彼の顔を見た瞬間、鈴羽は夢でも見ているのかと思った。
まさか、こんな形で――何の前触れもなく、目の前に九条刹夜が現れるなんて。
一方の刹夜は、久々にその顔を間近で見て、抑えきれない興奮を覚えていた。
同じ顔なのに――月島千紗では決して得られない感情が、彼の胸の奥を激しく揺らした。
千紗は媚びる。甘える。必死で彼に取り入ろうとする。
だが、鈴羽は違った。
彼を恐れ、なだめ、時に反抗し、そして――逃げようとした。
「……口がきけなくなったのか」
苛立ち混じりの声が、部屋の静寂を切り裂いた。
鈴羽は混乱していた。頭の中が霞んでいる。
(どうして私はここに……)
必死に記憶を辿る。
――さっきまでは、確かにパン屋で働いていた。
流河が来て、パンを全部買ってくれた。
それから……彼のために餃子を作るため、家に戻ろうとして……。
(そうだ、あの時――)
黒い車。
スーツ姿の男たち。
無理やり口を塞がれて、意識が遠のいて――
九条刹夜に拉致されたのか。
……信じられなかった。
自分がいなくなれば、彼は姉と静かに暮らせるはずだった。
もしくは徳川のお嬢さんとデートでもしていると思っていた。
なんで自分を……。
「どうして……」鈴羽がかすれた声で問いかける。
だが、刹夜の顔がさらに歪んだ。
彼女の口から出た最初の言葉がそれだったから。
まさか、まだ逃げる気か。
「……は? お前まだ逃げ切れると思ってんのか。てめぇ、刹淵組がどんな組織か分かってねぇな」
怒りを押し殺すような声で、彼は冷たく言い放った。
鈴羽は黙った。
彼が探そうと思えば、本気を出せば、彼女を見つけるのは時間の問題だった。
ただ、彼が公には動けなかっただけ。
鈴羽が“月島千紗の双子”であることは、誰にも知られたくない。
父にも、徳川家にも、刹夜を狙う仇にも。
だからこそ、隠密に動く必要があったのだ。
もし鈴羽が妊娠して病院に行かなければ、もっと見つけるのは遅くなっていただろう。
「マジで、バラして海に沈めてぇわ。
ウチにいりゃ、衣食住困ることもねぇ。怪我すりゃ治療も受けられる。それでも逃げたな……。
チッ、ふざけんな。てめぇみたいな女があの暮らしできること自体奇跡なんだよ!
……なんで逃げた?何が不満だったんだ?あぁ?」
刹夜の怒りの中には、深い裏切られたという傷があった。
病院で鈴羽とほんの一時、甘い時間を過ごしたばかりだったのに。
その余韻に浸る間もなく、鈴羽は彼を裏切った。
金をせがみ、それを持って逃げた。
これより許せないことがあるだろうか。
妊娠していなければ、思い切りぶってやりたい気分だった。
だが――
「それが……あなたにとってのいい生活なのね」
鈴羽は静かに――だが確かに、反論した。
「……は?」
「あなたはいい生活だと思ってるかもしれない。でも、私がそれを望んでいるかどうか、聞いたことあるの?
……確かに私は貧乏だけど、自由くらいは欲しかった。
この一年、私はどこにも行けなかった。
屋敷から一歩も出られない生活に、私は友達も、居場所もなかった。
あなたがくれたという贅沢は、私には価値がない。」
その言葉に、刹夜の顔色が一気に変わる。
彼の完璧な支配を、鈴羽は真っ向から否定したのだ。
「確かに、入院費はあなたが払ってくれた。でも……」
鈴羽はゆっくりと目を上げ、刹夜を見据えた。
「私が怪我したのって、あなたが私をあの場所に送ったからでしょ?
