九条刹夜のその一言は、病院の空気を一瞬にして凍らせた。
彼がどんな人間か――
この街で働いていれば、誰だって知っている。
――刹淵組の若き若頭。
冷酷と狂気の化身。
“怒らせてはいけない人間”の最上位に君臨する男。
彼が本気でキレたとき、何が起きるのか――
想像するだけで、背筋が凍る。
「どうか……どうか、ご無事で……」
震える声でそう呟きながら、医師たちは命をかけるようにオペに集中していた。
助けなければ、自分たちが“終わる”。
そんな状況が、病院全体を包み込んでいた。
数時間前――
刹夜は本部の会議室で、数名の幹部と案件の調整に当たっていた。
そこへ黒岩平吾からの緊急連絡が入る。
「……若頭様、一番街で事件が起きました」
「くだらん揉め事なら、そっちで片付けろ」
刹夜はいつも通り、冷たく突き放した。
だが、次の言葉で空気が変わった。
「奥様が巻き込まれました」
「……なんだと?」
「ゴールデントライアングルの男に狙われ、VIPルームへ引きずり込まれたと。
現在、病院に搬送中です。容体は……危険です」
黒岩平吾は、血まみれになった鈴羽を抱えながら、搬送中の車内で思っていた。
――この女は、もうダメかもしれない。
あの部屋に充満していた血の匂い、床に広がった深紅の染み、そして朦朧とした彼女の目。
ゴールデントライアングルの男――あの外道の所業は、人のやることではなかった。
このことを若頭様に伝いないと。
瞬間、刹夜は勢いよく席から立ち上がった。
自ら車を運転して病院へ向かい、道中で十三回も赤信号を無視した。
彼は、あの女がもし死んだらどうしようかと、考えることすらできなかった。
そんなこと、想像したこともなかった。
多くの細かい事情を、九条刹夜は知らなかったため、混乱していた。
鈴羽という清掃員が、どうしてゴールデントライアングルの貴重な客人に目をつけられたのか。
その道中、時間が何倍にも長く感じられた。
頭の中ではまるで映画のように、過去の光景が次々と流れていた。
彼女が一年前にこの家に来たときのこと。
ふたりが初めて一夜を共にしたときのこと。
彼の誕生日に、豪華な手料理を作ってくれたこと。
眠りについた後、彼女がいつも彼に寄り添って抱きついてきたこと。
冷たく突き放しても、またすぐにくっついてきた、子猫のように。
いちばん面白いのは、朝起きたとき、自分から抱きしめていることに気づいた彼女が、驚いて顔を真っ赤にしていたこと。
そのギャップが、刹夜にはおかしくもあり、少し……可愛らしくも思えた。
そんな、生き生きとした存在が。
医者は彼に告げた――命が尽きかけていると。
三百六十五日、彼のそばにいたその人が。
まもなく死ぬかもしれないと告げられた。
そんなこと、あっていいはずがない。
彼に、そんなことを許せるはずがない。
三時間過ぎたが、依然として何の知らせもなかった。
「若頭様。組のほうも、まだ色々と残っております。ひとまず、お戻りになってはいかがでしょうか。こちらは、私が責任を持って見守ります」
平吾が前に出て、そう進言した。
しばし沈黙ののち、刹夜はようやく背を向けた。
「……目を覚ましたら、すぐに知らせろ」
「承知しました」
若頭の背中が遠ざかっていくのを見ながら、平吾は内心で思っていた。
――もし、目を覚まさなかったら……どうする。
だが、それを口に出す勇気がなかった。
今の奥様の状況は、もはや医者の手にも負えない。
医者たちは、何度も繰り返して伝えていた。
――傷が重すぎる。
――助かる見込みは、極めて薄い。
けれど、刹夜はあまりに強引だった。
誰の言葉も耳に入らなかった。
「黒岩さん……あの子、どうすればいいんですか? 若頭様から、何か指示は……?」
手下が声をひそめて尋ねてきた。
鈴羽が飛び込んできたおかげで、蛍は無傷で済んだ。
ただ、ひどく怯え、震えていた。
砂川と呼ばれるあの男も、刹淵組の顔を立てて、さすがに血の海を作るような真似まではしなかった。
結局、命を落としたのはキャバ嬢一人だけ。
――けれど、この街では、キャバ嬢の命を気にかける者など誰もいない。
それよりも、平吾が真に恐れているのは、ただ一つ。
――もし、奥様が助からなかったら。
九条刹夜は、街そのものを潰す。
一番街の店はすべて焼き払い、三和をはじめとした関係者を“見せしめ”として処刑するだろう。
それが、若頭の“やり方”だった。
