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第51話 再会


『月島さん、流河さまはあなたの料理がとてもお気に入りなんです。

 ここでの仕事……確かに辛いこともあったでしょう。ですが、私たちは所詮雇われの身。理不尽なことも受け入れてこそ、続けていけるんです。

 あなたも、理解できるはずです』


「……少し考えさせてください」


『わかりました。ただし明日の朝までご返答ください。それまでに連絡がなければ、別の人を雇うことになりますので。月島さん、これはそうそう巡ってこないチャンスですから、くれぐれも後悔しないように』


「……わかりました。ありがとうございます」


フィエルは鈴羽に対してあまり好意的ではなく、いつも冷たく接してくる。

それでも、鈴羽はこの電話をくれたことに感謝していた。


――お金が必要なのは事実だから。


その夕方も鈴羽は食欲がわかず、大空のパン屋を手伝いに行った。


「あれ、今日休みじゃなかったっけ?」


店主の大空が驚いたように顔を上げた。


「家にいても落ち着かなくて。妹もまだ帰ってないし……夕方って忙しいですよね、 少しだけお手伝わせていただければと」


「ほんと、いい子だねぇ、君は」


大空の言葉に、鈴羽は小さく笑って、慣れた手つきでエプロンを身につけた。


一方その頃、流河はソファに座ってイライラしていた。


「どうだった?」

「はい、連絡はしました。ただ……『考えさせてほしい』と」


流河は手元のライターを弄びながら聞いた。


「……すぐ戻れないのか」


焦りのような感情が、彼の中でじわじわと膨らんでいく。

流河自身も理由は分からないが、とにかく彼女に会いたくて仕方がなかった。

鈴羽の姿を見れば、なぜか安心できる気がした。


「はい……今夜じっくり考えるそうです。でもきっと戻ってると思いますよ。これだけの高額ですから、断る人なんていませんから」


「……もういい。下がってろ」


苛立ちを押し殺しながら、手で追い払った。


彼女が出て行ったのを確認すると、流河はすぐさま立ち上がる。

彼は結局、我慢できなかった。


まだ完治していないはずの足。

けれど、運転くらいならできる。


彼は、車庫に置かれた黄色いバラリのスポーツカーに乗り込んだ。

向かった先は、鈴羽の働くパン屋――〈大空ベーカリー〉。


彼女が昼間、そこで働いていることは知っていた。


この町にパン屋は数軒しかない。

“大空”と書かれた看板は、すぐに目についた。

車を停めると、ガラス越しに見えた。


――いた。

彼女が、働いている。


閉店間際で客も多く、彼女は忙しそうに接客していた。


「いらっしゃいませ。どの商品をお探し――」


明るい声と笑顔で顔を上げた鈴羽は、そこで――硬直した。


目の前に立っていたのは、まさかの人物だった。

銀髪に紫の瞳。少年のような中性的な顔立ち。

そして、明らかに高級ブランドで着飾った姿。


(どうして……ここに……?)


彼は普段、別荘から出ない印象だった。

インドア派というか、骨折のせいもあるのだろう。


「あ、あの……」

「どれが美味い? おすすめは?」


流河は他人のふりをして、わざとそっけない口調で言う。

視線は鈴羽を通り越し、ショーケースのパンを眺めていた。


「……甘いパンはお好きですか?」

「いや。甘いのは嫌いだ」

「……では、カレーパンは?」

「マズい。嫌い」

「抹茶のケーキなら――!」

「抹茶は苦手。青臭いし、微妙」

「ではチョコレートロールとか……」

「甘すぎる」


どれだけ勧めても、首を横に振るばかり。

(……相変わらず、ワガママ)