だからあの変態に狙われて――だから傷ついたのよ。」
原因を作ったのは、あなた。……それを、よくも恩みたいに言えるわね」
「恩?」九条刹夜の眉がピクリと動く。
「いいか、九条刹夜。あなたのそばにいたこの一年、幸せだったことなんて一度もなかった。
むしろ、逃げていた間のほうがずっと充実してた。
安い服を着て、小さな部屋に暮らして、昼も夜も働きづめだったけど――
それでも、私は自分の足で立って、生きていた。
誰かの気まぐれで抱かれる人形でも、欲望処理の道具でもなくて、
ちゃんと“人間”として。
……私は、幸せだった。
なのに、あなたはなぜ私をまた、こんなふうに……。
あなたにはもう姉さんがいるじゃない。徳川のお嬢様もいる。
なのに、どうしてまた私なの……。
お願いだから、私を放して。
私はただのネズミでいいの。金の鳥籠なんか、いらないの……」
鈴羽は自分が捕まったことを理解し、心の底から絶望していた。
確かに、過去の一年間は彼に好意を持っていた。
でも今は――
姉が帰ってきて、徳川家のお嬢さんもいる。
自分は何?
ただのラブドール? 欲望のはけ口?
それとも閉じ込められて飼われるだけのペット?
どんなに高級な服や宝石、バッグをもらっても、
自分には似合わないと分かっている。
自分はただの小さな存在。
人混みに紛れる一粒の埃。
どこかで静かに生きていられればそれでいい。
ヤクザの若頭に飼われるカナリアなんて、絶対に嫌だ。
「やるじゃねえか、鈴羽。
俺に向かって、そんな口を利くとは……死にてぇのか?」
彼は大きな手で鈴羽の首を掴んだ。
だが、その手に力はなかった。
ただそっと――
まるで確かめるように、彼女の肌に触れていただけだった。
この感触は不思議だ。
流河に触れられた時は、確かに吐き気がした。
でも、刹夜の手がどれだけ近く肌に触れても、全く吐き気はしない。
……もしかして、お腹の子が、父親を拒まないからだろうか。
ぼんやりと、そんなことを考えてしまう。
「ぼーっとするな。俺の目を見ろ!」
刹夜は鈴羽の顎を乱暴に掴み、強引に顔を上げさせた。
「怖くねぇのか? 今ここで、俺に殺されるかもしれねぇって」
「好きにどうぞ」
どうせ捕まった時点で、命も何も、この男の一言次第だ。
その言葉に、刹夜の眉がピクリと動いた。
「……俺に言いたいことはねぇのか」
一瞬、鈴羽の心に妊娠のことが浮かんだ。
けれど――彼女は黙った。
この子のことも、もう残したくない。
むしろ、刹夜にボコボコにされて、そのまま流産してしまえばいい、そう思った。
「……何黙ってる。他の男のことでも考えてるのか?
俺を捨てて逃げたくせに……もう誰かの女になったのか。月島鈴羽、やっぱりお前は最低のクズだな」
刹夜は怒りを抑えきれず、皮肉を言わずにはいられなかった。
自分はヤクザの王。
なのに、この女の前ではどうしようもなく動揺させられる……。
「そうだね、私はクズよ。汚れてるし、下品で、価値なんてない。
だから、早く殺しなさいよ」
「てめぇ……」
刹夜が言葉を飲み込む。
そして――
「……あのガキがどうなっても構わねぇのか」
その言葉に、鈴羽の唇がわずかに震えた。
でも、すぐに静かに言い返す。
「どうせ私が死ぬなら、もうどうでもいい。地獄でも天国でも、一緒に落ちるだけ。案外悪くないかも」
「――貴様……本当に、俺が手を出さねえと思ってんのか……!」
刹夜の理性がぷつんと切れた。
獣のような声が、部屋を満たす。
刹夜は鈴羽の首筋に顔を埋め――そのまま、噛みついた。
強く、深く、まるで獲物を喰らうように。
激情に飲み込まれたその瞳に、もはや理性の色はなかった――。