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第56話 吐き気


間もなく、九条刹夜の専用機はゴールデントライアングル地帯に着陸した。


この地――ゴールデントライアングルは、

第二次世界大戦後からずっと混乱の渦に包まれている。


軍閥が乱立し、裏社会が渦巻き、近年は詐欺ビジネスの拠点も多く生まれた。

まさに、“足を踏み入れたら戻れない”と恐れられる場所である。


ただひとつ確かなことがある。


――金さえあれば、ここは楽園になる。


望めば何でも手に入る。

男も、女も、子供さえも。

高純度の麻薬、生きたままの人間の臓器、人の命すらも――。



銃と麻薬、そしてエイズが蔓延するこの地では、生の価値など羽毛よりも軽い。

外側だけを見れば華やかでも、その奥には黒く腐った欲望が渦巻いている。


砂川彰の一族も、そんな戦乱の時代を生き延びてきた古参の裏組織だった。

噂では、背後にはミャンマーの軍閥高官がついているという。


砂川家は高純度な麻薬の製造と輸出で勢力を拡大しており、

その品質と価格のバランスから、世界中に顧客を抱えていた。


九条刹夜の父・九条貴司も、彼らを高く評価し、密接な協力関係を築きたいと考えていた。


だからこそ、かつて砂川彰の弟――“砂川獅童”を日本に招いたのだ。


だが、それからまだ一ヶ月も経たぬうちに――

砂川はこの世を去った。


今回の刹夜の渡航は、その弔問が目的だった。


ゴールデントライアングルの葬儀は、裏社会流に派手だ。

刹夜は、鈴羽を含めた5人を引き連れ、砂川の本拠地へと向かった。


屋敷の大門には白い喪章が掲げられ、

その両脇には白や黄色の菊の花がずらりと並ぶ。


そして――門前には、緑の迷彩服に身を包み、銃を構えた兵士たちが行儀よく立ち並んでいた。


「すみません、念のため武器の所持を確認します」


一行は検問を受け、身体検査をされる。

ほどなくして、問題なく通された。


全員が黒いスーツを身にまとい、武装はしていなかった。


この土地で遠方からの客に手を出せば、報復が起きる――

それくらいの礼節は、裏社会にもある。


なお、刹淵組もこの地に拠点を持ち、情報収集と取引の窓口として機能していたが、

今回はまず弔問が先と、刹夜はそちらには顔を出さなかった。


刹夜と鈴羽は、顔の半分を隠すように黒いマスクをつけ、

静かに会場の奥――告別ホールへと入っていった。


ホールの中央には、砂川の遺影が飾られていた。


特徴的な顔立ち。

伸びた髭、広く大きな顔――

一目でそれと分かる顔。


鈴羽はその遺影を一目見た瞬間、

心の奥底から、ぞくりとした恐怖が沸き上がるのを感じた。


――思わず思い出してしまった。

あの歓楽街での夜。


本当は、砂川が狙っていたのは自分ではなかった。

小豆蛍だった。


だが、砂川は暴力的で、支配欲の塊のような男だった。

快楽の果てに殺すことを好む、残虐な嗜好を持っていた。


もし自分が行かなかったら、蛍は間違いなく殺されていた。


――今振り返っても、あのとき自分がどうしてあんな行動に出たのか分からない。

それでも彼女は、飛び込んだ。


そして待っていたのは、肋骨が折れるほどの激痛。

今でもまだ、激しく動けばその古傷が鈍く疼く。


それに、別荘では神楽坂流河の取り巻きにまで傷めつけられた。

だから――完治とは程遠い。


時折、じわじわと痛みが走る。

けれど彼女は弱音を吐かない。


黙って耐え、強がって平気な顔をする。


……仇が死んだというのに、

彼女の胸に湧いたのは快感ではなかった。


それは――ただの恐怖。

人が死ぬことの怖さ。

命の終わりがあまりにもあっけないことへの、根源的な恐れ。


あんなに大きな男が――

あんなに力強かった男が――

一ヶ月前には快楽に酔いしれていたというのに、

今はただの冷たい肉体として、棺の中に眠っている。


……生きる意味って、いったい何なんだろう?

