日は、刹夜の支配欲に押し潰されるような日々だった。
好むと好まざるとにかかわらず、刹夜はあらゆるものを鈴羽に押し付けた。
その代わりに生活は保障され、苦労しなくて済むが…。
しかし、目の前で繰り広げられる血なまぐさい光景には、到底慣れることができなかった。
「怖いか?」虎太郎が問う。
鈴羽は震えながらうなずき、傷を押さえた。
「まぁまぁ、こういうのも慣れりゃな。大概、女の取り合いさ。
それに乱暴な客がキャバ嬢を殴ることもあるけど、金はちゃんと出す」
虎太郎は鈴羽の反応を見ながら続けた。
「――そういや、お前もな。顔は悪くねえんだから、掃除なんてもったいねぇよ。
あの姉さんたちみたいにやってみねぇか?」
鈴羽は首を振った。
「やりません」
「そっか…。じゃあ三和さんのとこに行って、話してこいよ。少しばかり薬代もらって、傷の手当てしな。
ここで怪我したんだから、三和さんも放っておきゃしないだろ。掃除の方は急がなくていい」
虎太郎の言葉に従い、鈴羽は再び森山三和のところへと向かった。
道中、酔っ払った男性客が通りすがりの女性に触れまくる場面も目にした。
鈴羽は恐怖でいっぱいになり、小走りでその場を通り過ぎた。
「まったくついてないわね。来たばっかりなのに、こんな目に遭うとは…。
あんたって、不運をもたらすタイプじゃないわよね?」
森山三和は鈴羽を嫌そうに見ながら言った。
鈴羽は黙ってうつむき、何も言えなかった。
しばらくして、森山は小銭を一掴み放り出した。
「ほれ、これで薬局で薬でも買って、自分で何とかしろ。二日休めば治る。遅くとも明後日には出勤して」
「ありがとうございます」
森山は鈴羽に対して好意的ではないようだったが、それでも見捨てることはなかった。
今、鈴羽にとって金が必要だ。そのために、彼女はこの仕事を続けなければならない。
九条家を離れる時、刹夜が買い与えたものは一切持たず、服すら持ってこなかった。
ここに引っ越してきたのも、肌着と古い服が数枚だけだ。
傷の手当が必要だが、彼女には一銭もない。
森山がくれた小銭が唯一の頼りだった。
その金で高価な薬は買えない。
結局、鈴羽は安い薬を選び、アパートに戻ることにした。
ドアを開けた瞬間、まだ電気すらつけられないうちに、鈴羽は突然力強く押し倒された。
「だ、誰か……!」
「うるせぇ、俺だ」
助けを呼ぶ声も出ぬうちに、聞き覚えのある声が響いた。
九条刹夜?
でも、今頃は姉と一緒にいるはずでは…どうしてここに?
鈴羽の頭はまだ混乱していた。
刹夜は鈴羽の体にすっかり慣れ、触れるたびに反射的に欲情していた。
毎回、時間をかけてその欲望を満たすのが常だった。
機嫌が悪い刹夜は、
実家を出て、そのままこの部屋に来たのだ。
鈴羽は予想だにしなかったその状況に、驚きと恐怖で声を出すこともできなかった。
刹夜は貪るように鈴羽の白い首筋に噛みついた。
その慣れ親しんだ匂いに、彼は抗うことができなかった。
香水など一切使わない鈴羽の体からは、何とも言えない香りが漂っていた。
それは、いわゆるフェロモンのようなものだろうか。
もう一方の手も止まることなく、鈴羽の服のボタンを外そうとするが、
鈴羽は必死にそれを止めた。
「い、いや!」
「――あ?」
刹夜は眉を上げ、怒りを帯びた声を上げた。
「生意気になったな、お前。俺に逆らうだと?」
刹夜は一瞬、怒りと共に力を込め、鈴羽の首筋をわざと強く噛んだ。
「…っ!」
「痛ぇか?たった一日離れただけで、わざとらしいこと言いやがって」
刹夜は嘲笑を浮かべた。
