「……ほぅ、生理中?本当か?」
刹夜が眉をひそめて尋ねる。
あきらかに、鈴羽の嘘を疑っている様子だった。
妊娠している女が、生理なんて来るはずがない。
「……と、とにかく今は無理なの。触らないで」
鈴羽はぷいっと顔を背けて言った。
「なるほど?じゃあ触らねぇ」
口ではそう言いながら――
彼はあっさりとその言葉を裏切り、恥知らずにも彼女の首筋に顔を近づけてきた。
ふっと漏れる熱い吐息。
その曖昧でくすぐったい空気に、鈴羽は思わず体を強張らせる。
彼はまるで病みつきのように、彼女の香りを貪るように吸い込んだ。
――不思議だ。
最初は、化粧品か香水の匂いだと思っていた。
けれど鈴羽は、スキンケアも香水も、一切使っていないと後で知った。
すべての女がこの香りを持っているのかと考えたこともあった。
だが――違った。
月島千紗にはない。徳川花怜にもなかった。
あるのは鈴羽だけ。
つまり、これは伝説の“フェロモン”というやつか?
……もしかして、自分が彼女の体にそれほど執着してしまうのも、この説明のつかない香りのせいなのかも。
いや、正直、彼自身にもよく分からなかった。
ただひとつ、はっきりしているのは――
目の前のこの女に夢中になっている自分が、確かにいること。
そして鈴羽が、また彼が暴走するのではと警戒したそのとき――
彼は、そのまま眠ってしまった。
規則的な呼吸が、彼女の耳元で静かに聞こえてくる。
鈴羽は目の端でちらりと確認し、驚いた。
……本当に、寝ている。
「はぁ……」
鈴羽は小さくため息をつき、寝ている男の体を押して離そうとした。
だけど、びくともしない。
力を込めて押せば、きっと目を覚ましてしまう。
静まり返った夜の中、鈴羽は再び深く息を吐いた。
――結局、捕まってしまったんだな、私。
心残りなのは、あの大家さんにちゃんとお礼も言えなかったこと。
大空にも、ちゃんとサヨナラできなかった。
みんな、自分を助けてくれた人たちだったのに。
……まぁ、あの別荘の男のことはもう考えたくもないのに。
あの仕事に就いたのは、高額の給料に釣られたからに過ぎない。
それ以上の関係なんて、まっぴらごめんだった。
だって彼女は確信していた――
上流階級の御曹司なんて、みんなどこか歪んでる。
彼らは遊び尽くしてきて、あらゆる女を見てきて。
金と権力で、欲しい女はなんでも手に入ると思っている。
だから、女性を大切……
いや、女性を人間として扱うこともなくなったのだろう。
彼らの辞書には、女は“金さえあれば寄ってくるもの”とでも書いてあるのに違いない。
――そんな価値観、最低。
鈴羽は心からそう思っていた。
きらびやかなセレブ生活なんて、羨ましくもなかったし、
金持ちの息子たちの“おもちゃ”になるなんて、絶対に嫌。
だけど、九条刹夜は――
彼だけは流河たちと違う気がする。
どこがどう違うのか、うまく言葉にできないのだけれど。
心の中で、彼らの間に線を引いていた。
鈴羽は、そっと自分のお腹に手を当てた。
この中に、小さな命が宿っている。
もし――あの時、姉が戻って来なかったら。
もし、まだあの屋敷にいたままだったら。
刹夜は、この子を認めてくれただろうか。
この子のために、ちゃんとした家庭を築いてくれただろうか。
鈴羽は、愛に飢えたまま大人になった。
だからこそ、自分の子どもには絶対に寂しい思いをさせたくない。
……でも、今の関係じゃ、それは無理だ。
彼女の立場は、とても口にできないほど惨めで恥ずかしい。
まるで、秘密裏に囲われた愛人みたいに。
日陰者で、誰にも知られちゃいけない存在。
姉こそが、彼が愛する女。
徳川のお嬢様こそが、誰に紹介しても恥ずかしくない彼の堂々たる婚約者。
……そんな状況で、子どもなんて、産まない方がいい。
でも、もう――逃げ場はない。
外にも出られない。
病院に行って中絶するなんて、不可能に近い。
自分で……なんとかするしかない。
けれど――
自分の手で、この小さな命を奪うなんて。
考えただけで、胸が苦しくなる。
自分の血を引いた、かけがえのない命なのに。
翌朝――
鈴羽が目を覚ましたとき、刹夜の姿はすでになかった。
彼女はいまも、刹淵組の裏通りにある古びたビルの最上階――その一室に閉じ込められていた。
