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第53話 檻


「出すと思ってるよ。だってあなたが惜しむのは姉さんだけでしょ。私に対してはいつだって容赦なかったんだから」


言いながら、鈴羽の声はかすかに震えていた。

心の中には言い表せないほどの理不尽さが溢れていた。


――逃げた先の町で、やっと手にした普通の暮らし。

それすらも、あっけなく壊された。


もう一度、逃げるのは――

たぶん、無理だ。

死ぬ以外に道はないのかもしれない。


絶望が、鈴羽の胸に静かに広がっていった。

思い出されるのは、ささやかな日々。


温かい笑顔で迎えてくれた大家の老夫婦。

優しいシスターたちがいる修道院。

太っちょのパン屋、大空さん。


……そして、金払いはいいけどちょっとヤバいあの病み系御曹司。


思い返せば、最後に約束してくれた給料もまだもらっていない。

彼女はそれが悔やまれた。


もしあの時……

調味料を取りに帰らず、あのまま別荘に向かっていれば――

神楽坂家の敷地内なら、さすがに無理やり手出しできなかったかもしれない。


神楽坂家だって、簡単に手を出せる相手じゃないのだから。


でも今さら悔やんでも遅い。

全てが手遅れだった。


刹夜は、もともと鈴羽にしばらく苦い思いをさせてやろうと思っていた。

だが、彼女の目尻に涙を見て、一瞬だけ心が揺らいだ。


彼は立ち上がり、襟元を整える。


「……もうここに大人しくいろ。ここがお前のために造った特注の檻だ。

もう二度と、俺を裏切らせねぇから」


そう言って、ドアへと向かう刹夜。

ふと何か思い出したように立ち止まった。


「そうだ。あのガキも連れて来てやった。殺しはしない。


お前が大人しくしていれば、ちゃんと貴族学校に通わせて、良いもん食わせて、良い部屋に住まわせてやる。


だが、もしまた逃げようとしたら――

そのガキをアイツの父親のもとに返す」


鈴羽は慌てて叫んだ。


「やめて……お願い、あの子だけは……蛍ちゃんをあの人の所に返さないで……!」

「だったらおとなしくしていろ」


そう言い残し、彼は部屋を出ていった。



「奥様、今夜の夜食は何になさいますか?」


黒岩平吾が尋ねる。


「……いりません、食欲がなくて……ありがとう」

鈴羽は小さく首を振った。


一方――

夜の11時。


町の別荘で、流河は一人テーブルに肘をついて待っていた。

約束の時間から、もう五時間も遅れている。


彼は一口も食べていない。

空腹が苛立ちを増幅させていた。


「坊ちゃま。住处に行ってみましたが……月島さん、いませんでした。

大家さんの話では、姉妹どちらも今日は戻っていないそうです。妹も姿が見えないと……」


その報告に、流河の目がすっと細くなる。


「……つまり、逃げたのか?俺を避けて、この町を出たんだな……」


「それはないと思います。大家さんは、二人の生活用品が全て残っていると言っていました。自ら出て行くなら、さすがにそれくらいは持ち出すはずです」


「……とにかく探せ。町中全部だ」


流河は、欲しいものを必ず手に入れられないと異常なほど執着するタイプだった。

というか、手に入らないものほど欲しくなる。


子供の頃から望むものは全て手に入れてきた彼にとって、この敗北感は耐え難い。


しかも彼は約束を破られるのが何よりも嫌いだ。

鈴羽はわざと避けていないといいだけど、とフィエルは密かに思った。




その頃、鈴羽を連れ戻した九条刹夜の機嫌は明らかに良くなっていた。

運転手や平吾たちも、やっと安堵の息をつく。


(あの地獄のような数週間……もう勘弁してくれ)



