「俺は仕事で来てんだ。お前を連れて来てどうする」
九条刹夜は内心かなり苛立っていたが、鈴羽の前では平静を装っていた。
あくまで鈴羽には無関心で、姉だけが好きなふりをしている。
「でもさ、せめて一言くらい言ってくれたっていいじゃない……心配で……夜も眠れなかったんだから……」
月島千紗が電話の向こうで甘え声を出す。
刹夜はわざと音量を上げた。
隣にいる鈴羽にもはっきりと聞こえるように。
鈴羽は横顔をそらして、無関心を装った。
「心配する必要ない。ボディーガードも連れてるし」
「うん……いつ帰ってくるの……?あなたがいないと、夜ひとりで寝るのが怖いんだもん……」
「三、四日ってところ」
苛立ちを抑えつつ答える。
「そっか……じゃあ私のこと、ちゃんと思っててよね!
そうだそうだ、一つお願いがあって……カードの限度額、もう少し上げてもらってもいいかな……?今月、もう使い切っちゃった♡
でもでもぉ、無駄遣いしたわけじゃないよ!水穂さんと和枝さんにプレゼント贈っておいたんだ~!ちゃんと刹夜さまのために家族の人脈維持してるんだから!偉いでしょ~」
――バカも休み休みにしろ。
九条刹夜は、そう言いかけて言葉を飲み込んだ。
「……惠美さんに言え。彼女がなんとかするから」
それだけ言い残し、無情にも通話を切った。
正直、月島千紗がどれだけ金を使おうが、彼にとってはどうでもよかった。
その程度の額は、九条家にとって小銭同然だ。
電話が切れたあと、千紗は大はしゃぎ。
「やった~! また好きなだけ使える♡」
1万越えのトリュフランチを思い浮かべ、テンション爆上がり。
昔はそんなこと、夢にも思わなかった。
電話を切るや否や、恵美さんにすぐ限度額アップを頼みに行った。
恵美さんはこの双子の姉をあまり快く思っていなかったが、仕方がない。
全部若様の指示なのだ。
その後、千紗のカードはさらに一千万円増額。
千紗はさっそくSNSに投稿。
「私の彼氏超甘々♡ お金も好きに使わせてくれるの、ふふ♪」
この投稿はすぐに徳川花怜の耳にも入った。
だが今回は、彼女は以前のように怒らなかった。
「……ふーん、田舎者ってほんっと哀れね。たった一千万の増額であんなに浮かれるなんて、マジで土民。あーあ、哀れすぎて笑っちゃったわ。
まぁ、どうせ貧乏人が育てた子供の認識上、これが限界なんでしょうね。
……こんな女をライバルだと思ってたなんて……こっちが恥だわ」
冷たく皮肉を言いながら、彼女は最近知り合った星宮恋夏と一緒にネイルサロンへ向かった。
星宮は、刹夜が花怜の婚約者だと知って以来、心を曇らせていた。
けれど、どうしても刹夜への想いを断ち切れない。
だから――
こっそり刹夜にメッセージを送った。
「九条さま、ご無沙汰しています。
以前、あなたに助けていただいた星宮恋夏です。
先日、徳川さんの婚約者が九条さまだと知って、びっくりしたあまり、なんのお礼も言えませんでした。ご無礼をお許しください。
最近、どうしても気持ちが整理できなくて……たぶん、私はもうあなたのことが忘れられません。
……もう一度だけ、お会いできませんか?」
これだけあからさまな気持ち、普通の男ならすぐに気づくだろう。
だが九条刹夜は返信しなかった。
メッセージを一瞥しただけで、すぐに削除した。
その頃――
食事を終えた鈴羽は、食べ過ぎたから少し散歩したいと言い出した。
「先に戻って休んでてもいいんですよ。ちょっと食べすぎちゃって……少し散歩したら楽になると思って」
刹夜の目がすぐ鋭くなった。
「……また逃げるつもりか?」
鈴羽は呆れて、なんでそんなこと言われるのか分からない。
「ちょっと、何ご冗談を。逃げられるわけないじゃないんですか。
そもそも私お金持ってないし、パスポートはあなたが持ってる。英語だって苦手で、現地の人とも話せない。
しかもここ、治安がやばいことになってるって聞いてた。逃げるなんて、死にに行くようなもんですよ」
刹夜は目を細めて言った。
「……よく分かってんじゃねぇか」
「逃げたりしませんよ。安心して」
「……でも俺は、もうお前を信じない」
