間もなく、九条刹夜の専用機はゴールデントライアングル地帯に着陸した。
この地――ゴールデントライアングルは、
第二次世界大戦後からずっと混乱の渦に包まれている。
軍閥が乱立し、裏社会が渦巻き、近年は詐欺ビジネスの拠点も多く生まれた。
まさに、“足を踏み入れたら戻れない”と恐れられる場所である。
ただひとつ確かなことがある。
――金さえあれば、ここは楽園になる。
望めば何でも手に入る。
男も、女も、子供さえも。
高純度の麻薬、生きたままの人間の臓器、人の命すらも――。
銃と麻薬、そしてエイズが蔓延するこの地では、生の価値など羽毛よりも軽い。
外側だけを見れば華やかでも、その奥には黒く腐った欲望が渦巻いている。
砂川彰の一族も、そんな戦乱の時代を生き延びてきた古参の裏組織だった。
噂では、背後にはミャンマーの軍閥高官がついているという。
砂川家は高純度な麻薬の製造と輸出で勢力を拡大しており、
その品質と価格のバランスから、世界中に顧客を抱えていた。
九条刹夜の父・九条貴司も、彼らを高く評価し、密接な協力関係を築きたいと考えていた。
だからこそ、かつて砂川彰の弟――“砂川獅童”を日本に招いたのだ。
だが、それからまだ一ヶ月も経たぬうちに――
砂川はこの世を去った。
今回の刹夜の渡航は、その弔問が目的だった。
ゴールデントライアングルの葬儀は、裏社会流に派手だ。
刹夜は、鈴羽を含めた5人を引き連れ、砂川の本拠地へと向かった。
屋敷の大門には白い喪章が掲げられ、
その両脇には白や黄色の菊の花がずらりと並ぶ。
そして――門前には、緑の迷彩服に身を包み、銃を構えた兵士たちが行儀よく立ち並んでいた。
「すみません、念のため武器の所持を確認します」
一行は検問を受け、身体検査をされる。
ほどなくして、問題なく通された。
全員が黒いスーツを身にまとい、武装はしていなかった。
この土地で遠方からの客に手を出せば、報復が起きる――
それくらいの礼節は、裏社会にもある。
なお、刹淵組もこの地に拠点を持ち、情報収集と取引の窓口として機能していたが、
今回はまず弔問が先と、刹夜はそちらには顔を出さなかった。
刹夜と鈴羽は、顔の半分を隠すように黒いマスクをつけ、
静かに会場の奥――告別ホールへと入っていった。
ホールの中央には、砂川の遺影が飾られていた。
特徴的な顔立ち。
伸びた髭、広く大きな顔――
一目でそれと分かる顔。
鈴羽はその遺影を一目見た瞬間、
心の奥底から、ぞくりとした恐怖が沸き上がるのを感じた。
――思わず思い出してしまった。
あの歓楽街での夜。
本当は、砂川が狙っていたのは自分ではなかった。
小豆蛍だった。
だが、砂川は暴力的で、支配欲の塊のような男だった。
快楽の果てに殺すことを好む、残虐な嗜好を持っていた。
もし自分が行かなかったら、蛍は間違いなく殺されていた。
――今振り返っても、あのとき自分がどうしてあんな行動に出たのか分からない。
それでも彼女は、飛び込んだ。
そして待っていたのは、肋骨が折れるほどの激痛。
今でもまだ、激しく動けばその古傷が鈍く疼く。
それに、別荘では神楽坂流河の取り巻きにまで傷めつけられた。
だから――完治とは程遠い。
時折、じわじわと痛みが走る。
けれど彼女は弱音を吐かない。
黙って耐え、強がって平気な顔をする。
……仇が死んだというのに、
彼女の胸に湧いたのは快感ではなかった。
それは――ただの恐怖。
人が死ぬことの怖さ。
命の終わりがあまりにもあっけないことへの、根源的な恐れ。
あんなに大きな男が――
あんなに力強かった男が――
一ヶ月前には快楽に酔いしれていたというのに、
今はただの冷たい肉体として、棺の中に眠っている。
……生きる意味って、いったい何なんだろう?
