「まだ決まったわけじゃないよ。落ち着いて。今はあくまで可能性だから――
まずは病院に行って、ちゃんと検査してもらいなさい」
大家のおばあさんに背中を押されるようにして、鈴羽は町の産婦人科を訪れた。
検査の結果が出るまでの時間、まるで時が止まったかのようだった。
そして、医師の口から静かに告げられる。
「妊娠はもう四週目に入っています。まだ初期なので、強い反応が出る方もいれば、そうでない方もいます。
体質によりますが、吐き気はごく自然なものです。過度に心配しなくて大丈夫ですよ」
医師は丁寧に説明してくれたが、鈴羽の頭には何も入ってこなかった。
――本当に、妊娠してしまった。
記憶を辿る。
屋敷で九条刹夜と暮らしていたあの一年。
何度も抱かれたけれど、決して授かることはなかった。
それもそのはずだった。あの頃、毎日欠かさず避妊薬を飲んでいた。
惠美さんが「あまり若いうちに子どもを産むのは身体に負担がかかるから、必ず飲むように」と優しく言ってくれた。
でも、本当は――
刹夜にとって、彼女が“産む”ことは望ましくなかったのだろう。
だって、徳川花怜のような家柄の良い女性たちが彼の周囲にいたから。
もし自分が妊娠したら、きっと面倒なことになる。
だから素直に、避妊薬はずっと飲み続けていた。
避妊薬を飲まなかった、たった一度。
あの病院での夜。
その時傷を負っていた自分が逃げ出したくて――
自ら積極的に誘った。
九条刹夜は最初から鈴羽の身体にとても弱かった。
しかもあの日は、いつもよりずっと積極的だったから、彼も何度も求めてきた。
まさか、一発命中するなんて。
どうしよう……。
「……どうしますか? このまま出産希望でしたら、母子手帳の手続きが必要です。今後のフォローもありますから」
と医師が穏やかに尋ねる。
「……すみません、少し考えさせてください」
鈴羽はかすれた声で答えると、逃げるように病院を飛び出した。
帰り道、彼女は何度もお腹に手を当てた。
――この中に、小さな命が宿っている。
しかも九条刹夜の子。
でも、自分はもう過去に決別したはずなのに。
運命って、なんて皮肉なんだろう。
もし、あの日、姉が戻ってこなければ。
もし、刹夜が真実を知ることがなければ。
もし、今も二人で穏やかに暮らしていたら――
「赤ちゃんができた」と伝えたら、彼は喜んだのだろうか?
それとも……怒りに震えただろうか……。
いくつもの「もしも」に心が乱され、考えがまとまらない。
一方――
別荘では、まだパーティーが続いていた。
薬物が飛び交い、男女が入り乱れ、まともに見られたものではない。
流河は、そんな退廃した宴に飽き飽きしていた。
彼は無言で地下室を抜け、自分の部屋へ戻ろうとした。
そのとき、不意に背後から女の子に抱きつかれる。
「ねぇ、流河……今夜、付き合ってよ」
男としての欲望が一気にかき立てられる。
二人は何も言わずにキスを交わし、情熱的に絡み合う。
だが――
ふと、流河の頭に浮かんできたのは、
泣きそうな、でも必死に言葉をぶつけてきた、鈴羽の顔だった。
「……っ!」
流河はハッと我に返り、目の前の女を乱暴に突き放した。
「え……どうしたの?私じゃ、ダメ……だった?うーん……薬ならあるよ? すごく気持ちよくなれるやつ……」
と女は酔ったような目で言う。
「出ていけ」
「えっ……」
「出ていけっ!!」
怒鳴り声に驚いた女の子は、慌てて部屋を出て行く。
部屋に一人きりになって、流河はベッドに倒れ込んだ。
頭の中から、どうしても鈴羽が離れなかった。
彼女が去る前、地下室で自分たちに浴びせた言葉。
思えば、彼女の言う通りだ。
