「止めろ」
キキーッとタイヤが鳴き、車が急停車した。
あまりの急ブレーキに、花怜は前の座席に頭をぶつけかけた。
だが、刹夜はそんなこと気にも留めない。
「花怜をちゃんと護衛して、パーティーに連れて行け。
…俺は急用ができた。先に行く」
「えっ、ちょっ……刹夜!」
花怜が声を上げたときには、男の姿はもうなかった。
「はぁ!? なにそれ、意味わかんない!」
海外に留学していた徳川花怜は、この夏ようやく学業を終えて帰国したばかり。
せっかくの再会を楽しみにしていたのに、この仕打ち――
機嫌が悪くなるのも無理はなかった。
***
病院――集中治療室前。
「どこだ」
荒い息を吐きながら、刹夜が駆け込んでくる。
「奥様は中に。ただ、医師から――面会は短くとのことです。
傷があまりにも重く、状態が不安定で……若頭様もあまり刺激なさらぬよう……」
平吾が恐る恐る説明した。
「……お前に指図される筋合いはねぇ。どけ」
その一言で、平吾は数歩も下がり、背筋を伸ばして黙り込んだ。
刹夜は黒のジャケットを脱ぎ、平吾に投げ渡す。
シャツもスラックスも、高級ブランドのオーダーメイド。
まだ二十代の若さながら、闇の帝国を背負う男には、それだけの威圧感があった。
病室のベッドには、青の病衣の鈴羽が静かに横たわっていた。
全身には管が通され、酸素マスクをつけている。
顔色は紙のように白く、今にも消えてしまいそうなほど弱々しい。
――一時間前、彼女はうっすらと目を開けた。
最初は、夢だと思った。
けれど、周囲に立つ看護師たちの姿を見て、自分がまだ生きていると理解した。
「……お前、やらかしたんだぞ。わかってんのか?
俺の客に手ぇ出したんだぞ」
心配の言葉など一切言えない性分。
気づけば、刹夜の口から出たのは責め立てるような一言だった。
その声に反応するように、鈴羽のまぶたがゆっくり動いた。
「……死んだかと思った」
かすれた声が、酸素マスク越しに届く。
「死んでいいなんて、俺が許してねぇから、死神だってお前を連れてけねぇよ」
「蛍ちゃん……あの子は?」
鈴羽の声が震える。
「誰?」
刹夜が眉をひそめた。
そんな名前、聞いた覚えがなかった。
子分の報告でも、鈴羽が子供を助けようとしていた、という程度しか伝えられていなかった。
「小豆蛍ちゃん……その子、無事なの……?」
懸命に問いかける鈴羽。
刹夜は、その“誰か”の安否を気にかける鈴羽に、言いようのない怒りを覚えた。
胸の奥で、嫉妬が燃え上がる。
(あのガキか――)
今にもその首を絞めてやりたい衝動に駆られる。
だが、全身に管が繋がれている彼女を見て、どうにもできず、苛立ちを飲み込むしかなかった。
「……ああ、あの子か」
「どうなった?無事なの??」
鈴羽が縋るように聞く。
「……死んだよ。バラバラにされてな」
「……っ!!」
鈴羽は激しく反応し、咳き込み始める。
「ゴホッ、ゴホッ、ゴホッ……!」
「……嘘だ。生きてるよ」
彼女がここまでその子を心配するのが、ますます妬ましかった。
直後――病室にアラームが鳴り響く。
医師と看護師たちが駆け込んできた。
「若頭様、申し訳ありません。今はお引き取りを。
容体が急変しました。緊急処置が必要です!」
「…………」
やってしまった、という顔をして彼は一歩後退した。
(……なんなんだよ、クソッタレ。
俺は……一年もこいつと一緒に寝てた男だぞ?
たった二日会っただけのガキに負けてんのか――?)
歯を食いしばり、刹夜は悔しさと怒りをこらえた。
病室を出た刹夜の顔には、陰が差していた。
「若頭様、奥様は大丈夫でしょうか…?