外から見ると廃屋のようにボロボロだが、内装はしっかりリフォームされており、清潔で整っている。
……けれど、この部屋がどれほど広いのか、鈴羽には分からない。
なぜなら、彼女の足には――
鎖がつながれていたからだ。
そう、目が覚めると、足首に重たい鎖が。
しかも、その鎖は見たところ金製。
冗談のような話だが、ずっしりと重く、頑丈で外れそうにない。
――鍵はきっと、九条刹夜が持っている。
二度と逃げられないように。
まるで犯罪者のように、閉じ込められ、つながれている。
……なるほど。
九条刹夜が言っていた“お前専用の檻”とは、このことだったのか。
やがて朝になり、食事を運んできた女性が現れる。
「……あの、お願いがあります。シャワーを浴びたいんですが、これ、外してもらえませんか……?」
鈴羽はおそるおそる、配膳に来た中年の女性に声をかけた。
しかし――
女性は、どこか怯えたような目で手話を打った。
喋れない人だった。
九条刹夜の用心深さが伺える。
鈴羽の願いを聞いても、女性は何度も首を横に振り、鎖は開けられないと手話で伝えてきた。
「どうしてもシャワーを浴びたいなら、自分が手伝う」と。
――なんなのそれ……。
鈴羽は深く息を吸い、そして、目の奥がじわりと熱くなるのを感じた。
自分は別に体が不自由なわけじゃない。
なのに、食事もお風呂も、何もかも人の手を借りなきゃいけない。
彼女は、普通の健康な人間なのに――
ちゃんとした大人なのに。
九条刹夜は、まさかこのまま一生自分を監禁し続けるつもりなのだろうか。
一方その頃――刹淵組の本部では。
……といっても、鈴羽が囚われている建物とは、たった壁一枚隔てた距離だった。
「若様……」
黒岩平吾が沈痛な面持ちで部屋に入る。
「……大変な報せが入りました。砂川さんが……殺されました」
ソファに寄りかかったままの九条刹夜は、微動だにしない。
驚いた様子すらない。
「ベトナムで、女と遊んでる最中だったそうです」
平吾は淡々と続けた。
「女殺し屋が売春婦に成りすまして、ベッドに入った瞬間……喉を一突き。即死でした。犯人はそのまま逃走。
砂川の兄が激怒して、闇サイトで懸賞金を出しています」
それでも、刹夜は沈黙を守る。
その様子に、平吾の胸にざわりと不安がよぎった。
「若……これってもしかして……」
言い終える前に――
刹夜の鋭い視線が、彼に突き刺さった。
殺意すら含んだ瞳。
平吾は慌てて口を閉ざす。
けれどその心臓は、どくん、と大きく脈打っていた。
この様子じゃ、やったのは彼に違いない。
だが、問題はそこではない。
ゴールデントライアングルは刹淵組にとって、大切な取引先だった。
なぜ殺す必要があったのか。
答えは、ひとつしか思い当たらない。
砂川はこの間、あの歓楽街でもう少しで奥様を殺しかけたこと。
つまり、あの若が命がけで連れ戻した女だ。
「殺してやる」――そう言っていたのに、
いざ戻ってきた彼女には、一指も触れていない。
平吾は怖くなった。
砂川が死んだことではない。
この件が、組長――九条刹夜の父親にバレたらどうなるか。
若も、あの女も……きっと無事では済まない。
*
砂川の死は、すぐさま裏社会に知れ渡った。
闇ルートでは誰もがその名を口にし、追悼に訪れる者も少なくなかった。
その日の午後。
刹夜は貴司とともにお茶を囲んでいた。
「……刹夜。砂川が死んだそうだな、知ってるか」
「ああ、聞いてました」
彼は他人事のように、動じる様子もない。
「ゴールデントライアングルの人間だってのに……どこのバカがそんな真似を。
殺した女の素性、分かったか?」
九条刹夜は茶をすすりながら、「分かりません」とだけ返した。
「アイツが死んで、兄の砂川彰もきっと怒り狂ってるだろうな。
……そうだな、我々の誠意として、お前が何人か連れて三角地帯へ行け。
葬儀に出て、顔を見せてこい。……刹淵組の立場としても、礼を欠くわけにはいかん。
韓国も台湾の組も揃って行くそうだ」
「俺が行く必要あります?」
刹夜は、砂川一人死んだくらいで、と思っている。
「取引を続けるには、姿勢を見せることも大事だ。俺は徳川さんと共同案件で忙しいんだ。
数日で戻れるだろう。退屈なら花怜ちゃんでも連れて行け。いずれはお前の嫁になるんだしな」
九条貴司は、そう提案した。