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第9話 タイミング


九条刹夜のその一言は、病院の空気を一瞬にして凍らせた。


彼がどんな人間か――

この街で働いていれば、誰だって知っている。


――刹淵組の若き若頭。

冷酷と狂気の化身。

“怒らせてはいけない人間”の最上位に君臨する男。


彼が本気でキレたとき、何が起きるのか――

想像するだけで、背筋が凍る。


「どうか……どうか、ご無事で……」


震える声でそう呟きながら、医師たちは命をかけるようにオペに集中していた。

助けなければ、自分たちが“終わる”。

そんな状況が、病院全体を包み込んでいた。


数時間前――


刹夜は本部の会議室で、数名の幹部と案件の調整に当たっていた。

そこへ黒岩平吾からの緊急連絡が入る。


「……若頭様、一番街で事件が起きました」

「くだらん揉め事なら、そっちで片付けろ」


刹夜はいつも通り、冷たく突き放した。

だが、次の言葉で空気が変わった。


「奥様が巻き込まれました」

「……なんだと?」

「ゴールデントライアングルの男に狙われ、VIPルームへ引きずり込まれたと。

現在、病院に搬送中です。容体は……危険です」


黒岩平吾は、血まみれになった鈴羽を抱えながら、搬送中の車内で思っていた。

――この女は、もうダメかもしれない。


あの部屋に充満していた血の匂い、床に広がった深紅の染み、そして朦朧とした彼女の目。


ゴールデントライアングルの男――あの外道の所業は、人のやることではなかった。

このことを若頭様に伝いないと。


瞬間、刹夜は勢いよく席から立ち上がった。

自ら車を運転して病院へ向かい、道中で十三回も赤信号を無視した。


彼は、あの女がもし死んだらどうしようかと、考えることすらできなかった。


そんなこと、想像したこともなかった。


多くの細かい事情を、九条刹夜は知らなかったため、混乱していた。


鈴羽という清掃員が、どうしてゴールデントライアングルの貴重な客人に目をつけられたのか。


その道中、時間が何倍にも長く感じられた。

頭の中ではまるで映画のように、過去の光景が次々と流れていた。


彼女が一年前にこの家に来たときのこと。

ふたりが初めて一夜を共にしたときのこと。

彼の誕生日に、豪華な手料理を作ってくれたこと。


眠りについた後、彼女がいつも彼に寄り添って抱きついてきたこと。

冷たく突き放しても、またすぐにくっついてきた、子猫のように。


いちばん面白いのは、朝起きたとき、自分から抱きしめていることに気づいた彼女が、驚いて顔を真っ赤にしていたこと。


そのギャップが、刹夜にはおかしくもあり、少し……可愛らしくも思えた。


そんな、生き生きとした存在が。

医者は彼に告げた――命が尽きかけていると。


三百六十五日、彼のそばにいたその人が。

まもなく死ぬかもしれないと告げられた。


そんなこと、あっていいはずがない。

彼に、そんなことを許せるはずがない。


三時間過ぎたが、依然として何の知らせもなかった。


「若頭様。組のほうも、まだ色々と残っております。ひとまず、お戻りになってはいかがでしょうか。こちらは、私が責任を持って見守ります」


平吾が前に出て、そう進言した。

しばし沈黙ののち、刹夜はようやく背を向けた。


「……目を覚ましたら、すぐに知らせろ」

「承知しました」


若頭の背中が遠ざかっていくのを見ながら、平吾は内心で思っていた。

――もし、目を覚まさなかったら……どうする。


だが、それを口に出す勇気がなかった。


今の奥様の状況は、もはや医者の手にも負えない。

医者たちは、何度も繰り返して伝えていた。


――傷が重すぎる。

――助かる見込みは、極めて薄い。


けれど、刹夜はあまりに強引だった。

誰の言葉も耳に入らなかった。


「黒岩さん……あの子、どうすればいいんですか? 若頭様から、何か指示は……?」


手下が声をひそめて尋ねてきた。


鈴羽が飛び込んできたおかげで、蛍は無傷で済んだ。

ただ、ひどく怯え、震えていた。


砂川と呼ばれるあの男も、刹淵組の顔を立てて、さすがに血の海を作るような真似まではしなかった。


結局、命を落としたのはキャバ嬢一人だけ。

――けれど、この街では、キャバ嬢の命を気にかける者など誰もいない。


それよりも、平吾が真に恐れているのは、ただ一つ。


――もし、奥様が助からなかったら。

九条刹夜は、街そのものを潰す。


一番街の店はすべて焼き払い、三和をはじめとした関係者を“見せしめ”として処刑するだろう。


それが、若頭の“やり方”だった。


