「――危険はあるにはあるけど」
薬売りの男は軽く肩をすくめて言った。
「奥さん、妊娠してどれくらい?」
「……たぶん四週くらい」
「おお、なら全然問題ない。うちの薬は妊娠七週以内に飲むのが一番効く。七週を超えると、胎児の発育が進みすぎて完全に排出できない可能性がある。大出血のリスクもあるし、場合によっては手術が必要になる。
でも安心しな。クリニックの紹介もできる」
男はポケットから名刺を取り出して差し出す。
「万が一、飲ませたあとに問題が起きても、金さえ払えば何とかなる。ここじゃ金がすべてだ」
だが、九条刹夜はその名刺を受け取らなかった。
代わりに無言で500ドル札を差し出す。
薬売りはにんまり笑い、小さな箱を取り出した。
「兄さん、一粒で十分さ。奥さんに気づかれたくないなら、ジュースに混ぜちまいな。
ここならスイカジュースもあるし、ココナッツジュースやサトウキビジュースも美味しいよ、味でバレることはねぇ。
それに副作用も軽い。バレずにすっと片付く。楽なもんだぜ、へへ」
商人は自信満々だが、刹夜はその話を聞いているうちに、だんだんイライラしてきた。
薬をポケットにしまい、黙ってブラックマーケットを出た。
すぐ近くで、果汁ドリンクを売る屋台を見つける。
店番のの女性は日焼けした五十代くらいのベトナム人だった。
「スイカジュース、一杯」
「ツーダラー」と、片言の英語で返される。
刹夜は十ドル札を出し、釣りも受け取らずにそのまま去る。
そして、
手にしたスイカジュースの蓋をそっと開け、さきほどの錠剤を中に入れた。
ゆっくりと、かき混ぜる。
タブレットは溶けて、もう痕跡はどこにもなかった。
その頃――
鈴羽はブラフマー像の前での祈りを終え、戻ってきた。
その表情は少し穏やかで、落ち着いていた。
実際に像の前に立ったとき、何を願おうとしていたか――忘れてしまっていた。
ただ、金色に輝く巨大な仏像を見上げるうちに、
ふと、込み上げてきたのは“世界の悲しみ”だった。
この場所に来てから目にした、人の業。
争い、裏切り、暴力、そして命の軽さ。
……どうして、人間ってここまで非情になれるのだろう?
目を閉じ、そっと祈った。
「仏様――
どうかおばあちゃんが元気で長生きできますように。
蛍ちゃんも無事に成長できますように。
……それと、私のお腹の中の命。
たとえ私と一緒にいられなくても、別の、優しいお母さんの元に生まれ変われますように」
鈴羽がブラフマー像に捧げた三つの願いは、どれも自分のためではなかった。
「戻りましょうか」
戻ってきた鈴羽は、静かに刹夜に声をかけた。
刹夜は無言でうなずいた。
その手に持たれたスイカジュースが、ふと視界に入った鈴羽。
刹夜はずっと手に持ったまま飲もうとしない。
思い切って訊いてみる。
「それ……私に買ってくれたの?」
不意に聞いた言葉に、刹夜はわずかに動揺する。
一瞬迷ったが、結局――頷いた。
「ほんとに? なんか今日優しいですね。私が逃げなかったから?」
鈴羽は素直に嬉しそうに笑いながら、スイカジュースを受け取った。
ベトナム料理で塩辛いものを食べた後だったせいか、喉はからからだった。
冷たいスイカジュースを手に持つと、たまらない魅力がそこにあった。
そして、彼女がストローを口に近づけ、吸い込もうとしたそのとき。
バシャッ――!!