そう思わずにはいられなかった。


怖すぎてたのか、あるいは妊娠初期の兆候かもしれない。

鈴羽はその場に立っていられないほどの吐き気に襲われた。


喉元まで込み上げる感覚を、必死に飲み込む。


ここは――

ゴールデントライアングルの巨頭が眠る告別式。


空気は厳粛そのもので、吐くなど言語道断。

彼女が今ここで嘔吐すれば、砂川彰がどう出るか分からない。


そのとき――

九条刹夜がわずかに彼女の前に立った。

片手で鈴羽を庇いながら、小声で囁く。


「もう少し我慢しろ。……ここで吐くな」


その声には、いつもの冷たさと同時に、かすかな警告が込められていた。


鈴羽は、ただただ頷くしかなかった。

顔色は真っ青だったが、必死にこらえた。


背後では護衛たちが控え、刹夜は一歩前へ出る。

胸に片手を当て、静かに一礼。


そして、白いチャイナドレスを身にまとった儀典係の女性から、三本の香を受け取る。

九条刹夜はそれを両手で持ち、香炉へと供えた。


「一礼――

再礼――

親族より御礼申し上げます」


儀式が終わり、ついに刹夜は、今回の主催者である砂川彰と対面する。


以前写真では見たことがあったが、やはり本人とは印象が違った。

写真の中の彼は、鋭い目つきと威圧感を放つ、猛獣のような男だった。


だが、今目の前に立つ男は――

細身で、どこかやつれて見える中年男性。


四十代前半、年齢的には九条貴司より若いはずなのに、

身長はせいぜい160センチほどで、頬もこけていた。


その眼差しにも、あの獣じみた鋭さは感じられない。

むしろ、どこか疲れたような印象すらある。


だが――九条刹夜は警戒を解かない。


この地で二十年以上、勢力を拡大し続けた黒幕が、

ただの弱者なわけがない、と。


「砂川さま。ご愁傷様です」


九条刹夜の口数は少ない。

この短い言葉こそ、彼らしい挨拶だった。


砂川彰は静かに手を差し出し、刹夜と握手を交わす。


「刹淵組のご参列、感謝する。お父上はお元気か?」

「おかげさまで、変わりありません」

「それは何よりだ。……では、若様には式が終わった後、控室で改めてご挨拶させていただく」


刹夜は軽く頷き、護衛を連れてホールを後にする。


そして――

式場を出た途端、鈴羽はたまらず壁際に駆け寄り、胃の中のものをすべて吐き出した。


あの日、小さな町の病院で女医が言っていた。

「妊娠初期には、こんなふうに吐き気が出るんですよ」


そして、妊娠月数が進めば進むほど、症状は強くなる。

やがて中期・後期になれば、落ち着くのだと。

――つまり、十ヶ月ほどの妊娠は、本当に大変なのだ。


だが、鈴羽の心は別の方向に向かっていた。

この子、やっぱり産みたくない、と。


彼の子なんて、自分の人生には要らない。


吐き終えた彼女に、刹夜は無言でハンカチを差し出した。


「……ありがとうございます」


彼女は苦しげにそれを受け取る。

刹夜は彼女の顔を見ながら、少し口角を上げた。


「……本当によく吐くな。病気か?」


彼はわざとそう聞いた。


その一言に、鈴羽の身体がびくっと震える。


まさか――

この男、もう気づいてる……?

いや、そんなわけ……と自分に言い聞かせる。


「……多分、胃腸炎だと思います」

「……ふっ」


刹夜は鼻で笑った。

やっぱり、嘘つきだな、この女。

口を開けば、嘘ばかり。


だが、刹夜はそれ以上何も言わず、あえて追及しなかった。

鈴羽も黙り込み、会話は途切れた。



その後、一行は砂川一族が手配したホテルへ案内された。

“ホテル”とはいえ、実際は五階建ての小さな建物。

そして築年数もかなり経っているようだった。


迎えに来たのは、腕に派手な入れ墨を入れた、坊主頭の男。

全身黒のスーツに、サングラス。


「九条さま。ここがこの辺りで一番いい宿です。

都会のホテルには到底かないませんが……ここは戦火が絶えませんから、どんなに立派に建てても、爆弾ひとつで消し飛ぶのです。

少しご不便かと思いますが、どうぞおくつろぎください。

夜十九時に、我がボスが若様のために宴席をご用意しております」


刹夜は軽く頷いた。

彼にとって、宿の環境などさほど重要ではなかった。


少年時代――

野良犬よりもひどい生活をしていた。

空腹も寒さも、痛みも屈辱も知っている。


それに比べれば、屋根とベッドがあるだけ、はるかにましだ。


坊主頭が去った後、一行は部屋に入る。

そこはシンプルなスイートルームだった。


広めのリビングと、奥には大きなベッドが一台。

当然、護衛たちは床に寝ることになる。


「腹減ってないか?」


刹夜が鈴羽に尋ねた。


「いえ、まだ大丈――」

ぐぅぅぅ……。


言いかけた言葉の途中で、彼女の腹が正直に音を立てた。

鈴羽の顔が一瞬で真っ赤に染まった。


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