そう思わずにはいられなかった。
怖すぎてたのか、あるいは妊娠初期の兆候かもしれない。
鈴羽はその場に立っていられないほどの吐き気に襲われた。
喉元まで込み上げる感覚を、必死に飲み込む。
ここは――
ゴールデントライアングルの巨頭が眠る告別式。
空気は厳粛そのもので、吐くなど言語道断。
彼女が今ここで嘔吐すれば、砂川彰がどう出るか分からない。
そのとき――
九条刹夜がわずかに彼女の前に立った。
片手で鈴羽を庇いながら、小声で囁く。
「もう少し我慢しろ。……ここで吐くな」
その声には、いつもの冷たさと同時に、かすかな警告が込められていた。
鈴羽は、ただただ頷くしかなかった。
顔色は真っ青だったが、必死にこらえた。
背後では護衛たちが控え、刹夜は一歩前へ出る。
胸に片手を当て、静かに一礼。
そして、白いチャイナドレスを身にまとった儀典係の女性から、三本の香を受け取る。
九条刹夜はそれを両手で持ち、香炉へと供えた。
「一礼――
再礼――
親族より御礼申し上げます」
儀式が終わり、ついに刹夜は、今回の主催者である砂川彰と対面する。
以前写真では見たことがあったが、やはり本人とは印象が違った。
写真の中の彼は、鋭い目つきと威圧感を放つ、猛獣のような男だった。
だが、今目の前に立つ男は――
細身で、どこかやつれて見える中年男性。
四十代前半、年齢的には九条貴司より若いはずなのに、
身長はせいぜい160センチほどで、頬もこけていた。
その眼差しにも、あの獣じみた鋭さは感じられない。
むしろ、どこか疲れたような印象すらある。
だが――九条刹夜は警戒を解かない。
この地で二十年以上、勢力を拡大し続けた黒幕が、
ただの弱者なわけがない、と。
「砂川さま。ご愁傷様です」
九条刹夜の口数は少ない。
この短い言葉こそ、彼らしい挨拶だった。
砂川彰は静かに手を差し出し、刹夜と握手を交わす。
「刹淵組のご参列、感謝する。お父上はお元気か?」
「おかげさまで、変わりありません」
「それは何よりだ。……では、若様には式が終わった後、控室で改めてご挨拶させていただく」
刹夜は軽く頷き、護衛を連れてホールを後にする。
そして――
式場を出た途端、鈴羽はたまらず壁際に駆け寄り、胃の中のものをすべて吐き出した。
あの日、小さな町の病院で女医が言っていた。
「妊娠初期には、こんなふうに吐き気が出るんですよ」
そして、妊娠月数が進めば進むほど、症状は強くなる。
やがて中期・後期になれば、落ち着くのだと。
――つまり、十ヶ月ほどの妊娠は、本当に大変なのだ。
だが、鈴羽の心は別の方向に向かっていた。
この子、やっぱり産みたくない、と。
彼の子なんて、自分の人生には要らない。
吐き終えた彼女に、刹夜は無言でハンカチを差し出した。
「……ありがとうございます」
彼女は苦しげにそれを受け取る。
刹夜は彼女の顔を見ながら、少し口角を上げた。
「……本当によく吐くな。病気か?」
彼はわざとそう聞いた。
その一言に、鈴羽の身体がびくっと震える。
まさか――
この男、もう気づいてる……?
いや、そんなわけ……と自分に言い聞かせる。
「……多分、胃腸炎だと思います」
「……ふっ」
刹夜は鼻で笑った。
やっぱり、嘘つきだな、この女。
口を開けば、嘘ばかり。
だが、刹夜はそれ以上何も言わず、あえて追及しなかった。
鈴羽も黙り込み、会話は途切れた。
*
その後、一行は砂川一族が手配したホテルへ案内された。
“ホテル”とはいえ、実際は五階建ての小さな建物。
そして築年数もかなり経っているようだった。
迎えに来たのは、腕に派手な入れ墨を入れた、坊主頭の男。
全身黒のスーツに、サングラス。
「九条さま。ここがこの辺りで一番いい宿です。
都会のホテルには到底かないませんが……ここは戦火が絶えませんから、どんなに立派に建てても、爆弾ひとつで消し飛ぶのです。
少しご不便かと思いますが、どうぞおくつろぎください。
夜十九時に、我がボスが若様のために宴席をご用意しております」
刹夜は軽く頷いた。
彼にとって、宿の環境などさほど重要ではなかった。
少年時代――
野良犬よりもひどい生活をしていた。
空腹も寒さも、痛みも屈辱も知っている。
それに比べれば、屋根とベッドがあるだけ、はるかにましだ。
坊主頭が去った後、一行は部屋に入る。
そこはシンプルなスイートルームだった。
広めのリビングと、奥には大きなベッドが一台。
当然、護衛たちは床に寝ることになる。
「腹減ってないか?」
刹夜が鈴羽に尋ねた。
「いえ、まだ大丈――」
ぐぅぅぅ……。
言いかけた言葉の途中で、彼女の腹が正直に音を立てた。
鈴羽の顔が一瞬で真っ赤に染まった。