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第59話 スイカジュース


「――危険はあるにはあるけど」


薬売りの男は軽く肩をすくめて言った。


「奥さん、妊娠してどれくらい?」

「……たぶん四週くらい」


「おお、なら全然問題ない。うちの薬は妊娠七週以内に飲むのが一番効く。七週を超えると、胎児の発育が進みすぎて完全に排出できない可能性がある。大出血のリスクもあるし、場合によっては手術が必要になる。

 でも安心しな。クリニックの紹介もできる」


男はポケットから名刺を取り出して差し出す。


「万が一、飲ませたあとに問題が起きても、金さえ払えば何とかなる。ここじゃ金がすべてだ」


だが、九条刹夜はその名刺を受け取らなかった。

代わりに無言で500ドル札を差し出す。

薬売りはにんまり笑い、小さな箱を取り出した。


「兄さん、一粒で十分さ。奥さんに気づかれたくないなら、ジュースに混ぜちまいな。

 ここならスイカジュースもあるし、ココナッツジュースやサトウキビジュースも美味しいよ、味でバレることはねぇ。


 それに副作用も軽い。バレずにすっと片付く。楽なもんだぜ、へへ」


商人は自信満々だが、刹夜はその話を聞いているうちに、だんだんイライラしてきた。


薬をポケットにしまい、黙ってブラックマーケットを出た。

すぐ近くで、果汁ドリンクを売る屋台を見つける。


店番のの女性は日焼けした五十代くらいのベトナム人だった。


「スイカジュース、一杯」

「ツーダラー」と、片言の英語で返される。


刹夜は十ドル札を出し、釣りも受け取らずにそのまま去る。


そして、

手にしたスイカジュースの蓋をそっと開け、さきほどの錠剤を中に入れた。


ゆっくりと、かき混ぜる。

タブレットは溶けて、もう痕跡はどこにもなかった。



その頃――

鈴羽はブラフマー像の前での祈りを終え、戻ってきた。


その表情は少し穏やかで、落ち着いていた。


実際に像の前に立ったとき、何を願おうとしていたか――忘れてしまっていた。


ただ、金色に輝く巨大な仏像を見上げるうちに、

ふと、込み上げてきたのは“世界の悲しみ”だった。


この場所に来てから目にした、人の業。

争い、裏切り、暴力、そして命の軽さ。


……どうして、人間ってここまで非情になれるのだろう?


目を閉じ、そっと祈った。


「仏様――

どうかおばあちゃんが元気で長生きできますように。

蛍ちゃんも無事に成長できますように。


……それと、私のお腹の中の命。

たとえ私と一緒にいられなくても、別の、優しいお母さんの元に生まれ変われますように」


鈴羽がブラフマー像に捧げた三つの願いは、どれも自分のためではなかった。


「戻りましょうか」


戻ってきた鈴羽は、静かに刹夜に声をかけた。


刹夜は無言でうなずいた。

その手に持たれたスイカジュースが、ふと視界に入った鈴羽。


刹夜はずっと手に持ったまま飲もうとしない。

思い切って訊いてみる。


「それ……私に買ってくれたの?」


不意に聞いた言葉に、刹夜はわずかに動揺する。

一瞬迷ったが、結局――頷いた。


「ほんとに? なんか今日優しいですね。私が逃げなかったから?」


鈴羽は素直に嬉しそうに笑いながら、スイカジュースを受け取った。

ベトナム料理で塩辛いものを食べた後だったせいか、喉はからからだった。


冷たいスイカジュースを手に持つと、たまらない魅力がそこにあった。


そして、彼女がストローを口に近づけ、吸い込もうとしたそのとき。


バシャッ――!!


