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第49話 妊娠した


「まだ決まったわけじゃないよ。落ち着いて。今はあくまで可能性だから――

まずは病院に行って、ちゃんと検査してもらいなさい」


大家のおばあさんに背中を押されるようにして、鈴羽は町の産婦人科を訪れた。


検査の結果が出るまでの時間、まるで時が止まったかのようだった。

そして、医師の口から静かに告げられる。


「妊娠はもう四週目に入っています。まだ初期なので、強い反応が出る方もいれば、そうでない方もいます。

体質によりますが、吐き気はごく自然なものです。過度に心配しなくて大丈夫ですよ」


医師は丁寧に説明してくれたが、鈴羽の頭には何も入ってこなかった。


――本当に、妊娠してしまった。


記憶を辿る。

屋敷で九条刹夜と暮らしていたあの一年。

何度も抱かれたけれど、決して授かることはなかった。


それもそのはずだった。あの頃、毎日欠かさず避妊薬を飲んでいた。


惠美さんが「あまり若いうちに子どもを産むのは身体に負担がかかるから、必ず飲むように」と優しく言ってくれた。


でも、本当は――

刹夜にとって、彼女が“産む”ことは望ましくなかったのだろう。


だって、徳川花怜のような家柄の良い女性たちが彼の周囲にいたから。


もし自分が妊娠したら、きっと面倒なことになる。

だから素直に、避妊薬はずっと飲み続けていた。


避妊薬を飲まなかった、たった一度。

あの病院での夜。


その時傷を負っていた自分が逃げ出したくて――

自ら積極的に誘った。


九条刹夜は最初から鈴羽の身体にとても弱かった。

しかもあの日は、いつもよりずっと積極的だったから、彼も何度も求めてきた。


まさか、一発命中するなんて。

どうしよう……。


「……どうしますか? このまま出産希望でしたら、母子手帳の手続きが必要です。今後のフォローもありますから」


と医師が穏やかに尋ねる。


「……すみません、少し考えさせてください」


鈴羽はかすれた声で答えると、逃げるように病院を飛び出した。



帰り道、彼女は何度もお腹に手を当てた。


――この中に、小さな命が宿っている。

しかも九条刹夜の子。


でも、自分はもう過去に決別したはずなのに。

運命って、なんて皮肉なんだろう。


もし、あの日、姉が戻ってこなければ。

もし、刹夜が真実を知ることがなければ。

もし、今も二人で穏やかに暮らしていたら――


「赤ちゃんができた」と伝えたら、彼は喜んだのだろうか?