「…怪我したんです!」
鈴羽は悲しげな声で言った。
「怒らせようとしたわけじゃ……ないんです、本当に痛くて……」
微かに涙声が混じっていた。
刹夜はそのまま体を起こし、電気をつけた。
薄暗い部屋の中で、鈴羽はみすぼらしく床に横たわっていた。
額には白いガーゼが当てられており、包帯の巻き方も雑で、素人がやったものだとすぐに分かった。
「……どうした、それ」
「飛んできたビンでぶつけられました…。
担当の森山さんが薬を買うようにと小銭をくれました」
刹夜は鈴羽を一瞥した。
「…ったく、本当に役立たずだな。何もかも上手くできねぇ。俺に甘やかされすぎて、お嬢様気分か?」
鈴羽はそんな冷たい言葉にも、もう慣れているようだった。
結婚して一年、彼らの間には肉体の関係以外、ほとんど言葉のやり取りがなかった。
たまに何か言っても、刹夜はいつもこうやって興ざめさせるようなことを言う。
鈴羽は痛みをこらえながら床から起き上がった。
「どうして来たんです?屋敷には、お姉様がいるはずでしょう」
その言葉で、刹夜は一瞬言葉を詰まらせた。
そうだ、なぜ来た?
――彼自身も理由がわからない。
「……お前が、くたばったかどうか見に来てやったんだよ。お前みたいな悪女には、こういう報いを受けるべきだ。
姉貴の人生を台無しにしといて、幸せになる資格なんてあると思うか?」
刹夜は再び彼女の心をえぐる言葉を投げつけた。
鈴羽は目の前の男をこれ以上刺激するつもりはない。
彼なら、一瞬で自分を殺せる。
「おっしゃる通り、私がすべて悪いんです。幸せになる資格なんて、私にはありません。
…こんな私の姿を見て、少しはご満足いただけましたか?」
鈴羽は静かに、そしてわざとガーゼを剥がした。
額の傷は、見るに堪えないほどだった。
傷は意外と深く、それを見た刹夜は、しばし言葉を失い、胸中に湧き上がる複雑な感情を抑えきれずにいた。
「ああ。もっと酷い目にあえば、尚更満足だ。それがお前の報いだ」
「では、すでに私の報いをご覧になって満足なさったのですから、お戻りください。お姉様が……あなたをお待ちです」
この言葉が、再び刹夜の怒りに火をつけた。
今すぐこの女を絞め殺したいほどだった。
「……てめぇ、俺を帰らせようってのか? 俺に抱かれるのが怖ぇのか? ビビってんのか?
――安心しろ。今のお前の、その落ちぶれたメス犬みてぇなツラじゃ抱く気も起きねぇよ。誰がそんなもんに欲情すっか」
彼はわざと彼女を侮辱した。
鈴羽は言いかけそうになった――
さっきはなんだかんだ言ってヤリたがっていたじゃないか?
首を噛んだのはどこの誰よ?
しかし、そんな言葉は絶対に口に出せない。
言えば命はない。
「では、その落ちぶれたメス犬は、これから風呂に入って、寝ますので…お引き取りくださいませ、九条刹夜様」
鈴羽は刹夜をじっと見つめ、一語一語区切って言った。
次の瞬間――
ドンッ!
刹夜はドアを勢いよく叩きつけ、音を残して部屋を出て行った。
おかしい。
侮辱されたのは自分なのに、なぜか彼の方が怒って出ていく。
一階へ降りると、黒塗りの車と子分たちが待機していた。
「……あの女、額の傷。どうやってできた」
刹夜がぶっきらぼうに尋ねると、黒岩平吾が即座に答えた。
「聞いたところでは、今夜、歌舞伎町でチンピラ同士の揉め事がありまして。
その場に奥様が居合わせ、飛んできたビンが直撃したそうです」
「奴らを連れてこい」
「かしこまりました」
「……おい黒岩。…あんな深い傷、跡、残んねぇよな?」
低く、どこか苛立った声だった。