『月島さん、流河さまはあなたの料理がとてもお気に入りなんです。
ここでの仕事……確かに辛いこともあったでしょう。ですが、私たちは所詮雇われの身。理不尽なことも受け入れてこそ、続けていけるんです。
あなたも、理解できるはずです』
「……少し考えさせてください」
『わかりました。ただし明日の朝までご返答ください。それまでに連絡がなければ、別の人を雇うことになりますので。月島さん、これはそうそう巡ってこないチャンスですから、くれぐれも後悔しないように』
「……わかりました。ありがとうございます」
フィエルは鈴羽に対してあまり好意的ではなく、いつも冷たく接してくる。
それでも、鈴羽はこの電話をくれたことに感謝していた。
――お金が必要なのは事実だから。
その夕方も鈴羽は食欲がわかず、大空のパン屋を手伝いに行った。
「あれ、今日休みじゃなかったっけ?」
店主の大空が驚いたように顔を上げた。
「家にいても落ち着かなくて。妹もまだ帰ってないし……夕方って忙しいですよね、 少しだけお手伝わせていただければと」
「ほんと、いい子だねぇ、君は」
大空の言葉に、鈴羽は小さく笑って、慣れた手つきでエプロンを身につけた。
一方その頃、流河はソファに座ってイライラしていた。
「どうだった?」
「はい、連絡はしました。ただ……『考えさせてほしい』と」
流河は手元のライターを弄びながら聞いた。
「……すぐ戻れないのか」
焦りのような感情が、彼の中でじわじわと膨らんでいく。
流河自身も理由は分からないが、とにかく彼女に会いたくて仕方がなかった。
鈴羽の姿を見れば、なぜか安心できる気がした。
「はい……今夜じっくり考えるそうです。でもきっと戻ってると思いますよ。これだけの高額ですから、断る人なんていませんから」
「……もういい。下がってろ」
苛立ちを押し殺しながら、手で追い払った。
彼女が出て行ったのを確認すると、流河はすぐさま立ち上がる。
彼は結局、我慢できなかった。
まだ完治していないはずの足。
けれど、運転くらいならできる。
彼は、車庫に置かれた黄色いバラリのスポーツカーに乗り込んだ。
向かった先は、鈴羽の働くパン屋――〈大空ベーカリー〉。
彼女が昼間、そこで働いていることは知っていた。
この町にパン屋は数軒しかない。
“大空”と書かれた看板は、すぐに目についた。
車を停めると、ガラス越しに見えた。
――いた。
彼女が、働いている。
閉店間際で客も多く、彼女は忙しそうに接客していた。
「いらっしゃいませ。どの商品をお探し――」
明るい声と笑顔で顔を上げた鈴羽は、そこで――硬直した。
目の前に立っていたのは、まさかの人物だった。
銀髪に紫の瞳。少年のような中性的な顔立ち。
そして、明らかに高級ブランドで着飾った姿。
(どうして……ここに……?)
