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第50話 巨額の誘惑


刹夜は突然席を立った。


「刹夜?」

「ちょっと用事がある。二人で食べててくれ」


そう言い残して、ひとり去っていく。

残されたのは、唖然とする星宮と、表情を失った花怜。


――まだ席に着いたばかりなのに?


星宮は呆然としながらも、密かにいくつもの可能性を思い描いていた。


(もしかして、気まずくてわざと席を外した…?

それとも……本当は私と二人きりになりたかったのに、徳川さんが邪魔だったとか……)


一方で、花怜の表情には見えない焦りが滲んでいた。


自分が勝手に星宮を連れてきたから、刹夜が怒ったのかもしれないと疑った。


でもなぜ怒るの?

飼っているあの女のほうがお気に入りじゃなかったっけ?


星宮とは何もないはずなのに……。

それとも、情報が間違っていたの?


刹夜が出て行った後、二人の女性はそれぞれの思惑を胸に秘めていた。


だが、次の瞬間――


「ふふっ、びっくりしたでしょ?」


徳川花怜はワイングラスを持ち上げ、取り繕うように明るく笑った。


「刹夜はいつもああなの。刹淵組みたいな大きな組織を、全部一人で切り盛りしてるんだから、忙しいのよ。私ももう慣れてる」


そう言いながら、花怜は平静を装う。


「……そうなんですね。あの、徳川さん、お二人って……いつからお付き合いされてるんですか?」

「刹夜ってね、私の幼なじみなの。物心ついたときからずっと一緒にいたわ。

私が生まれた時、刹夜のお父様が言ったの。『この子はうちの息子の嫁になる』ってね、ふふ」


花怜は紅い唇をにんまりと弧を描いて語る。


九条貴司がそう言ったのは確かだが、当時は息子の跡継ぎ争いも激しかった。

誰が最後に勝つのか、わからない状況だった。


でも、どちらが勝っても徳川花怜と結婚しなければいけない。

九条家がさらに勢力を広げるには、徳川家の財力と人脈が必要不可欠なのだ。


「そうだったんですね……」


その誇らしげな様子に、星宮の心の奥底がぎゅっと締めつけられる。


刹夜の本命になれるチャンスは、やはり小さそうだ。

徳川花怜という本物のお嬢様がいるのだから。


でも、本命になれなくても……愛人くらいなら、まだチャンスがある……。


こういう権力者の男は、ほとんどが一途じゃない。

愛人がたくさんいても不思議じゃない。


自分も刹夜の愛人になれれば、少しは優しくしてもらえるかもしれない。

そうすれば、何かしらのチャンスも広がる——今みたいに停滞したままじゃなく。




その頃――

九条刹夜は既に組織の防弾仕様の車に乗り込んでいた。


「どこにいる?」


焦る気持ちを抑えきれず尋ねる。


「百キロほど離れた温泉で有名な町です。毎年世界中から観光客が訪れる場所ですが、普段はそれほど人も多くありません。町の人口は一万人程度で……」

「要点だけ言え」


苛立ちを隠さない低音。

くだらない説明など聞きたくない。知りたいのは、彼女の消息だけだ。


「あ、はい。奥様の名前が、現地の病院の診察記録にありました。

同じ名前の人は全国にいますが、年齢と生年月日でおそらく間違いないかと」


「病院?怪我でもしたのか」

刹夜はわずかに緊張する。

あれだけ長く姿を消していた彼女が再び現れた理由が、病院の受診だったとは。


「いえ……。奥様は……ご懐妊のようでした」


「……は?」


刹夜の目が、まるで時間が止まったかのように動きを止める。


「病院の記録では、妊娠四週目とのことです」


四週目……。

刹夜は頭の中で日付を計算した。

四週間前、彼女はまだ病院で怪我を癒していた。


その時、自分は夜中にこっそり彼女のもとに通っていた。

一度だけ、彼女が自分を積極的に誘った夜があった。


小遣い目当てだと思っていたが、

まさかその夜の後で、お金を持って逃げてしまうとは思わなかった。


つまり、あの夜にできた子供なのか——間違いない。


鈴羽が妊娠したと聞いた瞬間、刹夜の胸に走ったのは、喜びとも怒りともつかない、複雑な感情だった。


たぶん、怒りがまず先にこみ上げる。

一言の挨拶もなく、自分のもとを去ったあの女。

何度も夢に出てきては、彼の心をかき乱した。


だが、その女の腹に、自分の子どもがいる――

そう思うと、不思議と胸がざわついた。


しばしの沈黙の後、平吾が恐る恐る口を開いた。


「若様、どうされます……?今すぐ奥様を迎えに――」


「……迎える?ふざけんな。あんな女、迎える資格なんてねぇよ。

連れ戻せ、力づくでいい。二度と逃げ出せないように、閉じ込めてやれ。

それと、目立つなよ」


「かしこまりました。あと、奥様と一緒にいる女の子ですが……」

「一緒に連れてこい」


刹夜はあの少女が鈴羽の弱点だと知っている。

あの子さえいれば、鈴羽は言うことを聞かざるを得ない。


「すぐに手配します」


刹夜は席に深く腰を沈め、瞳を閉じた。

逃げられてからの一ヶ月、彼はほとんど眠れていなかった。


昼は組の仕事、夜は空虚な時間。


屋敷にいる女の顔は確かに彼女と瓜二つだが、欲しいのはそういうものじゃない。

それに、薬を盛られたあの日から、彼女はもう完全に対象外だ。



一方その頃、鈴羽はぼんやりしたまま家に戻り、どうしていいかわからずにいた。


この子をどうするべきか……。


理性が言う。

――この子を産んではいけない。


もう九条刹夜と関わりたくない。

彼は今、姉と一緒にいるのだから。


でも、感情が訴える。

――この命を、自分の手で失いたくない。


「ママ」と呼んでくれる子どもがいる未来を想像してしまい、どうしても割り切れない。


今の自分には定職もなく、暮らしも安定せず、蛍の面倒も見なくてはいけない。

経済的にも到底無理な話だ。


そんなとき、電話が来た。


町に来てから使い始めた新しい番号で、大家さん名義で契約したもの。

刹夜に見つかるのを避けるための工夫だ。


この番号を知っているのは、大空とあの別荘の関係者だけ。


「はい」

『月島さん、フィエルです』

「あ、フィエルさん。どうかしましたか?」


てっきり、今日もらえなかった給料の話だと思った。


だが、次の言葉に、鈴羽は耳を疑う。


『坊ちゃまが、ぜひ戻ってきてほしいと仰っています』

「……冗談はやめてください。私は二度と戻る気なんてありません。別の方を探してください」


『日給十万円をお支払いするとのことです』

「……えっ?」

『それに、本日の給料とチップも、合わせて三百万円払うと』

「……三百、万?」


普通なら一年かけても稼げるかどうかの額だ。


今、妊娠している自分にはどうしてもお金が必要だ。

産むにしろ、諦めるにしろ。


流河が提示した大金に、鈴羽は再び迷い始めていた。


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