鈴羽がゆっくりと目を開けたとき、ようやく胸をなで下ろした。
――よかった……そういう光景じゃなかった。
さっきの女性の叫び声は、どうやらトランプの罰ゲームだったらしい。
女はわざとらしく叫ばされ、男たちを楽しませていたのだ。
――さすがは神楽坂家。
東アジアでも有数の資産家。
そして集まっていたのも、名家の御曹司たちばかり。遊び方も常識外れだ。
「流河さま……お呼びでしょうか?」
鈴羽は恐る恐る近づいて尋ねた。
その瞬間、誰かが冗談めかして声を上げた。
「流河がトランプで負けてさ~、罰ゲームで“介護係にキス”ってなったんだよな――
っちゅうことで、介護係って、君のことだろ?」
たちまち鈴羽の顔色が変わる。
流河は無表情のまま、いきなり鈴羽の顔を荒っぽく引き寄せ、
そのままキスしようとしたが――
――バチンッ!!
反射的に、鈴羽は彼の頬を平手で打っていた。
場が一瞬で凍りつく。
周囲の誰もが驚愕の表情で彼女を見つめた。
「……てめえ……! 流河を叩いた……!?」
「何様のつもりだ、お前……流河が誰だかわかってんのかッ!」
怒鳴りながら、流河の取り巻きの一人が鈴羽の髪を乱暴に掴み、床に叩きつけた。
衝撃で身体が弾かれ、鈴羽は数メートル先まで転がる。
その拍子に、治りかけの肋骨がきしみ、息が詰まるほどの痛みが走った。
「あなたたちのゲームに……なぜ私が巻き込まれなきゃいけないの……?」
必死に体を起こしながら、鈴羽は弱々しく訴える。
「は? 汚い貧乏人がよ、俺たちが“遊んでやってんだ”よ? 感謝しろや!」
「お前みてーな女なんざ、どうせ男に弄ばれるために生まれたようなもんだ。俺たちに遊んでもらえるなんて光栄に思えよ」
――最低。
鈴羽は男たちの言葉に耳を貸さず、まっすぐに流河を見つめた。
「……流河さま。あなたも、そうお考えなんですか?」
心の奥底では、流河だけは違うと信じたかった。
彼はこんな連中と同じではない――そう思いたかった。
だが、流河がしばらくして淡々と言い放ったのは、
「ただのゲームだ。ちょっと反応しすぎじゃないか」
鈴羽は目を見開き、信じられない思いで彼を見つめた。
ゲーム?
この人たちは、他人の尊厳を踏みにじっておいて、「ゲームだから」で済ませるのか。
他人に無理やりキスするなんて、そんな軽いことじゃない。
でも、彼にとってはただの遊びでしかなかった。
鈴羽の中で、何かが音を立てて崩れていった。
最初は、怪我をして足が不自由で、気難しいのも無理はないと同情していた。
摂食障害で食べられないのも気の毒だと思っていた。
でも、今となっては――
本当に可哀そうなのは、どっちだったのだろう?
鈴羽は絶望の目で流河を見つめた。
そのときだった。
あの赤髪の男が、鈴羽の髪を掴んで無理やり立たせ、今度は左右に平手打ちを浴びせた。
頭がくらくらする。耳の奥で鈍い音が響く。
「貴様、まだ高慢な態度取るかよ?流河を叩いた罰、しっかり受けてもらうぜ。
男にキスされるのがそんなに嫌か?だったら俺が無理やりしてやる!
……それだけじゃない、ここでみんなの前で抱いてやる!」
そう言って赤髪の男は鈴羽の服を乱暴に引き裂き始めた。
誰一人、鈴羽を助けようとしない。
その場にいる全員の目には、嘲りと野次馬根性が浮かんでいた。
流河はというと、ワインを静かに揺らしながら見ているだけで、止める気配すらなかった。
男が今にもキスしようと顔を近づけたその時――
「うっ……!!」
鈴羽は耐えきれずに嘔吐した。
「うああああ!? なんだよ、こいつ! くっせぇ!!」
吐瀉物が赤髪の男にかかり、彼は顔をしかめて鈴羽を突き飛ばす。
「おえぇぇ……くそ、風呂だ! 風呂!!」
男は半狂乱で地下室を飛び出していった。
鈴羽は吐き終えると、壁にもたれかかるようにしてよろよろと立ち上がった。
その場を去る直前、彼女は振り返り、流河をじっと見つめてこう言い放った。
「あなたたちは裕福だから、だから私たち下層の人間を見下すんでしょうけど、よく考えてください。あなたたち自身が偉いんじゃなくて、ご先祖様のおかげでしょう?
