拓海は小雪を揺り起こし、今まで見たこともないほど焦りと恐怖を浮かべていた。
「真希はどこだ?」
小雪は頭を押さえながら、記憶を呼び戻す。
拓海が病室を出て行ったあと、小雪は勝ち誇ったような気分で、ベッドで死人のように横たわる真希を見下ろしていた。
聞いたところによると、ここ数日真希は何度も禁断症状を起こし、そのたびに拓海の部下が抑えてきたらしい。
その薬は、アメリカで新しく開発されたドラッグで、ウイルスの十倍もの破壊力を持つという。
一度手を出せば、一生苦しみから逃れられず、目が覚めている間は骨が噛まれるような痛みに襲われ、発作の時はもはや人間とも思えない惨状に陥る。
生き地獄とはまさにこのことだった。
「真希、これが私に逆らった罰よ」小雪は真希の手首をきつくつかみ、「今、きっと死ぬほど痛いでしょう」
しかし、その言葉が口から出る前に、ベッドの真希が突然目を見開き、隣にあった魔法瓶を振り上げて小雪の頭に叩きつけた。
その瞬間、小雪の意識は途切れた。
もちろん、小雪が拓海に真実を話すはずがない。
彼女は涙ぐみながら訴えた。
「さっき、お姉さんに頭を殴られて気を失ったの。どこに行ったかなんて知らないよ」
真希を失うかもしれない不安が、拓海を支配していた。
本当は真希のことが好きではなかった。
かつては、彼女が自分の前から消えてくれればいいとすら思っていた。
だが、いざ真希がいなくなると知った瞬間、なぜか胸が締めつけられるような焦燥に駆られた。
「探しに行く!」
今すぐ真希を探し出し、連れ戻さなければ――
拓海が立ち上がろうとしたその時、小雪が彼の手を掴んだ。
小雪は涙をこらえ、切なげに見上げる。
「お兄様、私、怪我してすごく痛いの……抱きしめてくれない?」
長年、小雪を大事にしてきた拓海は、つい手を伸ばしかけた。
小雪は嬉しそうに両手を広げて待ったが、拓海はその手を引っ込めてしまう。
信じられないという表情の小雪。
それ以上に彼女を絶望させたのは、拓海の言葉だった。
「小雪、真希もまだ怪我してる。今は彼女を探さないと。ここで大人しく待っててくれ」
そう言い残し、拓海は本当に部屋を出て行こうとする。
小雪は悔しさに歯を食いしばり、爪を床に立てた。
拓海がドアを開けた瞬間、向こうでちょうどドアをノックしようとしていたスーツ姿の男と鉢合わせた。
「誰だ?」ここは真希の病室のはずだ。
この男は真希の知り合いなのか?一体、いつそんな男と知り合ったのか。
「こんにちは。私は江藤真希さんの依頼を受けた弁護士です。あなたは江藤拓海さんですね?」
弁護士?真希が弁護士に何を頼んだ?
「用件は?」
身分を確認した弁護士は、鞄から一通の書類を取り出した。
「これは、江藤真希さんからお預かりしている離婚届です」
離婚届?
拓海はそれを奪い取るようにして手に取った。タイトルの太字が目に刺さる。
本当に――彼女は離婚する気なのか。
あんなに自分を想い、何もかも捧げてくれたはずだったのに。
きっと怒っているだけだ。きちんと説明すれば、きっとわかってくれるはずだ。
拓海はすぐに病院の監視カメラ映像を確認させ、真希が病院を出て行ったことを知る。彼女の足取りをたどると、最初は大使館、その後は空港へ向かっていた。
――
私はパスポートと航空券を握りしめ、電光掲示板のフライト情報をじっと見つめていた。
実は、ずっと前から覚悟はできていた。二十八日には拓海との全てを終わらせると決めていた。少しばかり過酷な結末になったけれど、これでやっと幕を下ろせる。
この数日、私はほとんど眠っているふりをして、拓海と顔を合わせないようにしていた。
今日、ついに好機が訪れた。彼がいない隙に小雪を気絶させ、病院を抜け出した。
大使館で移民の手続きをして、道すがら弁護士に離婚届を託し、そのまま空港へ向かった。
あと一時間で私は飛行機に乗り、遠い国へと旅立つ。もう二度と戻ることはない。これで、拓海と小雪は思う存分幸せになれるだろう。
隣の席に座っていた少女が、ずっと私を見ていたらしい。いつから見ていたのか、そっと声をかけてきた。
「すみません、大丈夫?ずっと震えてるし、顔色もすごく悪いよ」
私は震えているのだろうか?
