拓海は呆然としたまま、手を彼女の平らなお腹の上に置いていた。
まさか、ここに子どもがいるなんて——。
「あなたとの子どもよ。」
真希は恥ずかしそうに顔を上げ、「嬉しい?」と尋ねた。
拓海は、自分が嬉しいのかどうか考える暇もなく、まるで神経が麻痺したように、ゆっくりとうつむいた。
しかし、どうしても「嬉しい」とは言えなかった。
「いつ気づいたんだ?」
声はかすれ、胸の奥に得体の知れない感情が渦巻いた。
「この前、あなたが病院に来てくれたときに知ったの。本当は、黙っておくつもりだった。」
なぜ拓海に黙っていようとしたのか、二人には言葉にしなくても分かっていた。
もし最近の拓海の態度が変わってなければ、きっと彼はまだ知らされていなかっただろう。
結局、真希の妊娠が発覚したことで、その晩の食事は中止となった。
「何か食べたいものはある?」と拓海が尋ねると、真希はさっぱりしたものが食べたいと言い、厨房でお粥を作ってもらった。
食べ終わると、またすぐに眠気が襲ってきた。
拓海は真希が眠るまでそっと見守り、静かに部屋を後にした。
書斎に戻った彼は、巨大な財閥を率いる社長でありながら、インターネットで「妊婦の注意点」を一つひとつ検索し、スマートフォンにメモして、食事や睡眠、水分補給の時間になるとアラームまで設定した。
もし過去にあんなことがなければ、彼はきっと「理想的な夫」だったのだろう。
そのせいか、江藤グループの社員たちは気づき始めた。
ついこの間までピリピリしていた社長が、急に機嫌がよくなり、職場の空気も明るくなったのだ。
そして結婚式の招待状が届くと、皆は納得した。
「なるほど、社長に喜びごとがあったのか」と。
同時に、小雪の元にも拓海と真希が結婚するという知らせが届いた。
「小雪、どういうこと? お兄さん、どうして真希と結婚するの? 二人は別れたんじゃなかったの?」
凛も続けた。
「小雪、あなたが拓海と結婚するって言ってたじゃない。真希さんが何か仕掛けたんじゃないの? 拓海を奪ったとか——」
「絶対そうよ。真希って、欲しいものは手段を選ばず手に入れるタイプだもの。小雪、こんなことで引き下がっちゃだめ。私も凛も応援するから、一緒に真希と戦って拓海を取り戻そう!」
拓海は東京の名家すべてに招待状を送り、海外の取引先にも知らせを届けた。
まるで世間に堂々と宣言するかのようだった。
佐々木春香や木村凛の家にも招待状が届いた。
二人はすぐに小雪のいる病院へと向かった。
小雪は手にした金色の招待状を握りしめ、目には怒りが渦巻いていた。
新婦:江藤真希
新郎:江藤拓海
挙式は十月三十日。
ご臨席を賜りますよう、心よりお願い申し上げます。
——ふん。
真希もよくやるわ。自分の子どもじゃないのに、拓海と結婚式を挙げるなんて。まあ、せいぜい夢を見ていればいい。どうせすぐにその夢は壊れるのだから——
「分かったわ。この件は私が何とかするから、あなたたちはもう帰って。」
二人がいつまでも話し続けるのが鬱陶しかった。
二人が去ると、小雪は真希に電話をかけた。軽く挨拶してやるつもりだった。
ちょうどその頃、真希は食事を終えて庭で散歩しながら、池の錦鯉に餌をやっていた。
小雪から電話が来るのは予想していたが、思ったより遅かった。
てっきり、小雪なら自分の妊娠を知った時点で、すぐに拓海のところへ行って悪口を吹き込むと思っていた。
待てども小雪は何もせず、仕方なく自分から拓海に妊娠を告げたのだった。
「もしもし。」
真希はスピーカーモードにして、携帯をそばに置いた。背後には江藤家の使用人たちが立っていた。
拓海の命令で、真希に何かあったら困るから、常に付き添うように言われていたのだ。
「まさかあなたから電話が来るなんて、ちょっと意外だったわ。」
小雪は真希の言葉の裏を気にもとめず、ただその言い方に苛立ちを感じた。
「妊娠したって本当?」
真希は餌をやる手を止め、口元に微かな笑みを浮かべた。
「さすが小雪さん、情報が早いですね。」
「いつから?」
「一ヶ月くらい前です。」
小雪の予想通りだった。
「お兄さん、もう知ってるの?」
「知ってるわ。」
——拓海は知っていて、それでも真希と結婚するつもりなのか。
きっと真希が拓海を騙しているんだ。この子どもは拓海の子だと信じ込ませて。
拓海はそういう男だ。冷たく見えても、内心は自信家で独善的。
何でも自分で支配できると思い込んでいるけど、女心は分かっていない。
女は目的のためなら、何年でも自分を偽って、男を手のひらで転がすものなのに——。
小雪は、そんな拓海の性格を見抜き、無垢で従順な妹を演じてきた。
彼に守られ、信頼され、すべてをコントロールされていると思わせてきたが——
本当に優れたハンターは、獲物の顔をして現れるものだ。
しばらく沈黙が続いた。真希は小雪が何かきついことでも言うのかと待っていたが——
「真希、今の生活を大事にしなさい。」
ツー、ツー……。
電話が切れた。
真希は手のひらの餌をすべて池に投げ入れた。
——小雪、行動は早めにお願いね。
「奥さま、ご主人がお戻りです。玄関までお願いします。」
拓海が玄関に立っていた。
真希が入ってくると、拓海は彼女の手を取って、一人分よりも大きな黒いベールで覆われた何かの前まで連れて行った。
後ろから目を覆われ、真希は少し不安そうに眉をひそめた。
拓海が執事に合図を送り、執事がベールをさっと外す。
「見て。気に入った?」
真希は思わず目を見開いた。
ウェディングドレス——。
豪華なクリスタルのショーケースの中、ドレスはライトに照らされて輝いていた。
ふんわりと広がるスカートにはダイヤモンドで星が描かれ、キラキラと眩しかった。
このドレス、真希は昔、国内外のトップデザイナーによるドレスの中で一番気に入っていたものだった。
写真を集めて拓海に送り、彼の意見を聞いたことがあったが、拓海は「忙しいから結婚式は当分しない」と言ったのだった。
その後、このドレスは超高級ブランドのコレクションとなり、展示のみでレンタルもできなくなったと聞き、真希はとても残念に思っていた。
「気に入った?」
真希はクリスタルケースに手を触れた。
——なんて美しいのだろう。
このドレスを着て、愛する人と結ばれたら、どれほど幸せだろう。
私は、本当は一番美しい時期に、美しさも愛も幸せも手に入れられるはずだったのに——
選ぶ相手を間違えたせいで、美しさも、愛も、幸せも遠ざかってしまった。
「どうして泣いてるの?」
拓海は彼女を抱きしめる。
「そんなに嬉しいの?」
真希は頬の冷たい涙に気づいた。
嬉しくて泣いたのではない。
もう二度と、この美しいドレスを着て、一番愛する人と結ばれることはないと分かったから——。
もう、その日が訪れない。