「それなら、クリームパンやウィンナーロール、イチオシのあんパンもございますが――」

「餃子はあるか?」

「えっ?」


思わず聞き返すと、彼は真顔だった。

鈴羽の視線が、その装いへと移る。


黒のバレンシアガのシャツ。

深いブルーのジーンズ。トレンドのダッドスニーカー。

一見普通の若者の格好だが、すべてが高級ブランド。


何より――顔がいい。


そのせいで、パンを買いに来た女性客たちが彼を遠巻きに見ていた。


「すみません……!LINEとかやられてます…?ぜひ……お友達になれたらって…!」


長いワンピースにマスク姿の女性が、勇気を振り絞って話しかけてきた。

その様子を見て、鈴羽は思わず心の中で冷や汗をかいた。


――この人の性格、普通じゃない。下手すれば、どんな反応が返ってくるか分からないのに。


……ところが。

「ごめんなさい、LINEはやってません」


流河は、思いがけないほど丁寧に、礼儀正しくその女性を断った。

そしてすぐに、鈴羽の方へ目を向ける。


「で、餃子はあるか?」


鈴羽が答える前に、パン屋の店主・大空が割って入った。

彼は目の前の客を、クレーマーか面倒な客だと思ったらしい。


「申し訳ありません、お客さま。うちはパン屋なんで、餃子は取り扱っておりません。向かいの居酒屋ならメニューにあるはずですが、営業は夜の8時以降かと」


だが、流河は大空の説明を聞くそぶりもなく、再び鈴羽をまっすぐ見つめた。


「君、いつ仕事終わる?」

「……パンが売り切れたらです」

「そっか。じゃあ――全部買う。ここにあるパン、全部包んでくれ」


その言葉に、鈴羽も大空も一瞬固まった。


「ちょ、ちょっと待ってください、お客さん……」

と慌てる大空を、流河は一瞥すらせず言い放つ。


「値段、すぐ出してくれ。無駄話はいい」


流河は太った店主には目もくれず、冷たく言い放った。


「こんなに買って、全部食べきれるんですか?」鈴羽が思わず聞く。

「修道院にでも持って行くさ」


――修道院。

その単語が出た瞬間、鈴羽の心臓が跳ねた。


(まさか……蛍ちゃんが修道院に通ってること、知ってる?)


ただの偶然か、それとも……彼が何かを掴んでいるのか。

不安を抱えたまま、目の前の男を見つめていると、彼が微笑む。


「パンは売り切れたよね?じゃあ、今度は……僕に餃子、作ってくれる?」


その無邪気とも言える視線に、鈴羽はさらに困惑した。

――どうして、この人はこんなに普通な顔をしていられるの?


あの地下室で見せた、歪んだ狂気などどこにも感じられなかった。

そのギャップが、逆に彼の本質の恐ろしさを際立たせていた。


鈴羽は仕方なく、彼の申し出を受けることにした。


幸い、パンもほとんど残っていなく、一万円ほどで全部売り切れ。

これで大空も鈴羽も早めに店じまいできた。


「鈴羽ちゃん、あの人知り合い?」

「ちょっと……ね。他のバイト先の雇い主なんです」

「そうか……。妙に危ない雰囲気の人だったからさ。気をつけてね」


店を出ると、空はすっかり夜の色に染まっていた。

そのとき、流河がスポーツカーの前に立って言う。


「乗れ。うちに来い」

「……餃子が食べたいんですよね?家に調味料を取ってくるから、帰って待っててください。すぐ行きますから」


鈴羽は落ち着いた声で言った。


「ふーん、嘘ついてないだろうな?」


その紫の瞳に浮かんだ笑みは、冗談か本気か判別できない。

「約束する。絶対行きますから」

「わかった。じゃあ後で」


彼はそう言い残し、車を発進させた。


一方の鈴羽は、自転車に乗って自宅へ戻ろうとした。


だが――

途中で、二台の黒塗りの車に道を塞がれた。


「……え?」


前方、後方、逃げ場はない。

次の瞬間、スーツ姿の男たちが車から降りてきた。

全員、黒いサングラスをかけ、無言で彼女に近づいてくる。


「な、何……!? ちょっと、やめて――!」


逃げようとした瞬間、誰かの手が彼女の口を覆った。

甘い匂いが鼻をつき、意識が遠のいていく。


(……っ)


暗闇に沈むように、鈴羽は意識を手放した。

――そして、次に目を覚ました時。


耳元で、あまりにもよく知った声が響いた。


「よくも逃げたな。今度は――どうやって罰してあげようか」


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