それとも……怒りに震えただろうか……。


いくつもの「もしも」に心が乱され、考えがまとまらない。



一方――

別荘では、まだパーティーが続いていた。


薬物が飛び交い、男女が入り乱れ、まともに見られたものではない。

流河は、そんな退廃した宴に飽き飽きしていた。


彼は無言で地下室を抜け、自分の部屋へ戻ろうとした。

そのとき、不意に背後から女の子に抱きつかれる。


「ねぇ、流河……今夜、付き合ってよ」


男としての欲望が一気にかき立てられる。

二人は何も言わずにキスを交わし、情熱的に絡み合う。


だが――


ふと、流河の頭に浮かんできたのは、

泣きそうな、でも必死に言葉をぶつけてきた、鈴羽の顔だった。


「……っ!」


流河はハッと我に返り、目の前の女を乱暴に突き放した。


「え……どうしたの?私じゃ、ダメ……だった?うーん……薬ならあるよ? すごく気持ちよくなれるやつ……」


と女は酔ったような目で言う。


「出ていけ」

「えっ……」

「出ていけっ!!」



怒鳴り声に驚いた女の子は、慌てて部屋を出て行く。


部屋に一人きりになって、流河はベッドに倒れ込んだ。

頭の中から、どうしても鈴羽が離れなかった。


彼女が去る前、地下室で自分たちに浴びせた言葉。


思えば、彼女の言う通りだ。

人間は高等な生き物だと言いながら、結局、欲望に流されて動物と変わらないこともある。


流河は幼い頃から、この世界がどれだけ汚いかを知っていた。

想像もつかないような遊びや、人間関係の複雑さ。

そんな環境で、まともに育てる子どもなんていない。


鈴羽が「動物と同様」だと言ったのは、間違いじゃない。


「フィエル」


流河はソファから身を起こし、電話を手に取る。


「はい、ご指示をどうぞ」

「鈴羽……彼女は、今どこに?」


「彼女は辞めました。本日分の給与も受け取らずに」


フィエルはどこか嬉しそうだった。

正直、彼女は鈴羽が長く働くことを望んでいなかった。

――頻繁に入れ替わる方が、坊ちゃまは自分に頼らざるを得なくなる。


フィエルにとって、流河の傍にいることが特権だった。

これまで最も長く仕え、信頼を得ていた自負もある。


「……彼女を、戻せないか?」


その一言に、フィエルは言葉を失った。


「坊ちゃま、彼女はあなたに手を挙げたと聞きました。そんな人を置いておくのは……」


「でも。彼女の作る料理は……美味しい。

伝えてくれ。戻ってくるなら、給料は――日給十万円にする」


その額に、フィエルは思わず息を呑んだ。

――自分でさえ、そんな額もらってないのに……。

たかが料理ができるだけの小娘に、十万?


「それは、いくらなんでも……」

「余計なこと言わずに連絡しろ」


流河の口調は明らかに不機嫌だった。


「……分かりました。連絡してみます」


電話を切ったあと、彼女は苛立ちを隠せず悪態をつく。


「チッ、あの小娘……やっぱり男を惑わすキツネよ。あの手この手で色仕掛けして……下品な女ね」



一方その頃――

一方、徳川花怜は巧妙に九条刹夜を食事に誘い、星宮恋夏も一緒に連れてきた。


星宮は花怜のジュエリーブランドのイメージモデルとして、

最近一緒にイベントへ参加することが多かった。


「徳川さん、今日はどなたと食事なんですか?」

と星宮恋夏が尋ねる。


「んふふ。私の婚約者よ」


「ええっ、婚約者って……!きっとすっごく素敵なお方なんですね!」


花怜はその言葉に何も答えず、代わりに微笑を浮かべる。

その時、運転手が豪華なギフトバッグを持って戻ってきた。


「お嬢さま、例の品、無事受け取りました」

「ありがとう。それじゃ、出発しましょ」



――レストランの個室。

星宮は刹夜の姿を見て、顔色が一気に青ざめた。


まさか、徳川花怜の婚約者が九条刹夜とは――

しばらく言葉が出ない。


「はい刹夜、プレゼントよ。南米プロジェクト成功、おめでとう!パパからも聞いたけど、本当にすごいわね。どんどん事業を拡大して」



花怜が差し出したプレゼントは、周りの誰もが羨むような高級時計――

リシャール・ミル、RM47「サムライ」。

世界限定モデルで、市場価格は軽く1億円を超える。


星宮は自分の時計を思わず袖で隠す。

数十万したお気に入りだったが、今はただの安物に思えて仕方なかった。


そして、その場の空気が一変する。


「……君たち、知り合いか」


刹夜が二人の顔を見比べる。


花怜は何も知らないふりで、

「あら、刹夜。星宮さんのこと知ってるの?」

「あっ、はい……以前誘拐された時、九条さまに助けていただいて……まさか徳川さんの婚約者だなんて……」


――やられた。


星宮は内心で叫んでいた。

これは偶然なんかじゃない。

明らかに見せつけるための食事会。


「まあ、そういう偶然もあるのね」


花怜は無邪気な笑顔を浮かべながら、時計を刹夜の腕に無理やりはめようとする。


そのとき――

平吾が近づいてきた。


「失礼します」


刹夜の耳元でそっと告げる。


「ようやく、奥様の居所が掴めました」


刹夜の深い瞳に、激しい波が揺れた――


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