目次
ブックマーク
応援する
いいね!
コメント
シェア
通報

第8話 あいつが死んだら、お前ら全員道連れだ


「――出て行け」


「え……?」


千紗は、一瞬自分の耳を疑った。

だが、刹夜はその目を逸らさず、もう一度はっきりと突きつけた。


「出て行け」


「刹夜さま、私……っ」


「うるせぇ、さっさと出ろ。何度も言わせんな」


刹夜は、すでに我慢の限界を迎えていた。

千紗は恐怖で体を震わせながら、慌てて振り向きもせずに走り去った。


けれど、彼女にはわからなかった。

いったいどこで何を間違えたのかって。


まさか、この若頭様、アソコがダメ…とか?


そんな考えが浮かんだ途端、千紗の顔色はみるみる険しくなった。

それはさすがに致命傷だな。


千紗自身、かなり肉体的な欲求が強いタイプだ。

川崎と駆け落ちしたのも、その部分で満足できていたから――

貧乏でも、彼の“それ”があったから、我慢できた。


なのに、今目の前のこの男――

見た目はとても強そうなのに、全く触れてこない?


しかも、こんな格好で追い返されるなんて……

その味わいは……確かにひどく辛いものだった。


千紗を追い払ったあと、刹夜の眠気はすっかり吹き飛んでいた。

いや、むしろこの屋敷の空気そのものに、もう耐えられなかった。


服を着直すと、無言のまま車庫へ向かい、エンジンもかけずに運転席へ腰を下ろす。


手にはタバコ。

窓を少しだけ開け、静かに火をつける。

夜の冷たい空気と、煙の匂い。


それが、唯一彼の感情を鈍らせてくれるものだった


――鈴羽は、一度だってあんな露骨な格好をしたことがない。

むしろ、いつだって地味で、控えめで…。


――けれど。

不思議なことに、そんな彼女の姿にこそ、本能が反応する。


台所でエプロンをつけて、黙々と料理をしていた後ろ姿。

小さな背中に、思わず抱きつきたくなるような衝動。

後ろから押し倒して、そのまま奪ってしまいたくなるような――

むき出しの、原始的な欲望。


だが奇妙なことに、千紗と鈴羽は同じ顔をしているのに、

いや、むしろ千紗のその手入れされたその容姿は、より美しくさえある。


なのに――

なぜ、何も感じない?


あの女を目の前にしても、指一本、触れる気にならなかった。

笑っていようが、媚びてこようが、肌を見せようが。

一片の衝動も湧いてこなかった。


……それが、何よりも不快だった。


刹夜はヤクザの家に生まれ、

この世界で生きるために、幼い頃から牙を剥き、血を浴び、生き残ることだけを教えられた。


父は非情で冷酷な男で、息子たちを戦士のように育て上げ、互いに争わせた。

最後に立った者だけを“跡継ぎ”と認める。


だから刹夜は、「愛」というものを信じていない。

誰も、愛し方など教えてはくれなかった。

そもそも、愛なんて――この世界には存在しないと、そう思っていた。


それは、詩人や物書きが作り出した都合のいい幻想だ。


男が女に求めるのは、ただ一つ。

情でも絆でもない。

欲望、それだけ。


その夜、刹夜は結局屋敷に泊まらなかった。

車を飛ばして組へ向かい、明け方まで仮眠を取った。


一方その頃――

鈴羽は、いつものように夕方になると仕事場へと向かっていた。


働き始めて、まだわずか二日。

けれど、彼女はすでに立派に職場に馴染み、掃除の手際も良く、同僚たちからも褒められていた。


誰もやりたがらないような汚れ仕事にも嫌な顔ひとつせず取り組むその姿勢に、周囲の清掃員たちも彼女を好意的に受け入れていた。


そんな折――

「お姉ちゃん!」


どこからともなく小さな影が駆け寄ってきて、勢いよく鈴羽の手に何かを押しつけた。

手のひらを開くと、そこには小さくて可愛らしい、銀色の包み紙にくるまれたキャンディ。


「これ食べて!すごく美味しいんだって!

 VIPルームのお客さんがね、ベルギー…?から来てて、チョコとかキャンディとかいっぱい持ってたの!