その言葉に、鈴羽の顔が怒りで真っ赤になった。
「はぁ!? だったら……好きについてきなさいよ!」
そう吐き捨てて、鈴羽はぷいっと顔を背け、足早に歩き出した。
刹夜はもちろん鈴羽の後をついていった。
「逃げるつもりか」などと吐き捨てたのは、ただの嫌味だ。
彼はわかっていた――
鈴羽が逃げられるはずがない。
ここはゴールデントライアングル、そして砂川彰の縄張り。
人の命など、虫けらのように扱われる場所。
鈴羽がどこへ逃げたところで、すぐに見つかるに決まっている。
*
ふたりが人混みの多い場所へ差しかかったとき――
鈴羽の目が、なにかに吸い寄せられるように留まった。
彼女が近づいたのは、巨大なブラフマー像の像だった。
金箔が貼られ、荘厳な佇まい。
地元の人々が熱心に祈りを捧げ、ひれ伏している。
誰もが手を合わせ、現地の言葉で何かを唱えていた。
言葉はわからないが、何をしているかはすぐに理解できた。
――祈っているのだ。
鈴羽の祖母も仏教徒だった。
「善い子でいなさい。そうすれば、死後は極楽浄土へ行ける」
子供の頃、何度もそう言われた記憶がある。
「……あそこに仏像がある。ちょっとだけ拝みに行きたいです。一緒にいきます?」
と、鈴羽は刹夜に振り向いた。
だが――
「神や仏が本当にいるなら、こんな地獄みたいな世界にはなってねぇよ。夢みたいなこと言うなバーカ。救われたきゃ、自分で自分を救うしかねぇんだよ」
刹夜の言葉は冷酷だった。
鈴羽はむっとした顔で反論する。
「でも刹淵組の本部にも仏像があるじゃないんですか。黒岩さんがあなたが毎日お線香をあげてるって言ってましたよ」
「……あれは全員が俺自身、そして俺の信仰を拝んでるだけだ。
ちなみに俺の信仰は一つ――“力を手に入れて、すべての敵を叩き潰すこと”」
一語一語、静かに、だが鋭く。
「……最低。もういい、私一人で拝んでくるから」
鈴羽はぷいっと顔をそらし、ブラフマー像の前へと進んでいった。
思えば、ここ最近の彼女の人生は不幸続きだった。
最初はあの歓楽街での悪夢、肋骨の骨折、
逃げ出しても癒えぬ傷は疼き続け――
神楽坂流河の別荘でさらに追い打ちをかけられた。
出会う人間は誰もかも狂ってる。
そして最悪なのは、今、再び囚われの身。
自由も、選択も、すべて奪われたまま。
せめて――
祈りくらいは、させてほしい。
仏像の前は行き止まり、鈴羽が逃げることは不可能。
刹夜は近くでぶらぶらすることにした。
すると、ふと目についたのは、裏で薬を売るブラックマーケット。
――脳裏に黒岩平吾の言葉がよぎった。
「若様、奥様の子供……今はまだ、残せません。
組長や徳川家に知られれば、奥様の命が危険です。
婚約前に他の女が子を産むなんて……徳川家にとって侮辱です。
徳川家との同盟は、組長にとって最優先事項です。
……なので、ゴールデントライアングルで処理すべきかと。
あそこなら情報も漏れません。徳川家も、和枝様も、誰も追えない。
誰にも知られず、自然流産として処理できるんです」
――正論だった。
これが最善の方法。
この子は残せない。
まだ刹淵組のトップの座も安定していないし、リスクや不安要素は多すぎる。
ゴールデントライアングルで鈴羽に流産させるのが一番だ。
異国の地、言葉も通じない。
わざとぶつかって、彼女に自然流産だと思わせればいい。
そうすれば、彼女の恨みも増えないだろう……。
刹夜は躊躇いながらも、マスクをかけ、ブラックマーケットの中へ足を踏み入れた。
薄暗い路地裏。
露店には、薬、銃、偽造書類――
あらゆる“違法”が並ぶ。
「よう、兄さん。なに探してる?」
売人がにやにやしながら英語で話しかけてくる。
「ドラッグ? それとも“パワードリンク?飲めば力が爆発して、1晩で8回、ベッドの上で伝説になれるぜ?」
「……中絶薬、あるか?」
刹夜は低く問う。
「おう、あるある!3ランクあるぞ。一番強力なやつは500ドル。効き目バツグンだ」
「……危険性は?」
刹夜は少し不安になった。
今の鈴羽は、まだ古傷も癒えていない。
もしも体が耐えられず――命に関わったら……。