江藤小雪が初めて、拓海の前で、その邪悪な本性を露わにする。
「あの女に、私が味わった苦しみを、そのまま味わわせてやる」
ダメ、そんなこと! 全ては罠だったんだ。
私を陥れるための罠。
江藤小雪の真の目的は、私を徹底的に破滅させることだった。
「拓海、聞いて、私、本当に小雪を傷つけろなんて頼んでない!あのチンピラたちとは無関係なの、彼らは私を狙ってきたんだ、信じて!」
分かっていた。全ての決定権は拓海にある。私は彼に頭を下げるしかない。彼の腕を掴み、必死に懇願した。
どうか慈悲を、こんな仕打ちはやめてほしいと。
拓海は微かに顔を背け、一瞬、眼底に哀れみが掠めた。
「これは小雪への借りだ」
やめて、拓海…
「お前は罰を受けるべきだ」
彼が手を叩いた。
護衛たちが、あのチンピラ数人を連れて現れた。
私は恐怖で首を振り、涙があふれ落ちる。
「拓海、拓海、そんなこと、ダメだよ、私は無実なの、やってない、信じて、信じてくれ!」
彼はしゃがみ込み、冷たい指先で私の涙をぬぐった。
「どうして反省しないんだ? 俺を手に入れたのに、なぜ小雪まで追い詰める?」
そして私を抱き寄せ、耳元で囁いた。
「心配するな、俺はお前を嫌ったりしない。この借りを返したら、何事もなかったようにしよう。お前は相変わらず、俺の妻だ」
そう言うと、彼は躊躇なく私を突き放した。
「あとは任せた!」
私を置き去りにし、小雪のもとへ駆け寄る。彼女を屋上の縁から抱き下ろし、出口へ歩き出した。
江藤小雪、お前の勝ちだ。
拓海は永遠に、お前を選ぶ…
「拓海、後悔する… 必ず後悔させてやる!!!」
「こいつはお前たちのものだ!」
護衛たちは踵を返し、彼の後を追って階下へ降りた。
金髪の男とその手下たちが、私へと迫ってくる。
私はかろうじて残った冷静さを保ちながら言った。
「私を見逃して。分かってる、お前たちは江藤小雪に雇われたんだろ? あの女が払った額の倍、いや三倍払う!」
正体を明かす。
「私は黒澤家の令嬢だ。私に手を出せば、家族がお前たちを許さない」
金髪は説得されたようで、仲間たちと目配せした。
彼は探りを入れるように言った。
「あの方は一千万円くれた」
「三千万払う…」
車の中、江藤小雪は子供のようにおとなしく、拓海の胸に丸くなっている。
真希は今、きっとひどい目に遭ってるんでしょ? ふん、兄ちゃんと寝たってどうだっていうの? 兄ちゃんは潔癖症だから、複数の男に犯されたお前なんか、もう絶対に触らないわ。
これで、お前たちの関係は完全に終わりね…
しかし、拓海の思考は七階の屋上に漂っていた。
昨夜、彼の下で喘いだ彼女の姿が脳裏をよぎる。
今、別の男たちに犯されているその姿を想像すると、窒息するような感覚が体内を駆け巡った。
この件は真希が悪い、自分は間違っていない、と彼は自分に言い聞かせた。
この試練を乗り越えれば、真希も小雪をこれ以上狙わなくなるだろう。
何事もなかったように、彼女は相変わらず自分の妻でいられる。
だが…
乱れた足音が、再び屋上に響いた。
拓海は一目で、あのチンピラたちが談笑しながら外へ出て行く姿を捉えた。
金髪は拓海を見つけると、目を伏せて卑屈に言った。
「旦那様、お頼みの件、終わりましたよ。」
月明かりの下、ボロボロの服をまとった私は隅っこに座り、息も荒げずにいた。
拓海は誰かに胸を殴られたような衝撃を受けた。
彼は上着を脱ぎ、私を強く包み込んだ。
認めたくなかったが、彼は後悔していた。
だから途中で引き返し、この惨事を止めようとしたのだ。
だが、遅すぎた…
私は虚ろな目で頭上の星空を仰ぎ、力なく呟いた。
「…拓海、これで満足?」
彼はただ私を抱きしめ、その腕はますます強く締まった。
そして私の視線は、あのチンピラたちを捉えると、無言で口元を歪めた。
私はレイプされていなかった。