さっき、医者が大勢駆け込んで行きましたが……」
平吾が心配そうに声をかけた。
「……まぁ、俺の顔見て嬉しすぎたんだろ」
平吾は黙っていたが、
内心では(本気で言ってるのか、若頭様)とツッコんでいた。
そんな時、電話が鳴った。
――発信者:九条貴司。九条刹夜の父親だ。
「……はい」
『花怜ちゃんの歓迎パーティーだ。さっさと来い』
「こっちはまだ用事が…………」
『くだらん言い訳は聞きたくない。すべて放り出して来い』
「でも――」
プツッ。
一方的に切られた。
父と息子、どちらも似た者同士で、どちらも自分の言葉しか信じない頑固者だった。
父・貴司が徳川家との縁組にどれほど執着しているか、刹夜はよく知っていた。
今まさに高級ホテルの宴会場で、徳川家と正式な顔合わせをしている最中。
だが、刹夜の姿がなかったことで父は激怒し、すぐさま電話をかけてきたのだ。
仕方なく、刹夜は車を走らせる。
宴会場には、徳川家の父娘、そして貴司とその妾・和枝の姿。
刹夜の実母・水穂は正式な妻であったが、長年冷遇されており、この場に姿はなかった。
周囲の誰もが、和枝こそが組長の最愛の女性と認識している。
それに対し、刹夜は何の異論もなかった。
実母に対して、彼は愛情も尊敬も感じていなかった。
ただ一人の“弱くて、哀れな女”としか思っていなかったからだ。
「刹夜!」
刹夜の姿を見るや、徳川花怜は満面の笑みで立ち上がる。
「徳川さん、お久しぶりです」
刹夜は花怜の父へ、形式的に挨拶する。
「おお、最後に会ったのはもう五年前か。すっかり立派になったな!
一人で組を任されてもおかしくない風格だ。さすがは貴司の息子だ」
「過分なお言葉です」
刹夜は静かに応じ、父の隣に座ろうとする――が、
「刹夜、こっち!」
花怜が隣の席をぽんぽんと叩く。
「話したいこと、たっくさんあるの!」
海外帰りの彼女は、いささか大胆だった。
いわゆる“良家のお嬢様”らしい遠慮は一切ない。
和枝が微笑みながら口を添える。
「刹夜さん、花怜さんがそこまで言ってくれてるんだから、座ってあげなさいな」
断ろうとした刹夜だが、父親の鋭い視線と目が合う。
――拒否すんな、という圧。
仕方なく、花怜の隣に腰を下ろした。
「よかった~、来てくれて!
もう来ないのかと思ったんだから。
なに食べたい? 私が取り分けてあげる!」
「……いい、食欲ないんだ」
刹夜は短く答える。
すると、和枝がわざとらしく話題を振った。
「花怜さん、海外に長くいたそうだけど、現地で彼氏さんとか……いたのかしら?」
「まさか! 全然いないよ~
あんな男たち、全然タイプじゃないもん…
刹夜よりかっこいい人、どこにもいなかったし」
「花怜、女の子なんだから、もっと控えめにしなさい」
徳川花怜の父がやんわりと注意する。
「いいの、パパ。現実の前じゃ“控えめ”なんて意味ないから」
「……まったく」
苦笑しながら、徳川父は肩をすくめる。
貴司は豪快に笑った。
「ははっ! いいぞ花怜ちゃん! その正直さと率直さがいい!」
場の空気がなごみ、年配者たちは皆、満足げにうなずく。
だが、徳川花怜の父は、話の中に一つの“確認”を忍ばせていた。
「……そういえば、一つだけ確かめたいことがあるんだがな。
どうも聞いたんだ、刹夜は一年前に“結婚していた”って」
「……え?結婚なんて、まさか!パパ、何かの間違いだよ」
花怜の表情が一気に曇る。
刹夜が答える前に、貴司が口を挟む。
「なぁに、大したことじゃないさ。
式もしてない、籍も入れてない、子供のままごとみたいなもんだ。そんなの結婚とは言わんよ」
徳川父は、穏やかな目をしながらも、じっと刹夜の顔を見つめた。
「刹夜、お前自身の口で聞かせてくれ。
その女とは、本当に――遊びだったのか?」