九条刹夜は目を閉じ、手を軽く上げた。
「もういい。これで終わりだ」
黒岩平吾はその言葉に一瞬驚いたが、何も言うことができなかった。
若頭様の考えは、一般人には到底理解できないことが多い。
「はっ!」
同時に、千紗は部屋の中から現れ、甘えた声を出して言った。
「刹夜さま~これで信じてくれました?」
千紗は微笑みながら近づいて来た。
「ところで刹夜さま……実は私、今財布にお金がなくて…少しお金をもらえませんか?」
遠慮する様子もなく、彼女は手を差し出した。
刹夜は一瞬黙った後、平吾に目で合図を送った。
平吾はすぐにポケットから一枚のカードを取り出し、千紗に渡した。
「こちらは利用額500万のクレジットカードです。どうぞお使いください」
「ありがとー!刹夜さまやっぱりやさしい~!」
千紗は目を輝かせながら500万利用額のカードを手に取ると、嬉しそうににこやかに言った。
そして刹夜にキスしようと前に近づいたが、刹夜は即座に立ち上がり、彼女を遮った。
「まだ用事がある」
冷静に言い放った刹夜は、そのまま部屋を出て行った。
千紗はまた空振りを食らい、少し気まずそうだった。
しかし、今は何よりもお金が大事。
手にしたカードを握りしめ、千紗はすぐに買い物に出かけた。
高級な店を回り、以前手が届かなかった高価な商品を次々と購入していく。
その中には、赤いセクシーな下着も含まれていた。
今夜、刹夜と楽しむための準備だった。
一方、鈴羽の傷は専門医によって処置され、だいぶ回復していた。
それでもまだ包帯を巻いている。
本来は休養中だったが、森山三和が医者を呼んでくれたことに感謝し、鈴羽は夕方、こっそりと街に出た。
帽子とマスクで顔を隠して、歌舞伎町に向かう。
「は? どうしたんだお前? 休んでいいつったよな?」
虎太郎は鈴羽の姿を見て、驚いたように声をかけた。
「もう大丈夫です。あまり痛くなくなったので、仕事に来ました」
「そっか…無理しないようにな」
虎太郎は心配しながらも一言伝えると、再び仕事に戻った。
鈴羽は作業着に着替え、黙々と仕事を始めた。
正直なところ、ここでの仕事は、鈴羽にとってさほど大変なものではなかった。
以前、田舎で祖母と暮らしていた時の苦労に比べれば、なんてことはない。
あの頃は、他人が捨てた不用品を拾い集めたり、誰かの家を掃除して生計を立てていた。
口うるさい雇い主に当たれば、何度もやり直しを命じられ、それでも笑顔で頭を下げなければならなかった。
そんな日々に、彼女はもう慣れていた。
「……あれ?見ない顔ね、新人?」
酔っ払ったキャバ嬢がすれ違いざまに声をかけてきた。
鈴羽は礼儀正しく軽く会釈し、仕事を続けた。
――思っていたほど、この場所も怖くないかもしれない。
休憩時間に水を飲みに行こうとドアを開けた瞬間――
突然目の前で小さな影が跳ねるように驚いた。
「あなた……」
「わ、私……ちょっとお腹が空いて……盗み食いしようとしたわけじゃないの!
これは、お客さんたちが残していったもの…みんな帰った後に、こっそり拾って食べただけ……。
お願い、お姉さん。三和さんには言わないでください…!部下たちに殴られちゃう……」
その声は、幼い少女のものだった。
鈴羽はすぐに警戒心を解き、電気をつけた。
そこには、ボロボロの服を着た小さな女の子が、壁にもたれかかるようにして座っていた。
服も顔も、手足も、泥と埃で汚れている。
その小さな手には、今まさにかじっていたリンゴがぎゅっと握られていた。
「あなたも……ここにいる子なの?」鈴羽は優しく尋ねた。
「はい……」
「ご飯、食べてないの?」
少女は少し視線を逸らしながら、ぽつりと答えた。
「わたし、まだ小さいから……お客さんの相手もできないし、お金も稼げないんです。価値がないって言われてるから、拾い物しか食べられないの…」
その言葉に、鈴羽の胸がきゅっと痛んだ。
「でも、リンゴひとつじゃ足りないないでしょ……」
「食べられるだけで嬉しいの!だからお願い、三和さんには言わないで…」
「うん、言わないよ。内緒にしてあげる」
鈴羽は優しく微笑み、頷いた。
「あなた、いくつ?」
鈴羽はその小さな女の子を見て、なぜか昔の自分を思い出した。
あの頃も、こんなふうにひとりぼっちで、親に捨てられていた。
「……12歳です」
少女は小さな声で答えた。
「えっ、もう12歳なの? ……こんなに小さいのに?」
鈴羽は思わず驚いた。
その体格は、とても12歳には見えない。8歳か9歳と言ってもおかしくない。
おそらく、長年の栄養不足が原因だろう。
「あなた、お名前は?」
「小豆蛍っていいます」
「じゃあ蛍ちゃん、ちょっとここで待っててくれる? パン買ってくるから。ちゃんとお腹満たさないと」
鈴羽はまだ少しだけ小銭を持っていた。
先日森山三和がくれた、薬を買った時のお釣りだった。
自分の食事は、仕事で出される簡単なまかないで済ませられる。
しかし、蛍のように仕事していない子どもには同じようにはいかないようだ。
鈴羽は急いで外に出て、近くのコンビニでパンと水を買って戻った。
戻ってくると、小豆蛍はまだそこにいた。