あのチンピラたちは金を受け取り、私と共に一芝居打ったのだ。
彼が私を複数の男に犯させると決めた瞬間、彼への最後の情も消え失せた。
罪悪感、後悔、苦痛を背負わせ、そしてある日、全てが彼の愛しい妹の自作自演だと気づき、私を冤罪にかけたことに絶望させる。
「もう大丈夫、全て終わった」
拓海は身をかがめて私を抱き上げた。
「何事もなかったことにしよう。大人しくしていてくれ。これからもお前は俺の妻だ」
でも、拓海、「私はもうあなたの妻でいるのが嫌だ。
私はと口をきかず、無視し続けた。
彼は私を高層マンションへ連れ戻し、ベッドに横たわり生気を失った私を見つめた。
医師の診察後、何を告げられたのか、彼は眉をひそめてうなずいた。
夜、彼は食事を作り、私の前に置いた。
私は反応しなかった。
私を呼んでも、無反応。
「真希?」彼は少しイライラしていた。「飯を食え!」
私は黙り込み、彼を見ず、口を開けなかった。
彼は怒って箸を放り投げた。
「 悪いのはお前だ、お前が最初に小雪傷つけただろう!」
それでも私は無視し、昼は窓の外をぼんやり見つめ、夜は天井を呆然と眺めていた。
彼のイライラは次第に募っていった。
医師たちが次々と訪れては帰っていく。
最後に来たのは心理カウンセラーで、彼は拓海に、私は大きなトラウマから防御機制が働き、心を閉ざしているのだと告げた。
このままでは、取り返しのつかないことになると。
その夜、拓海は私のベッドサイドで一晩中見守った。
彼は私の手を握り、道理を説こうとした。
全ては私の自業自徳であり、彼はただ罰を与えただけだと。
彼は言った、自分はそんな古い考えの男じゃない、この事件を気にしたりしない、離婚したりしないと。
足りない、まだ足りない…彼の苦しみはまだ十分じゃない…
夜が明け、疲れからベッドの縁でうたた寝した彼は、ほんの一瞬目を閉じたが、目を開けると、ベッドの上に人影はなかった。
「真希!」
そよ風がカーテンを揺らす。開け放たれた窓辺に、長い髪をなびかせ、今にも落ちそうな私が立っていた。
拓海は驚愕し、背後から私を抱きしめ、ベッドへと連れ戻した。
「何をするつもりだ? 自殺でも考えているのか?」
彼の手が震えていることに、私は気づいた。
咄嗟に、説明の言葉を飲み込んだ。
自殺するつもりなんてなかった。ただ、彼の匂いのない空気を吸いたかっただけだ。
彼が自殺未遂だと誤解するなら、それもまた良し。
誤解させておけばいい、後悔させておけばいい。
拓海はベッドに横たわる私を見つめ、ふと、初めて出会った日のことを思い出す。
真っ赤なワンピースを纏った私は、人混みの中で灼熱の太陽のように輝いていた。
かつての私はまさに明るい小さな太陽で、いつも情熱的で元気いっぱい。
走り回ったり歌ったり旅行したり、ファッションもバラエティ豊かで、アプローチする男も多かった。
でも一番好きだったのは、彼にくっついていること。
彼が寺で瞑想する時は、私も寺に泊まり込んだ。
精進料理は嫌いだったが、彼のために無理して食べ、それを何年も続けた。
彼が病気の時、忙しく動き回り薬を飲ませ世話を焼いたのはいつも私だった。彼が目を開けると、私は大きな笑顔を見せた。訳の分からないおまじないを唱えたりもしたっけ、「災い飛べ~病魔飛べ~」って、本当にバカみたいに…
彼を愛し、彼を想い、彼を慕う。それは私の口癖だった。
彼の好き嫌いは全て覚えていた。
彼が嫌うものは、私も一切手を出さなかった。
いつから、私は変わってしまったのだろう。
家に閉じこもりおとなしくなり、服もカラフルなものからシンプルな地味な色へ。身にまとう香りも、千変万化から無臭へ。
小さな太陽だった私は、淀んだ水溜まりとなり、そして今や、この蒼白で触れれば崩れそうな姿へと…
彼は自問した。
果たして自分は、本当に間違っていたのかと。