長年刹夜に仕えてきた黒岩平吾は、すぐにその意を察した。
「奥様の傷、医者を手配いたします」
「……あの女が“奥様”か?」
刹夜の声音は氷のように冷え切っていた。
「生かしておくのは――じっくりと、痛めつけるためだ」
その一言に、平吾は何も言わなかった。
若の心の内を探るなど、分をわきまえぬ所業だ。
「行け」
刹夜が指を一振りすると、平吾は無言で一礼し、その場を離れた。
今回の任務は、二つ。
まずは、鈴羽の傷の手当てをするため、医者を手配すること。
ただし、鈴羽に怪しまれないよう、医者には「森山三和さんの指示で来た」と伝えさせる。
――“客に不快感を与えぬよう、傷跡は残すな”。
そう言われれば、鈴羽も不自然には思わないだろう。
そしてもうひとつ――
騒ぎの発端となったチンピラどもを、即刻、縛り上げること。
「コラァ、若の前やぞ!さっさと土下座せんかい!」
男たちはようやく、自分らが踏み込んだ場所のヤバさに気づいた。
そこに立っていたのは、刹淵組の若頭――九条刹夜。
名を聞いただけで震え上がる、“本物”の極道だ。
「く、九条様ッ!」
「ほんま、すんませんでしたァ!」
「……で? 何が悪かったか、言ってみろ」
刹夜は真っ白なハンカチを弄びながら、無駄に指を拭く仕草を繰り返していた。
「九条様の縄張りで、騒ぎを……っ、起こしたことっす……!」
「わ、ワレ、目ぇ節穴でした……!」
二人は土に額を擦りつけ、声を裏返らせながら命乞いを続ける
「……半分は合ってるな」
刹夜は低く笑った。
「確かに、お前らが悪い。けどな――
騒ぎを起こしたことじゃねぇ。“生きてること”が気に食わねぇんだよ」
そして、弄んでいたハンカチを、ぽいと投げ捨てた。
「手足折って、川に沈めろ。魚のエサだ」
「かしこまりました」
背後では「やめてくれぇぇッ!!」と絶叫が響いたが、刹夜は一切振り返らなかった。
血の匂いにも、絶叫にも、もう慣れすぎていた。
刹夜にとって、人が一人二人死のうが、砂粒が風に舞うくらいのことだ。
実のところ、二人のチンピラはただただ運が尽きていた。
刹夜という地位の者が、下っ端の喧嘩など気にかけるはずもない。
――ただ、今回は少しだけ違っていた。
巻き添えになったのが、“あの女”だったからだ。
だがそれを知る者は、誰一人いなかった。
翌朝
月島千紗が目を覚ましても、九条刹夜の姿はやはりどこにもなかった。
階下に降りて、家政婦の恵美に尋ねた。
「恵美さん、刹夜さまは? 一晩中帰ってこなかったの?」
「はい、お嬢様。若頭様は昨夜から、お戻りになっておりません」
恵美は九条家に長年仕える古参であり、肩書こそ家政婦だが、屋敷内では執事に近い役割を担っていた。
当然、鈴羽がいなくなり、千紗が戻ってきたことも把握している。
しかし、先入観かもしれないが、恵美は目の前の女には好感を持てなかった。
――一年間、何も言わず、何も求めず、ただ静かに過ごしていた妹の方が、ずっと好ましかった。
「じゃあ、刹夜さまは今どこにいらっしゃるの?」
「それは存じ上げません。若頭様の行方を伺うのは、控えるべきかと」と恵美は答えた。
「……ふーん。じゃ、朝ごはんは何?」
千紗の料理の腕は決して良いものではなく、ここへ来たのも、お嬢様生活を送るためだった。
「冷蔵庫にすべて揃っております。ご自由にどうぞ」
「……え? あなたが作るんじゃないの?」
「私は若頭様のお食事だけを担当しております。若頭様がご不在であれば、それ以外のご用意はいたしません」
「鈴羽にもそうだったの?」
月島千紗は明らかに不服そうだ。
無表情のまま、恵美は短く答える。
「奥様はいつもご自身で作られていました。お料理も、お上手でしたから」
「……奥様?」
千紗は思わず鼻で笑った。
「冗談じゃないわよね? あの子が“奥様”? ただの代用品じゃない。
私こそが奥様よ。あれは偽物。ただ運良く私と同じ顔をしていただけの」
自分を「お嬢様」と呼び、鈴羽を「奥様」と呼ぶこの家政婦の態度が、どうしても癪に障った。
「それについては、私の立場で申し上げるべきことではありません。私はただの下働きですから」
恵美はこれ以上、千紗と話す気がないようだった。
「待って、恵美さん……」
千紗は声を落とし、にこやかに尋ねた。
「刹夜さまって、何か好きなものとかある? 教えてもらえると助かるんだけど。間違えたくないの」
「それは……ご自分で、直接お尋ねください」
その言葉を残し、恵美は無言で去っていった。
千紗は、苛立ちを込めて白目を剥いた。
「何よ……あんな下賤な家政婦のくせに。調子に乗ってんじゃないわよ」と罵った。
