刹夜は突然席を立った。
「刹夜?」
「ちょっと用事がある。二人で食べててくれ」
そう言い残して、ひとり去っていく。
残されたのは、唖然とする星宮と、表情を失った花怜。
――まだ席に着いたばかりなのに?
星宮は呆然としながらも、密かにいくつもの可能性を思い描いていた。
(もしかして、気まずくてわざと席を外した…?
それとも……本当は私と二人きりになりたかったのに、徳川さんが邪魔だったとか……)
一方で、花怜の表情には見えない焦りが滲んでいた。
自分が勝手に星宮を連れてきたから、刹夜が怒ったのかもしれないと疑った。
でもなぜ怒るの?
飼っているあの女のほうがお気に入りじゃなかったっけ?
星宮とは何もないはずなのに……。
それとも、情報が間違っていたの?
刹夜が出て行った後、二人の女性はそれぞれの思惑を胸に秘めていた。
だが、次の瞬間――
「ふふっ、びっくりしたでしょ?」
徳川花怜はワイングラスを持ち上げ、取り繕うように明るく笑った。
「刹夜はいつもああなの。刹淵組みたいな大きな組織を、全部一人で切り盛りしてるんだから、忙しいのよ。私ももう慣れてる」
そう言いながら、花怜は平静を装う。
「……そうなんですね。あの、徳川さん、お二人って……いつからお付き合いされてるんですか?」
「刹夜ってね、私の幼なじみなの。物心ついたときからずっと一緒にいたわ。
私が生まれた時、刹夜のお父様が言ったの。『この子はうちの息子の嫁になる』ってね、ふふ」
花怜は紅い唇をにんまりと弧を描いて語る。
九条貴司がそう言ったのは確かだが、当時は息子の跡継ぎ争いも激しかった。
誰が最後に勝つのか、わからない状況だった。
でも、どちらが勝っても徳川花怜と結婚しなければいけない。
九条家がさらに勢力を広げるには、徳川家の財力と人脈が必要不可欠なのだ。
「そうだったんですね……」
その誇らしげな様子に、星宮の心の奥底がぎゅっと締めつけられる。
刹夜の本命になれるチャンスは、やはり小さそうだ。
徳川花怜という本物のお嬢様がいるのだから。
でも、本命になれなくても……愛人くらいなら、まだチャンスがある……。
こういう権力者の男は、ほとんどが一途じゃない。
愛人がたくさんいても不思議じゃない。
自分も刹夜の愛人になれれば、少しは優しくしてもらえるかもしれない。
そうすれば、何かしらのチャンスも広がる——今みたいに停滞したままじゃなく。
その頃――
九条刹夜は既に組織の防弾仕様の車に乗り込んでいた。
「どこにいる?」
焦る気持ちを抑えきれず尋ねる。
「百キロほど離れた温泉で有名な町です。毎年世界中から観光客が訪れる場所ですが、普段はそれほど人も多くありません。町の人口は一万人程度で……」
「要点だけ言え」
苛立ちを隠さない低音。
くだらない説明など聞きたくない。知りたいのは、彼女の消息だけだ。
「あ、はい。奥様の名前が、現地の病院の診察記録にありました。
同じ名前の人は全国にいますが、年齢と生年月日でおそらく間違いないかと」
「病院?怪我でもしたのか」
刹夜はわずかに緊張する。
あれだけ長く姿を消していた彼女が再び現れた理由が、病院の受診だったとは。
「いえ……。奥様は……ご懐妊のようでした」
「……は?」
刹夜の目が、まるで時間が止まったかのように動きを止める。
「病院の記録では、妊娠四週目とのことです」
四週目……。
刹夜は頭の中で日付を計算した。
四週間前、彼女はまだ病院で怪我を癒していた。
その時、自分は夜中にこっそり彼女のもとに通っていた。
一度だけ、彼女が自分を積極的に誘った夜があった。
小遣い目当てだと思っていたが、
まさかその夜の後で、お金を持って逃げてしまうとは思わなかった。
つまり、あの夜にできた子供なのか——間違いない。
鈴羽が妊娠したと聞いた瞬間、刹夜の胸に走ったのは、喜びとも怒りともつかない、複雑な感情だった。
たぶん、怒りがまず先にこみ上げる。
一言の挨拶もなく、自分のもとを去ったあの女。
何度も夢に出てきては、彼の心をかき乱した。
だが、その女の腹に、自分の子どもがいる――
そう思うと、不思議と胸がざわついた。
しばしの沈黙の後、平吾が恐る恐る口を開いた。
「若様、どうされます……?今すぐ奥様を迎えに――」
「……迎える?ふざけんな。あんな女、迎える資格なんてねぇよ。
連れ戻せ、力づくでいい。二度と逃げ出せないように、閉じ込めてやれ。
それと、目立つなよ」
「かしこまりました。あと、奥様と一緒にいる女の子ですが……」
「一緒に連れてこい」
刹夜はあの少女が鈴羽の弱点だと知っている。
あの子さえいれば、鈴羽は言うことを聞かざるを得ない。
「すぐに手配します」
刹夜は席に深く腰を沈め、瞳を閉じた。
逃げられてからの一ヶ月、彼はほとんど眠れていなかった。
昼は組の仕事、夜は空虚な時間。
屋敷にいる女の顔は確かに彼女と瓜二つだが、欲しいのはそういうものじゃない。
それに、薬を盛られたあの日から、彼女はもう完全に対象外だ。
一方その頃、鈴羽はぼんやりしたまま家に戻り、どうしていいかわからずにいた。
この子をどうするべきか……。
理性が言う。
――この子を産んではいけない。
もう九条刹夜と関わりたくない。
彼は今、姉と一緒にいるのだから。
でも、感情が訴える。
――この命を、自分の手で失いたくない。
「ママ」と呼んでくれる子どもがいる未来を想像してしまい、どうしても割り切れない。
今の自分には定職もなく、暮らしも安定せず、蛍の面倒も見なくてはいけない。
経済的にも到底無理な話だ。
そんなとき、電話が来た。
町に来てから使い始めた新しい番号で、大家さん名義で契約したもの。
刹夜に見つかるのを避けるための工夫だ。
この番号を知っているのは、大空とあの別荘の関係者だけ。
「はい」
『月島さん、フィエルです』
「あ、フィエルさん。どうかしましたか?」
てっきり、今日もらえなかった給料の話だと思った。
だが、次の言葉に、鈴羽は耳を疑う。
『坊ちゃまが、ぜひ戻ってきてほしいと仰っています』
「……冗談はやめてください。私は二度と戻る気なんてありません。別の方を探してください」
『日給十万円をお支払いするとのことです』
「……えっ?」
『それに、本日の給料とチップも、合わせて三百万円払うと』
「……三百、万?」
普通なら一年かけても稼げるかどうかの額だ。
今、妊娠している自分にはどうしてもお金が必要だ。
産むにしろ、諦めるにしろ。
流河が提示した大金に、鈴羽は再び迷い始めていた。