「ふっ……お前たちはもう俺について来なくていい。適当に飯でも食ってろ」
九条刹夜はそう言い、分厚いドル札の束を無造作に取り出して、護衛たちに渡した。
この地域では、アメリカドルが主に流通している。
そうして彼は、鈴羽だけを連れて宿を出た。
「……何食べたい」
気のない口調で問いかける。
「なんでもいいよ……」
鈴羽は蚊の鳴くような声で答える。
二人は並ぶことなく、少し距離を空けて、古びた石畳の通りを歩く。
ここは砂川彰の本拠地のすぐそば。
完全に彼の縄張りで、言ってしまえば“安全地帯”だ。
だから護衛たちの必要はない。
二人きりになると、逆に刹夜の気分も少しずつ良くなっていった。
すると――
キィィィィ――ッ!
猛スピードで駆け抜けるバイクが一台。
通りを横切った瞬間、鈴羽のすぐそばをかすめて走り去る。
下を向いて考えごとをしていた鈴羽は、気づくのが遅れ、
一歩間違えば轢かれていた。
そのとき――
ガッ
「危ねぇっ」
刹夜が素早く彼女の腕を引っ張り、間一髪のところで引き戻した。
突然のことに鈴羽は固まり、
ようやく事態を理解したときには、背中に冷たい汗が滲んでいた。
彼女がまだ動揺しているのを見て、刹夜はわざときつい口調で言った。
「……ったく、お前は本当にバカだな。前見て歩けよ」
口では罵っているが、そこには微妙な優しさが滲んでいた。
鈴羽は返す言葉もなく、ただ俯いた。
――たしかに、今回は自分が悪い。
あのまま刹夜が助けなければ、確実に事故っていた。
そのまま歩いていると、一軒のレストランの看板が目に入った。
入口には「Vietnamese Cuisine」の文字。
このあたりのレストランは、どこも二ヶ国語で表記されている。
たとえばベトナム料理なら、英語とベトナム語。
中華料理なら、英語と中国語だ。
「ベトナム料理だけど、食えるか?」
「はい……」
さっきの出来事が尾を引き、鈴羽の声はさらに小さくなった。
まだ夕食時には早いせいか、店内には人影もまばらだった。
ゴールデントライアングルは年中蒸し暑く、夕暮れ時でも気温は三十度を超える。
そのせいか、地元の人たちはみんな日焼けして肌が黒い。
その中で、鈴羽の肌の白さはひときわ目立っていた。
だが、幸いにも彼女は今、男装している。
黒いスーツにマスクという出で立ちが、不自然さを少しだけ紛らわせてくれていた。
二人は窓際の静かな席に腰を下ろす。
そこへ若い女性スタッフがオーダーを取りにやってきた。
どうやら九条刹夜の整った顔立ちがよほど気に入ったのか、
彼女は英語でにこにこしながら話しかけてきて、ベトナム料理のおすすめをいくつも紹介してくれる。
鈴羽にはあまり聞き取れず、横で黙っていることしかできなかった。
結局、注文はすべて刹夜に任され、静かな空気がテーブルに流れ始める。
刹夜はスマホをいじりながら、遠隔で組の仕事を処理していた。
鈴羽はというと、スマホも取り上げられたまま。
することもなく、ぼんやりと窓の外を眺めていた。
行き交う異国の人々、見慣れない看板、異様な空気――
……本当に、自分は外国にいるんだ。
そう思うと、なんだか夢の中にいるような不思議な気持ちになる。
これが、人生で初めての海外。
昔、祖母と二人で暮らしていた頃は、お金もなく、旅行なんて夢のまた夢だった。
ここに来る直前に、刹夜が自分のために偽造パスポートを作ってくれた。
名前も、生年月日も、全部違う。
――そう。
自分の存在は、表には出せない。
刹夜が自分の身分を隠す理由も、なんとなく理解できた。
姉にも、徳川花怜にも、絶対にバレてはいけないからだ。
料理が届いたのは、それからおよそ二十分後だった。
思っていた以上にどれも美味しそうだった。
特に、チキンのレモングラス炒め――
見た目のインパクトも十分で、鈴羽の記憶の中にある、あるベトナムドラマのワンシーンと重なった。
他にも――
