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第52話 沈黙


彼の顔を見た瞬間、鈴羽は夢でも見ているのかと思った。

まさか、こんな形で――何の前触れもなく、目の前に九条刹夜が現れるなんて。


一方の刹夜は、久々にその顔を間近で見て、抑えきれない興奮を覚えていた。

同じ顔なのに――月島千紗では決して得られない感情が、彼の胸の奥を激しく揺らした。


千紗は媚びる。甘える。必死で彼に取り入ろうとする。


だが、鈴羽は違った。

彼を恐れ、なだめ、時に反抗し、そして――逃げようとした。


「……口がきけなくなったのか」


苛立ち混じりの声が、部屋の静寂を切り裂いた。

鈴羽は混乱していた。頭の中が霞んでいる。


(どうして私はここに……)

必死に記憶を辿る。


――さっきまでは、確かにパン屋で働いていた。

流河が来て、パンを全部買ってくれた。

それから……彼のために餃子を作るため、家に戻ろうとして……。


(そうだ、あの時――)


黒い車。

スーツ姿の男たち。

無理やり口を塞がれて、意識が遠のいて――


九条刹夜に拉致されたのか。

……信じられなかった。


自分がいなくなれば、彼は姉と静かに暮らせるはずだった。

もしくは徳川のお嬢さんとデートでもしていると思っていた。

なんで自分を……。


「どうして……」鈴羽がかすれた声で問いかける。


だが、刹夜の顔がさらに歪んだ。

彼女の口から出た最初の言葉がそれだったから。


まさか、まだ逃げる気か。


「……は? お前まだ逃げ切れると思ってんのか。てめぇ、刹淵組がどんな組織か分かってねぇな」


怒りを押し殺すような声で、彼は冷たく言い放った。

鈴羽は黙った。


彼が探そうと思えば、本気を出せば、彼女を見つけるのは時間の問題だった。

ただ、彼が公には動けなかっただけ。


鈴羽が“月島千紗の双子”であることは、誰にも知られたくない。


父にも、徳川家にも、刹夜を狙う仇にも。

だからこそ、隠密に動く必要があったのだ。


もし鈴羽が妊娠して病院に行かなければ、もっと見つけるのは遅くなっていただろう。


「マジで、バラして海に沈めてぇわ。

ウチにいりゃ、衣食住困ることもねぇ。怪我すりゃ治療も受けられる。それでも逃げたな……。


チッ、ふざけんな。てめぇみたいな女があの暮らしできること自体奇跡なんだよ!

……なんで逃げた?何が不満だったんだ?あぁ?」


刹夜の怒りの中には、深い裏切られたという傷があった。


病院で鈴羽とほんの一時、甘い時間を過ごしたばかりだったのに。

その余韻に浸る間もなく、鈴羽は彼を裏切った。


金をせがみ、それを持って逃げた。

これより許せないことがあるだろうか。


妊娠していなければ、思い切りぶってやりたい気分だった。


だが――


「それが……あなたにとってのいい生活なのね」


鈴羽は静かに――だが確かに、反論した。


「……は?」

「あなたはいい生活だと思ってるかもしれない。でも、私がそれを望んでいるかどうか、聞いたことあるの?

……確かに私は貧乏だけど、自由くらいは欲しかった。


この一年、私はどこにも行けなかった。

屋敷から一歩も出られない生活に、私は友達も、居場所もなかった。

あなたがくれたという贅沢は、私には価値がない。」


その言葉に、刹夜の顔色が一気に変わる。

彼の完璧な支配を、鈴羽は真っ向から否定したのだ。


「確かに、入院費はあなたが払ってくれた。でも……」


鈴羽はゆっくりと目を上げ、刹夜を見据えた。


「私が怪我したのって、あなたが私をあの場所に送ったからでしょ?