「ひとまずあの子は保護しておけ。処分の指示があるまで、待機だ」

「了解しました」


あの子が生き延びられるかどうかも、すべてはあの女性――

今も病院で意識を失ったままの彼女が、目を覚ますかどうかにかかっている。


一方その頃――


鈴羽が襲われた事件は、厳しく情報が統制されていたため、

組の内部の人間、それもごく限られた者しか真相を知らなかった。


そんななか――

千紗はというと、高級ブランドの服をまとい、高級バッグを腕に提げ、昔の友人たちに会いに出かけていた。


彼女はその日、女友達三人を食事に招いていた。


「千紗って、ほんと運いいよね~!」

「ほんとよ。てっきり川崎とくっつくと思ってたのに~」

「そんなわけないでしょ?川崎なんてただの貧乏人よ。しつこく付きまとってきただけ。こっちが相手にするわけないじゃない」


そう言って、千紗はあっさりと川崎との過去を切り捨てた。


「で、いまの旦那さんって何してる人?」

「ふふ……内緒。でも、すごいのよ? お金も地位もあって、顔もめちゃくちゃいいの。ま、いずれ紹介してあげるわ。

今日は私のおごりよ、遠慮しないで好きなもの頼んで!」


そう言ってグラスを掲げる千紗の笑顔には、余裕と勝利の色が滲んでいた。

虚栄心。

それだけが、彼女のアイデンティティだった。


刹夜はようやく仕事を片付け、病院へ向かおうとしたその時だった。

父親からの命令が飛んできた。


――徳川花怜を迎えに、空港へ行け。


「……戻ってくるタイミング、まったくだな」


奥歯を噛みしめながら、刹夜は舌打ちした。


「若頭様、徳川家のお嬢様は……お迎えになったほうがよろしいかと。組長も、徳川家との関係を大切にしておられますので……」


側近の言葉に、刹夜は重くうなずくしかなかった。


──二時間後、空港。


黒塗りの高級車が、国際到着口のすぐそばに静かに停まる。

ガラス張りの到着ゲートから現れたのは、目を引くほどの美女だった。


二十歳そこそこ、端正な顔立ちに外国の血を感じさせる風貌。


身長は170センチほど、水色の高級ドレスがよく映えている。

その後ろには、黒スーツのSPが二人、きっちりと付き従っていた。


「お嬢様、どうぞこちらへ」


車のドアを開けると、彼女の視線が後部座席の男に止まる。


「……えっ、来てくれたの!? もう来ないのかと思ってた!

だったらなんで中まで迎えに来てくれないのよ。私、がっかりしたんだからね」


「……降りる気がしなかっただけだ」


刹夜はネオンきらめく窓の外に視線を向けたまま、淡々と答えた。


「ふふっ、やっぱり変わらないのね、そういうとこ。

でも、そういうクールなとこ……わたし、好きよ」


花怜という女は、まるで太陽のように周囲を照らす。

車に乗り込んだ瞬間から、空気が華やいだ。


二人は幼い頃からの知り合い。

彼女の父・徳川一成はかつて裏社会で名を馳せた人物で、刹夜の父とも、深く繋がりがあった。


だが時が流れ、徳川家は表社会へと舵を切り、今では仮想通貨を軸に大きなビジネスを展開している。

その総資産は莫大であり、花怜はその一人娘。

すなわち、徳川家すべての後継者だ。


彼女を娶れば、徳川家の財も名もすべて手に入る。

――それこそが、刹夜の父が欲してやまない“利益”だった。


刹夜自身がその気なくとも、迎えに来ざるを得なかった理由が、そこにある。


「ねえ、刹夜、久しぶりだけど……私、綺麗になったと思わない?」


彼女の横顔には、ポルトガル人の祖母譲りの異国の血が滲み、まるで雑誌から抜け出たような洗練された美しさがあった。


「……ああ」


刹夜は興味なさげに窓の外を見たまま応じる。


「ちょっと、全然見てないじゃない!」

「さっき見た。乗ってきたとき」


やはり素っ気ない。


「今、ちゃんと見て!こっち向いて!」


お嬢様気質全開で命じるように言う花怜。


しぶしぶ顔を向けた刹夜は、わずかに目を動かして彼女を一瞥した後、またすぐに外を向いた。


「もうっ……あーーーっ、ほんとムカつく!

刹夜、あんた昔から全然変わってない! 他の男たちはみんな、私をチヤホヤしてくれるのに……なんで、あんただけ無視するのよっ!」


ぶつぶつ言いながらも、花怜の声には甘えが滲んでいる。

彼女は、刹夜に構ってもらいたくて、わざと拗ねているのだった。


ちょうどその時、刹夜のスマホが鳴る。

画面に表示された名前は――黒岩平吾。


刹夜が通話に出ると、受話器の向こうから緊迫した声が響く。


「……若頭様、奥様が、目を覚まされました」


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