九条刹夜が注文したのは、ベトナム風生春巻き。
ぷりぷりのエビとシャキシャキ野菜がライスペーパーで包まれ、それをカラッと揚げて特製の甘辛いソースにディップして食べる。
さらに――
土鍋で蒸し煮にされたムール貝も。
濃厚な魚介の出汁が漂い、見るからに食欲をそそる。
付け合わせには、シンプルな空芯菜のガーリック炒め。
バランスのとれた彩りで、料理雑誌の一頁のようだった。
だが、何より鈴羽が驚いたのは――
一見地味な“牛肉のフォー”だった。
本当の名前は「生牛肉のフォー」というらしい。
上に乗っている牛肉のスライスは薄絹のように柔らかく、舌の上でとろける。
しかも、スープが驚くほど美味い。
酸味と辛味が絶妙に調和していて、初めて味わった味である。
……彼女はもともと酸っぱいものが苦手だったはずなのに。
――妊娠すると味覚が変わるって、本当だったんだ。
最初のひと口で虜になり、
気がつけば無言で夢中になって食べ続けていた。
刹夜が話しかけているのも気づかないほどに。
「……おい、俺今話しかけてんだが」
「……え? 今なんか言いました?」
鈴羽はようやく顔を上げ、戸惑いながら聞き返す。
「ごめん、ごはんに集中してて、聞こえなかった……」
彼女の無邪気な様子に、刹夜はわずかに眉をひそめる。
「俺のいない間、どこでくたばってたって言ってんだよ」
「……町で働いてた。パン屋さんで」
鈴羽は目を逸らしながら答えた。
「……それだけか?」
「……はい、それだけです」
鈴羽は神楽坂流河や別荘のことはわざと伏せていた。
別に流河が特別というわけじゃない。
余計なことを言えば面倒になるだけだ。
この一年で刹夜の性格はよく分かった。
彼はとにかく独占欲が強い。
自分の私物――タオル一本にすら他人が触るのを嫌う男だ。
だから黙っていた。
刹夜はその目で嘘を見抜いていた。
だが、何も言わず、皮肉げに目を細めただけだった。
鈴羽は牛肉フォーをあっという間に食べ終え、
スープまできれいに飲み干してしまった。
だが、問題は――
自分はまだお腹が空いている。
妊娠のせいか、食欲が異様に増している。
あるいは、監禁中ろくに食べられなかった反動か。
いずれにせよ、空腹は満たされていなかった。
両手で空っぽのどんぶりを抱えたまま、鈴羽はおそるおそる刹夜を見つめる。
「……あの、もう一杯……頼んでもいいんですか?」
その控えめなお願いに、刹夜は一瞬、表情を緩めかけた。
――毎回、こういうときの素直な顔に弱い。
レストランでなければ、今すぐにでも押し倒してやりたい衝動に駆られる。
刹夜は返事の代わりに、指を鳴らした。
「Waiter, could you please give her another serving of the same food.」
流暢な英語で店員に頼むと、女性スタッフは笑顔で頷き、もう一杯を注文してくれた。
鈴羽は夢中で食べた。
こんなにお腹いっぱい食べたのは、どれくらいぶりだろう。
口の中も心も、満ち足りていた。
この瞬間だけは、刹夜との過去のあれこれも、どうでもよくなった。
レストランを出たとき、鈴羽はふと立ち止まり、刹夜に向き直った。
「……刹夜さん」
彼は足を止め、鈴羽を振り返る。
「ありがとうございました」
男の少し驚いたような顔に、彼女は真っ直ぐ見つめる。
「ベトナム料理、ごちそうさまでした。
これまで生きてきて、こんなにお腹いっぱい食べたのはたぶん初めてかもしれない。 本当に美味しかったです」
刹夜は、しばし無言だった。
何と返せばいいか分からない――そんな顔をしていた。
その瞬間、彼のスマホが鳴った。
着信画面には、月島千紗の名前。
刹夜は無言で受話ボタンを押す。
「……刹夜さま? やっと出てくれた!さっき、徳川花怜から聞いたの。あなたが海外に行ったって……
もう、なんで連れてってくれなかったの!ひどいよ……私のこと、もう好きじゃないの……? うぅ……」