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第58話 ブラフマー像


「俺は仕事で来てんだ。お前を連れて来てどうする」


九条刹夜は内心かなり苛立っていたが、鈴羽の前では平静を装っていた。

あくまで鈴羽には無関心で、姉だけが好きなふりをしている。


「でもさ、せめて一言くらい言ってくれたっていいじゃない……心配で……夜も眠れなかったんだから……」


月島千紗が電話の向こうで甘え声を出す。


刹夜はわざと音量を上げた。

隣にいる鈴羽にもはっきりと聞こえるように。


鈴羽は横顔をそらして、無関心を装った。


「心配する必要ない。ボディーガードも連れてるし」

「うん……いつ帰ってくるの……?あなたがいないと、夜ひとりで寝るのが怖いんだもん……」

「三、四日ってところ」


苛立ちを抑えつつ答える。


「そっか……じゃあ私のこと、ちゃんと思っててよね!

 そうだそうだ、一つお願いがあって……カードの限度額、もう少し上げてもらってもいいかな……?今月、もう使い切っちゃった♡

 でもでもぉ、無駄遣いしたわけじゃないよ!水穂さんと和枝さんにプレゼント贈っておいたんだ~!ちゃんと刹夜さまのために家族の人脈維持してるんだから!偉いでしょ~」


――バカも休み休みにしろ。

九条刹夜は、そう言いかけて言葉を飲み込んだ。


「……惠美さんに言え。彼女がなんとかするから」


それだけ言い残し、無情にも通話を切った。


正直、月島千紗がどれだけ金を使おうが、彼にとってはどうでもよかった。

その程度の額は、九条家にとって小銭同然だ。


電話が切れたあと、千紗は大はしゃぎ。


「やった~! また好きなだけ使える♡」


1万越えのトリュフランチを思い浮かべ、テンション爆上がり。

昔はそんなこと、夢にも思わなかった。


電話を切るや否や、恵美さんにすぐ限度額アップを頼みに行った。


恵美さんはこの双子の姉をあまり快く思っていなかったが、仕方がない。

全部若様の指示なのだ。


その後、千紗のカードはさらに一千万円増額。


千紗はさっそくSNSに投稿。

「私の彼氏超甘々♡ お金も好きに使わせてくれるの、ふふ♪」


この投稿はすぐに徳川花怜の耳にも入った。

だが今回は、彼女は以前のように怒らなかった。


「……ふーん、田舎者ってほんっと哀れね。たった一千万の増額であんなに浮かれるなんて、マジで土民。あーあ、哀れすぎて笑っちゃったわ。

まぁ、どうせ貧乏人が育てた子供の認識上、これが限界なんでしょうね。

……こんな女をライバルだと思ってたなんて……こっちが恥だわ」


冷たく皮肉を言いながら、彼女は最近知り合った星宮恋夏と一緒にネイルサロンへ向かった。


星宮は、刹夜が花怜の婚約者だと知って以来、心を曇らせていた。

けれど、どうしても刹夜への想いを断ち切れない。


だから――

こっそり刹夜にメッセージを送った。


「九条さま、ご無沙汰しています。

以前、あなたに助けていただいた星宮恋夏です。

先日、徳川さんの婚約者が九条さまだと知って、びっくりしたあまり、なんのお礼も言えませんでした。ご無礼をお許しください。


最近、どうしても気持ちが整理できなくて……たぶん、私はもうあなたのことが忘れられません。

……もう一度だけ、お会いできませんか?」


これだけあからさまな気持ち、普通の男ならすぐに気づくだろう。


だが九条刹夜は返信しなかった。

メッセージを一瞥しただけで、すぐに削除した。


その頃――

食事を終えた鈴羽は、食べ過ぎたから少し散歩したいと言い出した。


「先に戻って休んでてもいいんですよ。ちょっと食べすぎちゃって……少し散歩したら楽になると思って」


刹夜の目がすぐ鋭くなった。


「……また逃げるつもりか?」


鈴羽は呆れて、なんでそんなこと言われるのか分からない。


「ちょっと、何ご冗談を。逃げられるわけないじゃないんですか。


そもそも私お金持ってないし、パスポートはあなたが持ってる。英語だって苦手で、現地の人とも話せない。


しかもここ、治安がやばいことになってるって聞いてた。逃げるなんて、死にに行くようなもんですよ」

刹夜は目を細めて言った。


「……よく分かってんじゃねぇか」

「逃げたりしませんよ。安心して」

「……でも俺は、もうお前を信じない」