逃げることも、隠れることもなく、ただぽつんと同じ場所に座っている。
――信じてくれているんだな。
鈴羽は袋を差し出した。
「はい、これ食べて」
「ありがとうございます、お姉さん!」
蛍はその言葉を言い終わると、目にも留まらぬ勢いでパンを頬張った。
それはもう、見る者の胸を締めつけるような食べ方だった。
食べ終わった蛍は、満足そうに鈴羽に感謝の意を告げ、静かにその場を立とうとしたが――
ちょうどそこへ、虎太郎が現れた。
「お前、この子とはもう関わるな」
低い声で、警告するように言う。
「え…?」
鈴羽は戸惑いながら問い返す。
「盗み癖があるんだ、あの子。用心しろよ」
「……ですが、ただお腹が空いてただけだと思います…。
生きるために食べ物をちょっと盗んだくらいで、そんなに責められることかな……」
鈴羽の言葉に、虎太郎はタバコに火を点けながら肩をすくめた。
「そりゃ、可哀想な子ではあるさ…。父親はギャンブルで家計をすっからかんにして、借金を返せず、結局、あの子をこの界隈に売り飛ばしたんだ。
今はまだ子どもだが……数年後には、間違いなく客を取らされる」
その言葉に鈴羽はぞっとした。
「じゃあ……母親は?」
「母親も、同じだよ。昔この辺でキャバ嬢やってた。
でも、病気――エイズだったらしいな。死んだって聞いてる」
鈴羽はその言葉に目を見開いた。
息が詰まるような衝撃が、彼女の胸を打った。
自分の人生は、辛いものだと思っていた。
――親に見捨てられ、田舎で慎ましく生きてきた。
それがどれだけ惨めだったか、ずっと信じて疑わなかった。
けれど、小豆蛍の境遇は、それを遥かに超えていた。
鈴羽にはせめて祖母がいて、狭いながらも雨風をしのげる屋根があった。
毎日のおかずは粗末でも、少なくとも彼女の成長を見守ってくれる存在がいた。
だが、小豆蛍には……何もない。
たった12歳で、実の父親に売られた。
――この歌舞伎町へ。
その先の人生など、考えるまでもない。
「ここにいる誰に対しても、同情してはいけない」
虎太郎はタバコをくわえたまま冷たく言った。
「みんな、運命に従ってるだけだ」
その言葉を聞いた鈴羽は、しばらく動けなかった。
一方その頃――
九条刹夜は長い一日を終え、夜になると自然と屋敷へ向かっていた。
体に染みついた帰宅のルーティン。
だが、ドアを開けた瞬間――思い知らされる。
――あの女は、もうここにはいない。
惠美さんは夜には泊まらない。
日中だけ屋敷の世話をして、夕方には帰っていく。
だから夜のこの家には、九条刹夜と月島千紗、ふたりだけが残る。
「刹夜さま、お帰りなさい!」
千紗は堂々と現れ、胸元が大胆に開いたドレスを着て、化粧も完璧に決めていた。
期待に満ちた笑顔で刹夜を食事の席に引き寄せる。
「見て見て、今日は豪華な夕食を用意したの!」
テーブルには豪華な料理がずらりと並んでおり、その中心には贅沢なタラバガニが飾られていた。
――一目で、これが彼女の手料理ではないことがわかる。
「さあ、座って。いっしょに食べましょ!
このカニ新鮮なのよ。私、小さい頃からタラバガニが大好きだったの。
でも、うち貧乏で、頻繁に食べられなくて……
だから今こうして食べられるのがすごく嬉しいわ!」
千紗は自らの過去の貧しさを語ることで、刹夜の同情を引こうとしていた。
――が、刹夜にとってその言葉は逆に反感を招いた。
それはまるで、ホームレスに向かって「豚カツって高くて毎日食べられないのよね」と言っているようなものだった。
刹夜が黙ったままじっと見ているのを察して、千紗は自ら動くことにした。
そっとカニの足をつかみ、彼の皿に取り分けて置く。
「…もう食べてきた」
刹夜は低く、煩わしそうに言い放つと、立ち上がった。
「えっ、そうなの……? じゃあ私がいただくね。
こんなにあるんだし、残したらもったいないもんね」
千紗は気にする様子もなく、自分だけで食事を始めた。
同じ「庶民出身」でも――鈴羽なら、こんなふうに振る舞わなかった。
刹夜の脳裏に、ふと過去の光景がよぎる。
――あれは、一年前。鈴羽が初めて屋敷に来たときのこと。
その時、鈴羽はタラバガニを食べたことがなかったらしく、どうやって殻を剥くかも知らなかった。
でも、鈴羽は一言も言わず、刹夜が先に食べるのを見て、それを真似ていた。
あの小さな仕草が、今思うと可愛かった。
……くそ。
また、あの女のことを考えてる。
一体、彼女が今の自分に何の関係がある?
苛立ちを隠せず、刹夜は浴室へ向かい、冷たい水でシャワーを浴びた。
頭を冷やさないと、気が狂いそうだった。
どれだけの時間が経っただろうか――
ようやく落ち着きを取り戻し、バスローブを羽織って浴室を出たその瞬間、
視線の先に、月島千紗が立っていた。
彼女はすでに下着に着替えていた。
それも、明らかに「誘う」意図を持った、きらびやかなランジェリー姿で――
ドアの前に立ち、艶やかな笑みを浮かべている。
「刹夜さま……私、もうあなたの妻なんだから…好きにしていいよ……」
千紗は恥じらいを含んだ声で、言葉を濁しながら、刹夜の一歩手前まで歩み寄る。