目の前にいる医者は、四十歳前後で、拓海が手配した、彼女の治療を担当する医者だ。
賄賂で口止めするのは到底無理だろう。ならば、脅すしかない——。
「覚えておいて。私は妊娠して一ヶ月目よ。」
一ヶ月前、ちょうど煙雲で拓海と関係を持った時期だ。
彼女が拓海と初めて結ばれたのは、真希と拓海が関係を持ったわずか一週間後だった。真希はその翌日、金髪の連中に襲われた。思えば、すべての出来事が短期間に集中している。
もし調べられたら、自分のお腹の子どもも、あのチンピラたちの子と疑われてもおかしくない……。
小雪は、拓海が自分をどこまで信じてくれるかに賭けていた。
もちろん、医者が偽証を引き受けるはずがない。
小雪は落ち着いたままスマートフォンを取り出し、ある動画を再生した。
画面には、目の前の医者が看護師と浮気している様子がはっきりと映っていた。顔も、体位も、二人の卑猥なやり取りさえも、全て鮮明に聞き取れる。
「奥さんは、あなたがこんな裏の顔を持ってるって知ってるの? この動画をばら撒いたら、仕事も家庭もどうなるかしら。息子さん、もうすぐ大学受験なんでしょ? もしこれで集中できなくなったら、あの子の人生、台無しになるかもね。」
医者の表情が険しくなり、怒りを隠さず小雪を睨みつけた。
小雪は、彼が折れると確信していた。焦らず、静かに結果を待った。
やがて、医者は大きくため息をついた。
「分かりました……どうかお手柔らかにしてください、小雪さん。」
彼は深々と頭を下げ、その瞳には冷たい光が一瞬走った。
――――
結婚式まで、あと二日。明後日には、真希は拓海の花嫁になる。
その夜、冬の初雪が静かに降り始めた。
手入れされた庭の植物も、宇宙の法則には逆らえず、葉を落とすしかなかった。
池の錦鯉たちも、寒さのせいか底でじっとしている。
真希は手を伸ばし、そっと雪片を受け止めた。掌の中で、雪はなかなか溶けなかった。
「風邪ひくよ。」
拓海が毛布を持ってきて、後ろから真希を包み込む。
二人は並んで庭先に立ち、降りしきる雪を黙って見つめた。
静かな時間を、誰も壊そうとしなかった。
あの日以来、少しずつ近づきかけた二人の間に、また小さな溝ができていた。
最近の拓海は、仕事や結婚式の準備を理由に、朝早く家を出て、夜遅く帰るようになった。真希が彼に会う時も、ただ微笑んで挨拶する程度で、彼の気遣いにも、どこか距離を感じさせる返事しか返ってこなかった。
時々、発作で意識が朦朧とする中、真希は拓海が付き添ってくれているのを感じることがあった。
だが目を開けると、彼はいない。
真希は一度、もしこの壁を越えられないなら、結婚式をやめてもいいと話したことがある。
拓海は「余計なことは考えないで」とだけ答えた。
彼は何事もないふりをしていたが、真希にはわかっていた。
毎晩悩み、苦しんでいること。
かつては小雪だった拓海の心の拠り所が、今は自分に変わっていることを。
彼女は、拓海を自責と葛藤の渦に巻き込むことには成功した。
だが、それでも、彼が受けた傷は、真希が受けた痛みのほんの一部に過ぎなかった。
真希は、彼にもう一つ大きな「贈り物」を用意していた——。
「旦那様」
執事はできれば二人の時間を邪魔したくなかったが、「小雪さんがいらっしゃいました。お会いしたいそうです。」
小雪?
最近、彼女とは顔を合わせていない。
何の用だろう、また真希に何か仕掛けに来たのか……。
「先に二階へ行ってくれ。」
真希はうなずき、拓海の視線を受けながら階段を上った。
「小雪を応接間へ通して。」
執事はうなずき、厨房に真希の食事を用意するよう指示し、拓海は応接間へ向かった。
久しぶりに会う小雪は、以前よりずっとやつれて見えた。黒いロングドレスに身を包み、髪は無造作に束ねている。拓海の顔を見ると、大きな瞳に悲しみが広がる。
「どうしたんだ?」
トラブルでもあったのかと拓海は思った。
最近は顔を出していなかったが、秘書には病院の様子を確認するよう指示していた。もし小雪の容態に変化があれば、すぐに自分へ知らせるようにと。
つい先日も、秘書に様子を聞いたばかりだ。小雪の病状は安定していて、悪化の兆候もないという。
顔色も悪くないのに、なぜこんなに悲しそうなのか?
小雪は、くしゃくしゃになった紙を掌に広げ、拓海の前に差し出した。
「何だ、それは?」
「見て。」
小雪の声はかすれ、手は震えていたが、目だけはしっかりと拓海を見据えていた。
拓海は動かない。小さく折りたたまれた紙切れなのに、なぜだか不安を覚えた。
「早く見てよ。」
小雪に促され、深く息を吸って紙を受け取る。たかが紙一枚だ。最近の自分は少し神経質になりすぎている。
何の躊躇もなく紙を広げた瞬間、拓海の瞳がみるみるうちに細くなった。
「ありえない……こんなはずがない!」
小雪は苦しげに微笑んだ。
「私だって、こんな現実、信じたくない。でも、私にはどうしても諦めきれないの。お兄ちゃん、だってこれは——私たちの子なのよ。」
小雪はお腹を抱え、声もなく泣き始めた。
拓海は椅子に崩れ落ち、頭の中が真っ白になった。
小雪が、自分の子どもを身ごもっている——。
「こんなこと、あってはならない……」
自分たちは兄妹なのに、どうして——。
「堕ろせ!」
会う前から、小雪は拓海が信じないか、あるいは堕胎を求めるか、どちらかだろうと予想していた。
前者なら厄介だが、後者ならむしろ好都合だ。
なぜなら彼が堕ろせと言うのは、どこかでこの子が自分の子だと認めている証だから——。
「お兄ちゃん、私はこの子を堕ろさない。」
小雪は涙を拭いながら、拓海を真っすぐ見つめた。その瞳には、隠しきれない愛情があふれていた。
「本当はずっと言えなかった。私は妹としてじゃなくて、一人の女として、あなたを愛してきたの。だから三年前、家族のためにあの人と結婚するよう言われた時も、あなたを困らせたくなくて、受け入れた。」
「あなたが自分の結婚を犠牲にして、私の自由を取り戻してくれたって知った時、本当に辛かった。苦しくて、遠く離れるしかなかった。時が経てば、あなたへの想いも消えると思った。でも、あなたは現れて、そばにいてくれた。ご飯を作ってくれて、私の看病もしてくれた。」
「私が生理で辛い時も、あなたの温かい手で癒してくれた。あの時、私はもう、この先誰も愛せないって、分かったの。」
「私はあなたを愛してる。だから真希に嫉妬して、たくさん間違いも犯した。罰も受けた、白血病もそう。」
「でも、後悔していない。ただ知ってほしかったの。私は真希に負けないくらい、あなたを愛してる。この子は絶対に堕ろさない。あなたが結婚したら、私は子どもと一緒に、永遠にこの家を去る。二度とあなたたちの前には現れない。」
「お願い、お兄ちゃん……」