その言葉に、鈴羽の顔が怒りで真っ赤になった。


「はぁ!? だったら……好きについてきなさいよ!」


そう吐き捨てて、鈴羽はぷいっと顔を背け、足早に歩き出した。


刹夜はもちろん鈴羽の後をついていった。

「逃げるつもりか」などと吐き捨てたのは、ただの嫌味だ。


彼はわかっていた――

鈴羽が逃げられるはずがない。


ここはゴールデントライアングル、そして砂川彰の縄張り。

人の命など、虫けらのように扱われる場所。


鈴羽がどこへ逃げたところで、すぐに見つかるに決まっている。



ふたりが人混みの多い場所へ差しかかったとき――

鈴羽の目が、なにかに吸い寄せられるように留まった。


彼女が近づいたのは、巨大なブラフマー像の像だった。

金箔が貼られ、荘厳な佇まい。

地元の人々が熱心に祈りを捧げ、ひれ伏している。


誰もが手を合わせ、現地の言葉で何かを唱えていた。

言葉はわからないが、何をしているかはすぐに理解できた。


――祈っているのだ。


鈴羽の祖母も仏教徒だった。

「善い子でいなさい。そうすれば、死後は極楽浄土へ行ける」

子供の頃、何度もそう言われた記憶がある。


「……あそこに仏像がある。ちょっとだけ拝みに行きたいです。一緒にいきます?」

と、鈴羽は刹夜に振り向いた。


だが――


「神や仏が本当にいるなら、こんな地獄みたいな世界にはなってねぇよ。夢みたいなこと言うなバーカ。救われたきゃ、自分で自分を救うしかねぇんだよ」


刹夜の言葉は冷酷だった。


鈴羽はむっとした顔で反論する。


「でも刹淵組の本部にも仏像があるじゃないんですか。黒岩さんがあなたが毎日お線香をあげてるって言ってましたよ」


「……あれは全員が俺自身、そして俺の信仰を拝んでるだけだ。

ちなみに俺の信仰は一つ――“力を手に入れて、すべての敵を叩き潰すこと”」


一語一語、静かに、だが鋭く。


「……最低。もういい、私一人で拝んでくるから」


鈴羽はぷいっと顔をそらし、ブラフマー像の前へと進んでいった。

思えば、ここ最近の彼女の人生は不幸続きだった。


最初はあの歓楽街での悪夢、肋骨の骨折、


逃げ出しても癒えぬ傷は疼き続け――

神楽坂流河の別荘でさらに追い打ちをかけられた。


出会う人間は誰もかも狂ってる。


そして最悪なのは、今、再び囚われの身。

自由も、選択も、すべて奪われたまま。


せめて――

祈りくらいは、させてほしい。


仏像の前は行き止まり、鈴羽が逃げることは不可能。

刹夜は近くでぶらぶらすることにした。


すると、ふと目についたのは、裏で薬を売るブラックマーケット。

――脳裏に黒岩平吾の言葉がよぎった。


「若様、奥様の子供……今はまだ、残せません。

組長や徳川家に知られれば、奥様の命が危険です。

婚約前に他の女が子を産むなんて……徳川家にとって侮辱です。


徳川家との同盟は、組長にとって最優先事項です。

……なので、ゴールデントライアングルで処理すべきかと。


あそこなら情報も漏れません。徳川家も、和枝様も、誰も追えない。

誰にも知られず、自然流産として処理できるんです」


――正論だった。


これが最善の方法。


この子は残せない。

まだ刹淵組のトップの座も安定していないし、リスクや不安要素は多すぎる。


ゴールデントライアングルで鈴羽に流産させるのが一番だ。

異国の地、言葉も通じない。


わざとぶつかって、彼女に自然流産だと思わせればいい。

そうすれば、彼女の恨みも増えないだろう……。


刹夜は躊躇いながらも、マスクをかけ、ブラックマーケットの中へ足を踏み入れた。


薄暗い路地裏。

露店には、薬、銃、偽造書類――

あらゆる“違法”が並ぶ。


「よう、兄さん。なに探してる?」


売人がにやにやしながら英語で話しかけてくる。


「ドラッグ? それとも“パワードリンク?飲めば力が爆発して、1晩で8回、ベッドの上で伝説になれるぜ?」


「……中絶薬、あるか?」


刹夜は低く問う。


「おう、あるある!3ランクあるぞ。一番強力なやつは500ドル。効き目バツグンだ」

「……危険性は?」


刹夜は少し不安になった。


今の鈴羽は、まだ古傷も癒えていない。

もしも体が耐えられず――命に関わったら……。


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