ふと下を見ると、確かに手も足も小刻みに震えている。何でもないと言おうと口を開いたが、代わりに白い泡が口からこぼれ落ち、そのまま椅子から崩れ落ちて痙攣し始めた。
周りの人たちが驚いて声を上げる。
すぐに空港のスタッフが駆け寄ってきて、それから先のことは何も覚えていない。
私は飛行機に乗れず、そのまま市立病院に運ばれていた。
目が覚めると、見知らぬ人々が私の周りを取り囲んでいた。
「目が覚めましたね」と医者が声をかける。「お話できますか?」
私はうなずく。
「ご家族に連絡を取りたいのですが」
私の家族はみんな海外にいる。日本で連絡できるのは拓海くらい。でも、もう一人、親しい友人がいた。結局、彼女に頼るしかないか――
佳穂が電話を受けて病院に駆けつけるまで、三十分もかからなかった。
忙しい仕事の合間を縫って来たのだろう、黒のスーツに白いシャツ、手にはビジネスバッグ。髪は乱れ、普段の余裕は見えない。
「どうしたの、真希、こんな姿になって……」南佳穂はベッドの傍らで、途方に暮れていた。
少し会わないうちに、どうして彼女がこんなに変わってしまったのか。
私は無理やり笑顔を作って応えた。
医者は佳穂を連れて病室の外へ、病状説明に向かった。
佳穂は信じられないものを聞かされた。
「そんなはずありません。真希がドラッグなんて、彼女はお酒すらほとんど飲まないんですよ!何かの間違いじゃないですか?」
「間違いありません」医者はため息をつきながら言う。「警察にも連絡済みです。もうすぐ来るでしょう。江藤真希さんには、ぜひ警察の指導のもと、治療に専念するよう説得してください」
佳穂は冷たい廊下の壁にもたれ、現実を受け止めきれないでいた。
真希がドラッグを?絶対に信じられない。しかし、病院の検査結果は確かだった。
一体彼女の身に何があったのか。
問いただしたい気持ちでいっぱいだったが、真希の静かな視線に触れ、何も聞けなかった。
警察はすぐにやってきた。
薬物事件は重大な問題だ。
病室は、ほとんど人でいっぱいになった。
幸い、憔悴しきった私を見て、警察も穏やかな口調で話してくれた。
私は途切れ途切れに、自分が拉致され、無理やり薬物を注射されたことを伝えた。自ら手を出したわけではないと――
だが、これはあくまで私の証言。誰かが、それを証明しない限り、信じてもらえない。
「それを証明できる人はいますか?」
私は黙り込んだ。
拓海、小雪、それにあの日の犯人たち――みんな証人になれるはずだ。
しかし、拓海や小雪が私のために証言してくれるはずがない。
「犯人を捕まえれば、私の話が本当だとわかります」
警察は顔を見合わせた。
「江藤真希さん、あなたが示したのは犯人の特徴だけ。他には何も手がかりがありません。もし真実を証明できる人物がいるなら、迷わず教えてください」
佳穂はずっと私のそばで話を聞いていた。私が拉致され、薬物を注射されたと知ると、目に涙を浮かべ、もうこれ以上聞いていられない様子だった。だが同時に、彼女は私の話に何か引っかかるものを感じていた。
――私は最後まで、拓海の名前を口にしなかった。