刹夜の手が動き、スイカジュースが地面に叩きつけられた。

鈴羽は驚いて声を上げた。


「なっ……なにしてんの!?」

「飲むな。さっさと戻るぞ」


急に怒鳴る刹夜。


鈴羽は呆然とした後、悔しさと悲しさが込み上げてきて、今にも泣きそうだった。

ただスイカジュースが飲みたかっただけなのに、そんなに高いわけでもない。


鈴羽は電話の内容をすべて聞いていた。

彼が姉のクレジットカードの限度額を引き上げたことも。

その額――一千万円。


彼女は何の遠慮もなく、彼のお金を湯水のように使っている。


それに比べて、自分は――

たった一杯のスイカジュースさえ、彼の顔色を窺わなければ飲めない。


胸に溜まった感情が、じわりと熱を帯びていく。

泣きそうになるのを、どうにか堪えて――鈴羽は口をつぐんだ。


ホテルに戻った後も、鈴羽は一言も発さなかった。

ソファの隅に体を丸め、死んだふりのように目を閉じていた。


刹夜も構おうとせず、そのまま寝室へ。

黒岩平吾と電話を繋ぎ、組織の案件を処理していく。


――そして、夜。

約束の時間になった。


砂川彰との会食の時刻だ。


砂川彰の部下が車で迎えに来た。


刹夜は誠意を見せるため、今回保護を最低限に。

連れていくのは――鈴羽ただ一人。


表向きは、皆この小柄な「男」もボディーガードだと思っている。


出発前、刹夜は鈴羽に冷たく言い放つ。


「口を慎め。下手に喋れば命はない。砂川彰は東南アジア最大の麻薬王だ。お前の命なんて、奴にとっては塵ほどの価値もない」


鈴羽は唇を噛みしめ、黙ったまま頷いた。

頭の中ではまだ、スイカジュースの件が引っかかっている。


実のところ、

九条刹夜自身もなぜあれを打ち落としたのか、わからなかった。


もしあのとき止めなければ、鈴羽はもう……。

説明できない感情。


けれど、確かにあの瞬間、手が勝手に動いた。


夜になり、刹夜は黒のオーダースーツに着替える。

袖には龍の刺繍があしらわれ、ヤクザはどうもこういうのが好きらしい。


刹淵組は重要なお得意様なので、砂川彰は最初に彼らをもてなした。

他の組の幹部たちはまだ待機中。


もちろん、全員を一度に集めることはない。

ヤクザ同士、どこに因縁が潜んでいるか分からないからだ。


無用なトラブルを避けるため、彰はすべて個別に招待していた。


会食の場所は、彰のアジトでも、愛人の豪邸でもない。

独特なタイ族の高床式住居だった。


三国の境界が交わるこの土地ならではの、風土と文化が混じる不思議な空間。


タイ、ミャンマー、ラオスの気配が入り混じる、緑深いジャングルの中――

異国情緒溢れる木造の楼閣。


まるでリゾートのような美しさだが、その実、ここは黒の権力者たちの巣窟。


鈴羽はそんな場所に足を踏み入れながらも、好奇心いっぱいで周囲をきょろきょろと見回していた。


が、――突然、悲鳴を上げかける。


入口のそばに鎮座していたのは――

巨大なミャンマー産のニシキヘビ。


ぎょろりとした目、くねる長い身体、光沢のある鱗――

その存在感は尋常ではなかった。


「きゃっ!」


反射的に、鈴羽は刹夜に飛びついた。

がっちりと首にしがみつき、震える声で喋れもしない。


蛇が大の苦手なのだ。

しかも、こんな巨大なものは見たことがない。


彰の部下は大笑いした。


「アハハ、驚いた? 心配ないよ。あれは砂川様のペットさ。大人しくて可愛いだろ? この模様なんて最高じゃないか」


刹夜は蛇に対してまったく動じる様子はない。


「ちゃんとしろ」


鈴羽を引き剥がすと、きつく一言。

震える手で裾を握りしめながら、鈴羽は再び立ち直ろうとした。


心の中では、「この人たち、どうかしてる……」と呆れていた。


こんな化け物を玄関先で飼ってるなんて……。

もしお腹が空いて人を飲み込んだらどうするの――

想像するだけで背筋が凍る。


やがて、砂川彰が現れた。

刹夜と抱擁を交わし、形式的な握手を終えると、会食の場へ。


席にはそれぞれの側近が控え、鈴羽は刹夜の背後に立つ。

タイ族の伝統衣装を身にまとった美しい女性が、お茶を注いでまわる。


そんな中――

砂川彰が、ぽつりと口を開いた。


「……九条さま。弟がそちらの縄張りで大正グループと勝手に接触して話を聞いてな……どうやら、それであなたを怒らせたそうですよね?」


――鋭い。

表情ひとつ変えなかった刹夜だが、心の中に警戒心が走った。


このジジイ……探りを入れてる?

それとも――もう何か知っているのか?


でなければ、あえてその話題を持ち出す理由がない。


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