だからあの変態に狙われて――だから傷ついたのよ。」

原因を作ったのは、あなた。……それを、よくも恩みたいに言えるわね」


「恩?」九条刹夜の眉がピクリと動く。


「いいか、九条刹夜。あなたのそばにいたこの一年、幸せだったことなんて一度もなかった。

むしろ、逃げていた間のほうがずっと充実してた。

安い服を着て、小さな部屋に暮らして、昼も夜も働きづめだったけど――

それでも、私は自分の足で立って、生きていた。


誰かの気まぐれで抱かれる人形でも、欲望処理の道具でもなくて、

ちゃんと“人間”として。


……私は、幸せだった。


なのに、あなたはなぜ私をまた、こんなふうに……。

あなたにはもう姉さんがいるじゃない。徳川のお嬢様もいる。

なのに、どうしてまた私なの……。


お願いだから、私を放して。

私はただのネズミでいいの。金の鳥籠なんか、いらないの……」


鈴羽は自分が捕まったことを理解し、心の底から絶望していた。


確かに、過去の一年間は彼に好意を持っていた。


でも今は――

姉が帰ってきて、徳川家のお嬢さんもいる。


自分は何? 

ただのラブドール? 欲望のはけ口? 

それとも閉じ込められて飼われるだけのペット?


どんなに高級な服や宝石、バッグをもらっても、

自分には似合わないと分かっている。


自分はただの小さな存在。

人混みに紛れる一粒の埃。

どこかで静かに生きていられればそれでいい。


ヤクザの若頭に飼われるカナリアなんて、絶対に嫌だ。


「やるじゃねえか、鈴羽。

俺に向かって、そんな口を利くとは……死にてぇのか?」


彼は大きな手で鈴羽の首を掴んだ。

だが、その手に力はなかった。


ただそっと――

まるで確かめるように、彼女の肌に触れていただけだった。


この感触は不思議だ。


流河に触れられた時は、確かに吐き気がした。

でも、刹夜の手がどれだけ近く肌に触れても、全く吐き気はしない。


……もしかして、お腹の子が、父親を拒まないからだろうか。

ぼんやりと、そんなことを考えてしまう。


「ぼーっとするな。俺の目を見ろ!」


刹夜は鈴羽の顎を乱暴に掴み、強引に顔を上げさせた。


「怖くねぇのか? 今ここで、俺に殺されるかもしれねぇって」

「好きにどうぞ」


どうせ捕まった時点で、命も何も、この男の一言次第だ。


その言葉に、刹夜の眉がピクリと動いた。


「……俺に言いたいことはねぇのか」


一瞬、鈴羽の心に妊娠のことが浮かんだ。

けれど――彼女は黙った。


この子のことも、もう残したくない。

むしろ、刹夜にボコボコにされて、そのまま流産してしまえばいい、そう思った。


「……何黙ってる。他の男のことでも考えてるのか?

俺を捨てて逃げたくせに……もう誰かの女になったのか。月島鈴羽、やっぱりお前は最低のクズだな」


刹夜は怒りを抑えきれず、皮肉を言わずにはいられなかった。


自分はヤクザの王。

なのに、この女の前ではどうしようもなく動揺させられる……。


「そうだね、私はクズよ。汚れてるし、下品で、価値なんてない。

だから、早く殺しなさいよ」


「てめぇ……」


刹夜が言葉を飲み込む。

そして――

「……あのガキがどうなっても構わねぇのか」


その言葉に、鈴羽の唇がわずかに震えた。

でも、すぐに静かに言い返す。


「どうせ私が死ぬなら、もうどうでもいい。地獄でも天国でも、一緒に落ちるだけ。案外悪くないかも」


「――貴様……本当に、俺が手を出さねえと思ってんのか……!」


刹夜の理性がぷつんと切れた。


獣のような声が、部屋を満たす。

刹夜は鈴羽の首筋に顔を埋め――そのまま、噛みついた。


強く、深く、まるで獲物を喰らうように。

激情に飲み込まれたその瞳に、もはや理性の色はなかった――。


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