人間は進化した生き物のはずです。森の中の弱肉強食のルールを今も守っているなら、あなたたちは動物と変わりません。
弱者を力でねじ伏せる――それは理性ある人間のやることじゃない。獣のやり方です。
……私の言葉が滑稽に聞こえるかもしれない。でも、あえて言わせてもらう。
“因果応報”って、信じたことないです?
永遠にお金持ちのままでいられる保証なんて、どこにもないんですよね?
あなたたちだって、いつかは落ちぶれるかもしれない。そのとき、誰かに同じことをされるかもしれないって、考えたことないんですか?
あなたたちは私が卑しいって笑ったけど――
私はね、あなたたちが“動物以下”だって思ってる。
少なくとも、狼は肉を食べるのに理由がある。生きるため、空腹を満たすために仕方なくやっている。
でもあなたたちは違う。人を傷つけるのが娯楽なんて……そんなの、心の中がどれだけ腐ってるかの証拠です」
言い終えると、鈴羽は流河に最後の一瞥を向けた。
「……神楽坂さん、私はもう、あなたのもとで働けません。
あなたとあなたの友人たちを、心の底から気持ち悪いと思うから」
鈴羽はそう言い残し、地下室を駆け出した。
今日の給料も受け取らずに――。
ただ、彼女が気づかなかったのは、
あの瞬間、流河の目に一瞬だけ浮かんだ、戸惑いと何か言いたげな表情だった。
「ちっ、あの女……最後まで生意気な奴だな」
「今の許せねぇな」
「流河、あの女の住所分かってんだろ? 俺、仲間呼んで始末してくるわ」
怒号が飛び交う中、流河はワイングラスをくるりと回しながら、あっさりと言った。
「くだらん。いちいち構う必要はない」
その一言で、場の空気は変わった。
彼が“手を出すな”と言うなら、彼らもそれ以上は口出しできない。
その頃、鈴羽は部屋に戻っても、まだ胃のむかつきが治まらなかった。
うずくまっていると、大家のおばあさんが気を利かせてうどんを作ってくれた。
蛍はまだ修道院でピアノを習っており、部屋には鈴羽ひとり。
せっかくの温かいうどんの香りも、今の彼女には辛すぎる。
「うっ……ごめんなさい、おばあさん……せっかく作ってくれたのに……吐き気がひどくて、ほんとにごめんなさい……」
鈴羽が申し訳なさそうに頭を下げると、大家は優しく声をかけた。
「……病院に行ってみたらどうだい?」
「ううん……大丈夫です、たぶん。病院代かかるし……ちょっと横になればきっと……」
「そうかい……。でもねぇ……」
おばあさんは鈴羽の顔をじっと見て、少し躊躇いながら口を開いた。
「こんなこと言っていいのかわからないけど、もしかして――私の思い違いかもしれないけどね」
「あっはい、全然気にしないで言ってください」
鈴羽は顔色をこらえて答えた。
「もしかして……男の人とそういうこと、あったんじゃないかい?」
質問があまりに直球で、鈴羽の顔は一気に赤くなる。
だけど彼女は、少しうつむきながらも、素直にうなずいた。
するとおばあさんは、ポンと手を打って言った。
「ほら、やっぱりね。きっと妊娠してるんだよ」
「えっ?」
鈴羽は呆然とした。
「私もね、そんな感じだったもの。最初の頃は何でも吐きそうでね。
一度病院で検査だけでも行ってきなさい。お金のことなら、うちで貸してあげるよ」
鈴羽が黙っていると、おばあさんは金銭面を心配していると思ったのか、こう続けた。
「いえ……ありがとうございます。でも違うの。お金が心配なんじゃなく……
ただ……ただ、怖いの。もし、本当に妊娠してたら……私は……どうすれば……」
鈴羽は大きな衝撃に、しばらく言葉を失っていた。