彼は普段、別荘から出ない印象だった。
インドア派というか、骨折のせいもあるのだろう。
「あ、あの……」
「どれが美味い? おすすめは?」
流河は他人のふりをして、わざとそっけない口調で言う。
視線は鈴羽を通り越し、ショーケースのパンを眺めていた。
「……甘いパンはお好きですか?」
「いや。甘いのは嫌いだ」
「……では、カレーパンは?」
「マズい。嫌い」
「抹茶のケーキなら――!」
「抹茶は苦手。青臭いし、微妙」
「ではチョコレートロールとか……」
「甘すぎる」
どれだけ勧めても、首を横に振るばかり。
(……相変わらず、ワガママ)
「それなら、クリームパンやウィンナーロール、イチオシのあんパンもございますが――」
「餃子はあるか?」
「えっ?」
思わず聞き返すと、彼は真顔だった。
鈴羽の視線が、その装いへと移る。
黒のバレンシアガのシャツ。
深いブルーのジーンズ。トレンドのダッドスニーカー。
一見普通の若者の格好だが、すべてが高級ブランド。
何より――顔がいい。
そのせいで、パンを買いに来た女性客たちが彼を遠巻きに見ていた。
「すみません……!LINEとかやられてます…?ぜひ……お友達になれたらって…!」
長いワンピースにマスク姿の女性が、勇気を振り絞って話しかけてきた。
その様子を見て、鈴羽は思わず心の中で冷や汗をかいた。
――この人の性格、普通じゃない。下手すれば、どんな反応が返ってくるか分からないのに。
……ところが。
「ごめんなさい、LINEはやってません」
流河は、思いがけないほど丁寧に、礼儀正しくその女性を断った。
そしてすぐに、鈴羽の方へ目を向ける。
「で、餃子はあるか?」
鈴羽が答える前に、パン屋の店主・大空が割って入った。
彼は目の前の客を、クレーマーか面倒な客だと思ったらしい。
「申し訳ありません、お客さま。うちはパン屋なんで、餃子は取り扱っておりません。向かいの居酒屋ならメニューにあるはずですが、営業は夜の8時以降かと」
だが、流河は大空の説明を聞くそぶりもなく、再び鈴羽をまっすぐ見つめた。
「君、いつ仕事終わる?」
「……パンが売り切れたらです」
「そっか。じゃあ――全部買う。ここにあるパン、全部包んでくれ」
その言葉に、鈴羽も大空も一瞬固まった。
「ちょ、ちょっと待ってください、お客さん……」
と慌てる大空を、流河は一瞥すらせず言い放つ。
「値段、すぐ出してくれ。無駄話はいい」
流河は太った店主には目もくれず、冷たく言い放った。
「こんなに買って、全部食べきれるんですか?」鈴羽が思わず聞く。
「修道院にでも持って行くさ」
――修道院。
その単語が出た瞬間、鈴羽の心臓が跳ねた。
(まさか……蛍ちゃんが修道院に通ってること、知ってる?)
ただの偶然か、それとも……彼が何かを掴んでいるのか。
不安を抱えたまま、目の前の男を見つめていると、彼が微笑む。
「パンは売り切れたよね?じゃあ、今度は……僕に餃子、作ってくれる?」
その無邪気とも言える視線に、鈴羽はさらに困惑した。
――どうして、この人はこんなに普通な顔をしていられるの?
あの地下室で見せた、歪んだ狂気などどこにも感じられなかった。
そのギャップが、逆に彼の本質の恐ろしさを際立たせていた。
鈴羽は仕方なく、彼の申し出を受けることにした。
幸い、パンもほとんど残っていなく、一万円ほどで全部売り切れ。
これで大空も鈴羽も早めに店じまいできた。
「鈴羽ちゃん、あの人知り合い?」
「ちょっと……ね。他のバイト先の雇い主なんです」
「そうか……。妙に危ない雰囲気の人だったからさ。気をつけてね」
店を出ると、空はすっかり夜の色に染まっていた。
そのとき、流河がスポーツカーの前に立って言う。
「乗れ。うちに来い」
「……餃子が食べたいんですよね?家に調味料を取ってくるから、帰って待っててください。すぐ行きますから」
鈴羽は落ち着いた声で言った。
「ふーん、嘘ついてないだろうな?」
その紫の瞳に浮かんだ笑みは、冗談か本気か判別できない。
「約束する。絶対行きますから」
「わかった。じゃあ後で」
彼はそう言い残し、車を発進させた。
一方の鈴羽は、自転車に乗って自宅へ戻ろうとした。
だが――
途中で、二台の黒塗りの車に道を塞がれた。
「……え?」
前方、後方、逃げ場はない。
次の瞬間、スーツ姿の男たちが車から降りてきた。
全員、黒いサングラスをかけ、無言で彼女に近づいてくる。
「な、何……!? ちょっと、やめて――!」
逃げようとした瞬間、誰かの手が彼女の口を覆った。
甘い匂いが鼻をつき、意識が遠のいていく。
(……っ)
暗闇に沈むように、鈴羽は意識を手放した。
――そして、次に目を覚ました時。
耳元で、あまりにもよく知った声が響いた。
「よくも逃げたな。今度は――どうやって罰してあげようか」