「ひとまずあの子は保護しておけ。処分の指示があるまで、待機だ」
「了解しました」
あの子が生き延びられるかどうかも、すべてはあの女性――
今も病院で意識を失ったままの彼女が、目を覚ますかどうかにかかっている。
一方その頃――
鈴羽が襲われた事件は、厳しく情報が統制されていたため、
組の内部の人間、それもごく限られた者しか真相を知らなかった。
そんななか――
千紗はというと、高級ブランドの服をまとい、高級バッグを腕に提げ、昔の友人たちに会いに出かけていた。
彼女はその日、女友達三人を食事に招いていた。
「千紗って、ほんと運いいよね~!」
「ほんとよ。てっきり川崎とくっつくと思ってたのに~」
「そんなわけないでしょ?川崎なんてただの貧乏人よ。しつこく付きまとってきただけ。こっちが相手にするわけないじゃない」
そう言って、千紗はあっさりと川崎との過去を切り捨てた。
「で、いまの旦那さんって何してる人?」
「ふふ……内緒。でも、すごいのよ? お金も地位もあって、顔もめちゃくちゃいいの。ま、いずれ紹介してあげるわ。
今日は私のおごりよ、遠慮しないで好きなもの頼んで!」
そう言ってグラスを掲げる千紗の笑顔には、余裕と勝利の色が滲んでいた。
虚栄心。
それだけが、彼女のアイデンティティだった。
刹夜はようやく仕事を片付け、病院へ向かおうとしたその時だった。
父親からの命令が飛んできた。
――徳川花怜を迎えに、空港へ行け。
「……戻ってくるタイミング、まったくだな」
奥歯を噛みしめながら、刹夜は舌打ちした。
「若頭様、徳川家のお嬢様は……お迎えになったほうがよろしいかと。組長も、徳川家との関係を大切にしておられますので……」
側近の言葉に、刹夜は重くうなずくしかなかった。
──二時間後、空港。
黒塗りの高級車が、国際到着口のすぐそばに静かに停まる。
ガラス張りの到着ゲートから現れたのは、目を引くほどの美女だった。
二十歳そこそこ、端正な顔立ちに外国の血を感じさせる風貌。
身長は170センチほど、水色の高級ドレスがよく映えている。
その後ろには、黒スーツのSPが二人、きっちりと付き従っていた。
「お嬢様、どうぞこちらへ」
車のドアを開けると、彼女の視線が後部座席の男に止まる。
「……えっ、来てくれたの!? もう来ないのかと思ってた!
だったらなんで中まで迎えに来てくれないのよ。私、がっかりしたんだからね」
「……降りる気がしなかっただけだ」
刹夜はネオンきらめく窓の外に視線を向けたまま、淡々と答えた。
「ふふっ、やっぱり変わらないのね、そういうとこ。
でも、そういうクールなとこ……わたし、好きよ」
花怜という女は、まるで太陽のように周囲を照らす。
車に乗り込んだ瞬間から、空気が華やいだ。
二人は幼い頃からの知り合い。
彼女の父・徳川一成はかつて裏社会で名を馳せた人物で、刹夜の父とも、深く繋がりがあった。
だが時が流れ、徳川家は表社会へと舵を切り、今では仮想通貨を軸に大きなビジネスを展開している。
その総資産は莫大であり、花怜はその一人娘。
すなわち、徳川家すべての後継者だ。
彼女を娶れば、徳川家の財も名もすべて手に入る。
――それこそが、刹夜の父が欲してやまない“利益”だった。
刹夜自身がその気なくとも、迎えに来ざるを得なかった理由が、そこにある。
「ねえ、刹夜、久しぶりだけど……私、綺麗になったと思わない?」
彼女の横顔には、ポルトガル人の祖母譲りの異国の血が滲み、まるで雑誌から抜け出たような洗練された美しさがあった。
「……ああ」
刹夜は興味なさげに窓の外を見たまま応じる。
「ちょっと、全然見てないじゃない!」
「さっき見た。乗ってきたとき」
やはり素っ気ない。
「今、ちゃんと見て!こっち向いて!」
お嬢様気質全開で命じるように言う花怜。
しぶしぶ顔を向けた刹夜は、わずかに目を動かして彼女を一瞥した後、またすぐに外を向いた。
「もうっ……あーーーっ、ほんとムカつく!
刹夜、あんた昔から全然変わってない! 他の男たちはみんな、私をチヤホヤしてくれるのに……なんで、あんただけ無視するのよっ!」
ぶつぶつ言いながらも、花怜の声には甘えが滲んでいる。
彼女は、刹夜に構ってもらいたくて、わざと拗ねているのだった。
ちょうどその時、刹夜のスマホが鳴る。
画面に表示された名前は――黒岩平吾。
刹夜が通話に出ると、受話器の向こうから緊迫した声が響く。
「……若頭様、奥様が、目を覚まされました」