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第54話 あの男が死んだ


「……ほぅ、生理中?本当か?」


刹夜が眉をひそめて尋ねる。

あきらかに、鈴羽の嘘を疑っている様子だった。


妊娠している女が、生理なんて来るはずがない。


「……と、とにかく今は無理なの。触らないで」


鈴羽はぷいっと顔を背けて言った。


「なるほど?じゃあ触らねぇ」


口ではそう言いながら――

彼はあっさりとその言葉を裏切り、恥知らずにも彼女の首筋に顔を近づけてきた。


ふっと漏れる熱い吐息。

その曖昧でくすぐったい空気に、鈴羽は思わず体を強張らせる。


彼はまるで病みつきのように、彼女の香りを貪るように吸い込んだ。


――不思議だ。

最初は、化粧品か香水の匂いだと思っていた。


けれど鈴羽は、スキンケアも香水も、一切使っていないと後で知った。


すべての女がこの香りを持っているのかと考えたこともあった。


だが――違った。

月島千紗にはない。徳川花怜にもなかった。


あるのは鈴羽だけ。


つまり、これは伝説の“フェロモン”というやつか?


……もしかして、自分が彼女の体にそれほど執着してしまうのも、この説明のつかない香りのせいなのかも。


いや、正直、彼自身にもよく分からなかった。


ただひとつ、はっきりしているのは――

目の前のこの女に夢中になっている自分が、確かにいること。


そして鈴羽が、また彼が暴走するのではと警戒したそのとき――

彼は、そのまま眠ってしまった。


規則的な呼吸が、彼女の耳元で静かに聞こえてくる。

鈴羽は目の端でちらりと確認し、驚いた。


……本当に、寝ている。


「はぁ……」


鈴羽は小さくため息をつき、寝ている男の体を押して離そうとした。

だけど、びくともしない。


力を込めて押せば、きっと目を覚ましてしまう。

静まり返った夜の中、鈴羽は再び深く息を吐いた。


――結局、捕まってしまったんだな、私。


心残りなのは、あの大家さんにちゃんとお礼も言えなかったこと。

大空にも、ちゃんとサヨナラできなかった。

みんな、自分を助けてくれた人たちだったのに。


……まぁ、あの別荘の男のことはもう考えたくもないのに。

あの仕事に就いたのは、高額の給料に釣られたからに過ぎない。

それ以上の関係なんて、まっぴらごめんだった。


だって彼女は確信していた――

上流階級の御曹司なんて、みんなどこか歪んでる。


彼らは遊び尽くしてきて、あらゆる女を見てきて。

金と権力で、欲しい女はなんでも手に入ると思っている。


だから、女性を大切……

いや、女性を人間として扱うこともなくなったのだろう。


彼らの辞書には、女は“金さえあれば寄ってくるもの”とでも書いてあるのに違いない。


――そんな価値観、最低。


鈴羽は心からそう思っていた。

きらびやかなセレブ生活なんて、羨ましくもなかったし、

金持ちの息子たちの“おもちゃ”になるなんて、絶対に嫌。


だけど、九条刹夜は――

彼だけは流河たちと違う気がする。


どこがどう違うのか、うまく言葉にできないのだけれど。

心の中で、彼らの間に線を引いていた。


鈴羽は、そっと自分のお腹に手を当てた。

この中に、小さな命が宿っている。


もし――あの時、姉が戻って来なかったら。

もし、まだあの屋敷にいたままだったら。


刹夜は、この子を認めてくれただろうか。

この子のために、ちゃんとした家庭を築いてくれただろうか。


鈴羽は、愛に飢えたまま大人になった。

だからこそ、自分の子どもには絶対に寂しい思いをさせたくない。


……でも、今の関係じゃ、それは無理だ。

彼女の立場は、とても口にできないほど惨めで恥ずかしい。

まるで、秘密裏に囲われた愛人みたいに。


日陰者で、誰にも知られちゃいけない存在。


姉こそが、彼が愛する女。

徳川のお嬢様こそが、誰に紹介しても恥ずかしくない彼の堂々たる婚約者。


……そんな状況で、子どもなんて、産まない方がいい。


でも、もう――逃げ場はない。

外にも出られない。

病院に行って中絶するなんて、不可能に近い。


自分で……なんとかするしかない。


けれど――

自分の手で、この小さな命を奪うなんて。

考えただけで、胸が苦しくなる。


自分の血を引いた、かけがえのない命なのに。



翌朝――

鈴羽が目を覚ましたとき、刹夜の姿はすでになかった。


彼女はいまも、刹淵組の裏通りにある古びたビルの最上階――その一室に閉じ込められていた。