仕方なく、彼女は冷蔵庫を開けて、自分で朝食を用意することにした。
とはいえ、料理などまともにしたことがない。
実家では、食事はすべて用意されていたし、
川崎と駆け落ちしてからは、いつも川崎が作ってくれていた。
冷えたキッチンで、食パンを一枚焼くのが精一杯。
冷たい牛乳をコップに注ぎ、それだけで朝食を済ませた。
その後、着替えを終えた千紗は、鏡の前でポーズを取った。
ピンクのドレスに、ジュエリー、ブランド物のバッグ――
どれも、かつて鈴羽が使っていたもので揃えていた。
街へ出る準備を整え、玄関を出た。
――ショッピングに行くために。
だが、ブランドショップを見て回っている間も、思い出すのは一人の男の顔だった。
――川崎。
彼女が駆け落ちしていた相手。
何も言わずに、あの町に置き去りにしてきた。
別れの言葉さえも告げずに。
川崎と一年間の駆け落ち生活は、夢物語なんかじゃなかった。
最初は楽しかった。
けれど、すぐに現実に飲まれた。
千紗が実家から持ってきた金はあっという間になくなった。
川崎の家は貧しく、金など元々なかった。
最悪だったのは、生活費は底をついたのに、川崎は働こうともせず、ゲームに明け暮れる日々。
千紗がアルバイトで稼いだ金を二人で使うのは、ひどく切り詰めた生活だった。
果物を買うことさえためらい、ましてやブランド品など論外だった。
――そんな暮らしが、幸せなわけがなかった。
三日前。
アルバイト中に流れていたテレビのニュースを、今でも覚えている。
「刹淵組の若頭、九条刹夜氏。妻への贈り物に、数千万円のブレスレットを落札――」
その瞬間、胸の奥が爆発するように焼けた。
――悔しくて、羨ましくて、狂いそうだった。
一年前逃げ出したのは、怖かったから。
極道若頭の妻なんて、想像もつかなかった。
けれど、今の刹夜は――
妹を、まるで宝物のように扱っている。
その夜。
千紗はバイト終わりのままアパートへは戻らず、
わずかに残った貯金を握りしめて空港へと向かった。
――目指す先は、かつて自分がすべてを捨てて逃げ出した場所――九条家だった
そしてタイミングを見計らい、彼女は九条刹夜に会う機会を得た。
涙混じりに「真相」を語る千紗。
……ただし、その「真相」は、彼女自身を哀れな被害者に見せかける、
周到に練られた嘘だった。
男と駆け落ちしていたことには一切触れず、
代わりに――「妹に騙され、人生を奪われた」と訴えたのだ。
千紗はスマホを取り出し、アドレス帳を開いた。
スクロールの先に、まだ川崎の名前が残っていたが、
メッセージは一通も来ていない。
三日も家に戻っていないというのに、連絡ひとつよこさない。
「ふーん、やっぱり男なんてろくでもない」
冷笑とともに、千紗は川崎のアカウントをブロックした。
ついでに、SNSもすべて切り捨てる。
――あんな貧乏人とは、もうおしまい。
これからは極道の若頭様の奥様として、贅沢で華やかな人生を歩むのだから。
実際、千紗がこの街に戻ってきたときは、ひどくみすぼらしく、
財布の中身も底を尽きかけていた。
ショッピングに出かけても、手ぶらで帰ることになる。
けれど、刹夜があんなに鈴羽を甘やかしていたのなら――
正体が「千紗」と分かった今なら、もっと優しくしてくれるはず。
千紗は、そう信じて疑わなかった。
彼女はスマホを再び取り出し、刹夜の番号にかける。
――……通話は切られた。
唖然としたまま、仕方なくわざとらしくハート絵文字と泣き顔を交えてメッセージを送った。
『あなた~♡ お買い物してるんだけど、お金が全然なくて…どうしよう?(;_;)』
しばらく画面を見つめ続けたが、既読にもならない。
胸の奥に苛立ちが湧き、千紗はそのまま刹夜の会社へ向かった。
九条刹夜は、表向きの会社か、刹淵組の拠点にいることが多い。
「……何しに来た?」
刹夜は千紗の顔を見た瞬間、少しだけ胸が高鳴った。
が、その視線はすぐに、彼女が身に纏っていたピンクのドレスに注がれた。
……その色を、鈴羽は決して選ばない。
「だって……すごく刹夜さまに会いたかったんだもん……」
千紗は甘えるような声を出しながら、腕を伸ばし、抱きつこうとする。
だが、刹夜は容赦なくその動きを制した。
「刹夜さま…」
彼女は声のトーンをさらに落とし、誰よりもしなやかな女の演技をする。
実際彼女と九条刹夜が知り合ってまだ二日目に過ぎないのに、本当に役に入り込んでいるようだった。
「……ちょうどいい。お前の両親も来ている。四人で、事の次第を確認しようか」
刹夜の瞳に、情はなかった。
両親が来ていると聞いた瞬間、千紗の心臓は止まりそうになった。
――嘘をついたのは、彼女のほうだったから。