刹夜の手が動き、スイカジュースが地面に叩きつけられた。
鈴羽は驚いて声を上げた。
「なっ……なにしてんの!?」
「飲むな。さっさと戻るぞ」
急に怒鳴る刹夜。
鈴羽は呆然とした後、悔しさと悲しさが込み上げてきて、今にも泣きそうだった。
ただスイカジュースが飲みたかっただけなのに、そんなに高いわけでもない。
鈴羽は電話の内容をすべて聞いていた。
彼が姉のクレジットカードの限度額を引き上げたことも。
その額――一千万円。
彼女は何の遠慮もなく、彼のお金を湯水のように使っている。
それに比べて、自分は――
たった一杯のスイカジュースさえ、彼の顔色を窺わなければ飲めない。
胸に溜まった感情が、じわりと熱を帯びていく。
泣きそうになるのを、どうにか堪えて――鈴羽は口をつぐんだ。
ホテルに戻った後も、鈴羽は一言も発さなかった。
ソファの隅に体を丸め、死んだふりのように目を閉じていた。
刹夜も構おうとせず、そのまま寝室へ。
黒岩平吾と電話を繋ぎ、組織の案件を処理していく。
――そして、夜。
約束の時間になった。
砂川彰との会食の時刻だ。
砂川彰の部下が車で迎えに来た。
刹夜は誠意を見せるため、今回保護を最低限に。
連れていくのは――鈴羽ただ一人。
表向きは、皆この小柄な「男」もボディーガードだと思っている。
出発前、刹夜は鈴羽に冷たく言い放つ。
「口を慎め。下手に喋れば命はない。砂川彰は東南アジア最大の麻薬王だ。お前の命なんて、奴にとっては塵ほどの価値もない」
鈴羽は唇を噛みしめ、黙ったまま頷いた。
頭の中ではまだ、スイカジュースの件が引っかかっている。
実のところ、
九条刹夜自身もなぜあれを打ち落としたのか、わからなかった。
もしあのとき止めなければ、鈴羽はもう……。
説明できない感情。
けれど、確かにあの瞬間、手が勝手に動いた。
夜になり、刹夜は黒のオーダースーツに着替える。
袖には龍の刺繍があしらわれ、ヤクザはどうもこういうのが好きらしい。
刹淵組は重要なお得意様なので、砂川彰は最初に彼らをもてなした。
他の組の幹部たちはまだ待機中。
もちろん、全員を一度に集めることはない。
ヤクザ同士、どこに因縁が潜んでいるか分からないからだ。
無用なトラブルを避けるため、彰はすべて個別に招待していた。
会食の場所は、彰のアジトでも、愛人の豪邸でもない。
独特なタイ族の高床式住居だった。
三国の境界が交わるこの土地ならではの、風土と文化が混じる不思議な空間。
タイ、ミャンマー、ラオスの気配が入り混じる、緑深いジャングルの中――
異国情緒溢れる木造の楼閣。
まるでリゾートのような美しさだが、その実、ここは黒の権力者たちの巣窟。
鈴羽はそんな場所に足を踏み入れながらも、好奇心いっぱいで周囲をきょろきょろと見回していた。
が、――突然、悲鳴を上げかける。
入口のそばに鎮座していたのは――
巨大なミャンマー産のニシキヘビ。
ぎょろりとした目、くねる長い身体、光沢のある鱗――
その存在感は尋常ではなかった。
「きゃっ!」
反射的に、鈴羽は刹夜に飛びついた。
がっちりと首にしがみつき、震える声で喋れもしない。
蛇が大の苦手なのだ。
しかも、こんな巨大なものは見たことがない。
彰の部下は大笑いした。
「アハハ、驚いた? 心配ないよ。あれは砂川様のペットさ。大人しくて可愛いだろ? この模様なんて最高じゃないか」
刹夜は蛇に対してまったく動じる様子はない。
「ちゃんとしろ」
鈴羽を引き剥がすと、きつく一言。
震える手で裾を握りしめながら、鈴羽は再び立ち直ろうとした。
心の中では、「この人たち、どうかしてる……」と呆れていた。
こんな化け物を玄関先で飼ってるなんて……。
もしお腹が空いて人を飲み込んだらどうするの――
想像するだけで背筋が凍る。
やがて、砂川彰が現れた。
刹夜と抱擁を交わし、形式的な握手を終えると、会食の場へ。
席にはそれぞれの側近が控え、鈴羽は刹夜の背後に立つ。
タイ族の伝統衣装を身にまとった美しい女性が、お茶を注いでまわる。
そんな中――
砂川彰が、ぽつりと口を開いた。
「……九条さま。弟がそちらの縄張りで大正グループと勝手に接触して話を聞いてな……どうやら、それであなたを怒らせたそうですよね?」
――鋭い。
表情ひとつ変えなかった刹夜だが、心の中に警戒心が走った。
このジジイ……探りを入れてる?
それとも――もう何か知っているのか?
でなければ、あえてその話題を持ち出す理由がない。