外から見ると廃屋のようにボロボロだが、内装はしっかりリフォームされており、清潔で整っている。


……けれど、この部屋がどれほど広いのか、鈴羽には分からない。


なぜなら、彼女の足には――

鎖がつながれていたからだ。


そう、目が覚めると、足首に重たい鎖が。


しかも、その鎖は見たところ金製。

冗談のような話だが、ずっしりと重く、頑丈で外れそうにない。


――鍵はきっと、九条刹夜が持っている。

二度と逃げられないように。


まるで犯罪者のように、閉じ込められ、つながれている。


……なるほど。

九条刹夜が言っていた“お前専用の檻”とは、このことだったのか。


やがて朝になり、食事を運んできた女性が現れる。


「……あの、お願いがあります。シャワーを浴びたいんですが、これ、外してもらえませんか……?」


鈴羽はおそるおそる、配膳に来た中年の女性に声をかけた。


しかし――

女性は、どこか怯えたような目で手話を打った。


喋れない人だった。


九条刹夜の用心深さが伺える。


鈴羽の願いを聞いても、女性は何度も首を横に振り、鎖は開けられないと手話で伝えてきた。

「どうしてもシャワーを浴びたいなら、自分が手伝う」と。


――なんなのそれ……。


鈴羽は深く息を吸い、そして、目の奥がじわりと熱くなるのを感じた。

自分は別に体が不自由なわけじゃない。

なのに、食事もお風呂も、何もかも人の手を借りなきゃいけない。


彼女は、普通の健康な人間なのに――

ちゃんとした大人なのに。


九条刹夜は、まさかこのまま一生自分を監禁し続けるつもりなのだろうか。



一方その頃――刹淵組の本部では。

……といっても、鈴羽が囚われている建物とは、たった壁一枚隔てた距離だった。


「若様……」


黒岩平吾が沈痛な面持ちで部屋に入る。


「……大変な報せが入りました。砂川さんが……殺されました」


ソファに寄りかかったままの九条刹夜は、微動だにしない。

驚いた様子すらない。


「ベトナムで、女と遊んでる最中だったそうです」


平吾は淡々と続けた。


「女殺し屋が売春婦に成りすまして、ベッドに入った瞬間……喉を一突き。即死でした。犯人はそのまま逃走。

砂川の兄が激怒して、闇サイトで懸賞金を出しています」


それでも、刹夜は沈黙を守る。

その様子に、平吾の胸にざわりと不安がよぎった。


「若……これってもしかして……」


言い終える前に――

刹夜の鋭い視線が、彼に突き刺さった。

殺意すら含んだ瞳。


平吾は慌てて口を閉ざす。

けれどその心臓は、どくん、と大きく脈打っていた。


この様子じゃ、やったのは彼に違いない。


だが、問題はそこではない。

ゴールデントライアングルは刹淵組にとって、大切な取引先だった。

なぜ殺す必要があったのか。


答えは、ひとつしか思い当たらない。


砂川はこの間、あの歓楽街でもう少しで奥様を殺しかけたこと。

つまり、あの若が命がけで連れ戻した女だ。


「殺してやる」――そう言っていたのに、

いざ戻ってきた彼女には、一指も触れていない。


平吾は怖くなった。

砂川が死んだことではない。


この件が、組長――九条刹夜の父親にバレたらどうなるか。

若も、あの女も……きっと無事では済まない。



砂川の死は、すぐさま裏社会に知れ渡った。

闇ルートでは誰もがその名を口にし、追悼に訪れる者も少なくなかった。


その日の午後。

刹夜は貴司とともにお茶を囲んでいた。


「……刹夜。砂川が死んだそうだな、知ってるか」

「ああ、聞いてました」


彼は他人事のように、動じる様子もない。


「ゴールデントライアングルの人間だってのに……どこのバカがそんな真似を。

殺した女の素性、分かったか?」


九条刹夜は茶をすすりながら、「分かりません」とだけ返した。


「アイツが死んで、兄の砂川彰もきっと怒り狂ってるだろうな。


 ……そうだな、我々の誠意として、お前が何人か連れて三角地帯へ行け。


 葬儀に出て、顔を見せてこい。……刹淵組の立場としても、礼を欠くわけにはいかん。

 韓国も台湾の組も揃って行くそうだ」


「俺が行く必要あります?」


刹夜は、砂川一人死んだくらいで、と思っている。


「取引を続けるには、姿勢を見せることも大事だ。俺は徳川さんと共同案件で忙しいんだ。

 数日で戻れるだろう。退屈なら花怜ちゃんでも連れて行け。いずれはお前の嫁になるんだしな」


九条貴司は、そう提案した。


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