人間は高等な生き物だと言いながら、結局、欲望に流されて動物と変わらないこともある。
流河は幼い頃から、この世界がどれだけ汚いかを知っていた。
想像もつかないような遊びや、人間関係の複雑さ。
そんな環境で、まともに育てる子どもなんていない。
鈴羽が「動物と同様」だと言ったのは、間違いじゃない。
「フィエル」
流河はソファから身を起こし、電話を手に取る。
「はい、ご指示をどうぞ」
「鈴羽……彼女は、今どこに?」
「彼女は辞めました。本日分の給与も受け取らずに」
フィエルはどこか嬉しそうだった。
正直、彼女は鈴羽が長く働くことを望んでいなかった。
――頻繁に入れ替わる方が、坊ちゃまは自分に頼らざるを得なくなる。
フィエルにとって、流河の傍にいることが特権だった。
これまで最も長く仕え、信頼を得ていた自負もある。
「……彼女を、戻せないか?」
その一言に、フィエルは言葉を失った。
「坊ちゃま、彼女はあなたに手を挙げたと聞きました。そんな人を置いておくのは……」
「でも。彼女の作る料理は……美味しい。
伝えてくれ。戻ってくるなら、給料は――日給十万円にする」
その額に、フィエルは思わず息を呑んだ。
――自分でさえ、そんな額もらってないのに……。
たかが料理ができるだけの小娘に、十万?
「それは、いくらなんでも……」
「余計なこと言わずに連絡しろ」
流河の口調は明らかに不機嫌だった。
「……分かりました。連絡してみます」
電話を切ったあと、彼女は苛立ちを隠せず悪態をつく。
「チッ、あの小娘……やっぱり男を惑わすキツネよ。あの手この手で色仕掛けして……下品な女ね」
一方その頃――
一方、徳川花怜は巧妙に九条刹夜を食事に誘い、星宮恋夏も一緒に連れてきた。
星宮は花怜のジュエリーブランドのイメージモデルとして、
最近一緒にイベントへ参加することが多かった。
「徳川さん、今日はどなたと食事なんですか?」
と星宮恋夏が尋ねる。
「んふふ。私の婚約者よ」
「ええっ、婚約者って……!きっとすっごく素敵なお方なんですね!」
花怜はその言葉に何も答えず、代わりに微笑を浮かべる。
その時、運転手が豪華なギフトバッグを持って戻ってきた。
「お嬢さま、例の品、無事受け取りました」
「ありがとう。それじゃ、出発しましょ」
――レストランの個室。
星宮は刹夜の姿を見て、顔色が一気に青ざめた。
まさか、徳川花怜の婚約者が九条刹夜とは――
しばらく言葉が出ない。
「はい刹夜、プレゼントよ。南米プロジェクト成功、おめでとう!パパからも聞いたけど、本当にすごいわね。どんどん事業を拡大して」
花怜が差し出したプレゼントは、周りの誰もが羨むような高級時計――
リシャール・ミル、RM47「サムライ」。
世界限定モデルで、市場価格は軽く1億円を超える。
星宮は自分の時計を思わず袖で隠す。
数十万したお気に入りだったが、今はただの安物に思えて仕方なかった。
そして、その場の空気が一変する。
「……君たち、知り合いか」
刹夜が二人の顔を見比べる。
花怜は何も知らないふりで、
「あら、刹夜。星宮さんのこと知ってるの?」
「あっ、はい……以前誘拐された時、九条さまに助けていただいて……まさか徳川さんの婚約者だなんて……」
――やられた。
星宮は内心で叫んでいた。
これは偶然なんかじゃない。
明らかに見せつけるための食事会。
「まあ、そういう偶然もあるのね」
花怜は無邪気な笑顔を浮かべながら、時計を刹夜の腕に無理やりはめようとする。
そのとき――
平吾が近づいてきた。
「失礼します」
刹夜の耳元でそっと告げる。
「ようやく、奥様の居所が掴めました」
刹夜の深い瞳に、激しい波が揺れた――