九条家・本邸。


いつものように、夜の食卓には貴司、水穂、そして和枝が揃っている。


豪華なディナーが並ぶ長いテーブル。

しかし、誰一人、食事には集中していなかった。


「そういえば、花怜ちゃんがお前に高級腕時計を贈ったって聞いた。一億円以上のものだったとか?」


九条貴司がさりげなく話を振った。


「……ああ、そんなのあったっけ」


鈴羽のことを知ってからは、他のことなどどうでもよくなり、気にも留めなかった。


「あら、そんなに高いのを?」と和枝が口を挟む。


貴司がちらりと息子を見て、意味ありげに言った。


「花怜ちゃんはお前にはずいぶん尽くしてるじゃないか。お前も、ちゃんと応えてやれよ」


刹夜は答えない。沈黙が場を重くする。

すると、実母の水穂が気まずさを和らげようと口を開いた。


「刹夜、贈り物を貰ったならちゃんとお返ししなきゃね。花怜ちゃんには何を贈るつもり?」


「知らない。女にプレゼントなんてよく分からん。……君が選べばいいよ」


刹夜はあっさりと責任を丸投げした。

水穂はため息まじりに頷く。


「分かったわ。明日デパートでも見てくる」

だが、ここで会話の雰囲気が再び冷たくなる。


「あの屋敷にいる女、いつまで置いておくつもりだ?」


貴司の問いかけに、刹夜の顔がさっと険しくなる。


「……アイツと何の関係がある」

「花怜ちゃんの父が言ってた。あの女のことを良く思ってないそうだ」

「……昔、俺も母さんも和枝さんのことが嫌いだった。でも父さんはそれでも彼女を家に入れて、子供まで作ったよな?」


その発言に、水穂と和枝、両者の顔が一気に強張った。

貴司の手がテーブルを叩いた、音が重く響く。


「……お前、まさか自分を俺と比べてるのか!?

俺がここまで来るのに、どれだけ血を流し、どれだけ苦労したと思ってる!

お前が俺と肩を並べるのは、まだ十年早い」



吐き捨てるように言い残して、貴司は席を立った。

続いて、和枝も嫌味っぽく言いながら立ち上がる。


「たまに帰ってきたと思ったら、親を怒らせて……あなたも大人になりなさいな。

 あなたのお父様の心臓が弱ってること、分かってるでしょうに、もう…。」


彼女も食卓を離れた。

水穂は残っていたが、やや呆れた表情で息子を見つめていた。


「せっかくの食事だったのに、どうして余計なことを言うの?」

「……先に仕掛けてきたのは向こう」


刹夜はあくまで冷静に、お茶をひと口。


「あの女、そこまで大事なの?」


水穂には、その女のどこが良いのか理解できなかった。

――見た目だけは整ってるけど、品がない。

金に目がくらみ、媚びるばかり。

とても正妻には相応しくない。


なぜあんな俗っぽい女を、ツンツンしてる息子が気に入るのか理解できなかった。


「……大事かどうかは関係ない。母さんだって、父さんが何人も女を作ったときは許してきたのに、今さら俺の女に口出しする理由なんてある?」


その返しに、水穂は何も言い返せなかった。


結局、この日の夕食も決して和やかとは言えない雰囲気のまま終わった。


だが――

平吾には分かった。

九条刹夜本人の機嫌だけは、妙に良かったのだ。



その夜。

刹夜は自ら、一番街の視察へ向かった。

ふだんは人に任せるのに、今日は自分で足を運ぶ。


「……今日、なんか良いことでも?」


管理人が平吾に小声で尋ねるが、

平吾は何も言わなかった。


奥様が戻ったのは確かだが、今もなお閉じ込められている。

二人の関係は、もう彼にも分からなくなっていた。


深夜。

鈴羽はベッドでうとうとしていた。

――誰かの気配を感じて、目を開ける。


「……ちょっと、触らないで…。今はダメ……」


彼女は刹夜がそういうことをしに来たのかと思い、曖昧な口調で牽制した。


刹夜はくすっと笑った。


「ダメって、何がダメなんだ?」

「……生理中だから」


鈴羽は思わず嘘をついた。


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