 でもお仕事するお姉さんたちしか食べられなくて、一個だけ盗んだんだ。お姉ちゃんにあげる!」


「……でも、蛍ちゃんは食べなくていいの?」


鈴羽の声には、かすかに震える感動が滲んでいた。


「私はまた今度でいいから。お姉ちゃんに先に食べてほしいの!」


小豆蛍は、当たり前のようにそう言って、笑った。


たぶん、彼女は初めて「人に優しくしてもらった」という経験をしているのだろう。

だからこそ、今度はその優しさを、誰かに返したいと自然に思えた――

その「誰か」が、鈴羽だった。


そのときだった。

VIPルームの奥から、突き刺さるような女の悲鳴が響き渡った。


「きゃああああああああ―――!!!」


悲鳴とともに、血相を変えたキャバ嬢が廊下へ逃げ出してくる。


その直後――

天井に届きそうなほどの巨体の男が、ぬっと姿を現した。


体格は明らかに異常で、身長は190センチはあろうかという巨漢。

その脇には、血まみれの女が無造作に抱えられていた。


その女の身体はすでにぐったりと力を失い、明らかに息絶えているようだった。


鈴羽は息を呑み、恐怖に凍りついた。


「ちっ……白けちまったな。つまらん女だ」


男が唇を歪め、吐き捨てる。

その獣のような眼差しが、再び周囲を彷徨い――やがて、ぴたりと止まった。


「……おい、そこのチビ」


小豆蛍に、無情な指が向けられた。


鈴羽は咄嗟に蛍の手を握りしめた。

絶対に、行かせてはいけない――

そう直感的に思った。


「こっち来い。これ全部やるぜ」


男は懐から、分厚い札束を取り出してみせた。

それは――アメリカドル。日本円にしていくらになるかも分からないような量だった。


「ちょっと、中で遊ぼうや」


「行っちゃダメ」


鈴羽は震える声で蛍の耳元にささやく。


けれど――蛍の目には、迷いと、何か別の強い光が宿っていた。


「……お姉ちゃん、あれだけのお金があれば……三和さんに渡して、自分の“身代金”を払えるの。

 そしたら、こんな仕事しなくて済むかもしれない。新しい人生が、手に入るかもしれないの。


 だから蛍は……行く」


そう言って、蛍は鈴羽の手を振りほどき――

まっすぐに、あの男へと向かっていった。


男は、抱えていたキャバ嬢の死体を廊下に投げ捨てると、何のためらいもなく蛍を肩に担ぎ、部屋の中へと入っていった。


「蛍ちゃん……!」


鈴羽の胸が、強烈な不安で締めつけられる。


「虎太郎さん……お願い、警察呼んで!あの部屋で、人が……!」


彼女は虎太郎の腕を掴み、必死に訴える。

だが、彼は鈴羽の言葉に眉をひそめ、吐き捨てるように言った。


「バカかお前。ここは歓楽街、ヤクザの縄張りだ。警察なんか来ねぇ。


 しかもあの男、ただの客じゃねぇ。“ゴールデントライアングルの麻薬王”って噂もある。

 組は、あいつと繋がりたがってるんだ。女が一人死のうが二人死のうが、誰も責任なんか取らねぇ。


 さっさと忘れろ。

 どうせあのガキも、もうすぐ廊下に転がってるさ――気分悪ィ」


そう言って虎太郎は、鈴羽の腕を引いて逃げようとする。

だが鈴羽は、どこから湧いた勇気か、VIPルームへ突進した。


「バカッ! 死ぬ気か!!」


虎太郎の叫びは、もう彼女の耳には届いていなかった。


あの子を、死なせちゃいけない。

蛍は……まだ、ただの子供なのに。


ドアを乱暴に開け放つと、目に飛び込んできたのは――


手首を縛られ、両足を大きく開かされたままの小豆蛍。

服ははだけ、意識も朦朧としている。

その体の上で、巨漢の男が今まさに、彼女の衣服を引き裂こうとしていた。


「やめて……!代わりに、私が……私が相手になるから……!」


鈴羽は、口から出たその言葉に、自分自身が最も驚いた。

だが男は、にたりと笑った。


「おう……いい度胸してるじゃねぇか。面白れぇ。こいつもお前も、一緒に遊んでやる」


そう言って、男は鈴羽の腕を引き、部屋の中へ乱暴に引きずり込む。

ドアはすぐに閉まり、鍵がかけられた。


外では、虎太郎が迷った末、ある人物へ連絡を取っていた。

――黒岩平吾。


この掃除係の女は、彼の親戚だという噂があったのを思い出したのだ。

黒岩なら、何かできるかもしれないと。


室内では、鈴羽が押し倒され、マスクを乱暴に剥がされていた。


「ほぉ……なかなかの顔してんな、てめぇ……」


男が薄ら笑いを浮かべる。


「……お姉ちゃん、早く逃げて……お願い……私のことは……構わないで」


蛍の声は弱々しく、かすれていた。

粉薬を飲まされたのか、目も虚ろだった。


朦朧とした中、蛍はなおも鈴羽を気遣い、かすれた声で囁いた。


その姿に、鈴羽の目に涙が滲む。

――こんな場所で、この子を死なせたくない。


鈴羽は、テーブルの上にあった水晶の灰皿を掴んだ。

そして――渾身の力で、男の頭部に叩きつけた。


ガンッ――!!


歓楽街の女にそこまで大胆な行動を取られるとは思っていなかった。

男はまともに頭を直撃され、すぐに血を流した。


「てめぇ、よくもやったな……ぶっ殺してやるッ!!」


男は怒り狂い、両手で鈴羽を掴むと、壁に向かって投げ飛ばした。

彼の力は恐ろしく強く、彼女を持ち上げるのはまるで人形を掴むように軽々だった。


その瞬間、全身に鈍い衝撃が走り、意識が遠のく。

骨が軋む音さえ聞こえた気がした。


それでも男は彼女を許そうとせず、ナイフを取り出した。


「この体に、刻みつけてやるよ……忘れられねぇ夜にしてやるぜ、クソ女が」


だが――

そのとき。


「……砂川様。お手をお止めください。ここは殺淵組の支配下です。我々が招いたのは、無差別に人を殺すためではございません」


バンッ! とドアが蹴り開けられた。

現れたのは――黒岩平吾。



――そして、約三十分後。

九条刹夜が、血相を変えて駆け込んでくる。


「若頭様……奥様の状態は極めて危険です。頭部の強い打撲による脳震盪、肋骨七本の骨折、内臓も破裂しており……

 我々は全力で処置をしておりますが、正直――ご覚悟を……」


主治医は恐る恐る、震えながら言った。


刹夜は、沈黙したまま、じっとオペ室の扉を見つめる。


そして五秒の沈黙ののち――

たった一言、低く呟いた。


「……あいつが死んだら、この病院にいる全員、道連れにする」


この作品に、最初のコメントを書いてみませんか?